第39話 裏切り

 隼人と澄香の間に、しばらく沈黙が続く。

 二人の間には、重苦しい空気が流れていた。

 澄香は、あまりにショッキングな出来事であったために、すぐに言葉を発することが出来なかったのだ。

 隼人は、澄香の様子を見て、少し間を置くことにする。

 すると、澄香は深呼吸をして、ようやく落ち着きを取り戻す。

「でも。どうして、子供を産ませてまで骨髄ドナーを作る必要があるの? 世の中を探した方が効率が良い気がするけど」

 その質問に、隼人は即答する。

「その方が、確率が高いからさ」

 隼人は忌々しく述べる。

 澄香も薄々は感じていたことだった。

 だが、現実を突きつけられることを恐れて、あえて考えないようにしていた。

 その答えは、想像以上に非情なものであることを覚悟する。

 隼人は口を開く。

「ドナーが見つかる確率は他人の場合。どれくらいか? それは数万から数百万分の1だ。その為、骨髄移植を受けられない患者は少なくない。

 兄弟姉妹間でも4人に1人で確率としては高いが、特集で隆元のことを見た時は兄弟が居ないと聞いている。となれば、次の候補は親子だ」

 隼人は淡々と説明する。

 澄香は黙って聞いている。

 隼人の声は、どこか冷たく感じる。冷静に事実のみを把握して口にしなければ、心が壊れてしまうと思っているようでもあった。

 隼人は続ける。

「親子とHLA(ヒト白血球抗原)が一致する確率は約1/30だ。つまり、300人も子供が居れば10人は骨髄ドナーの候補となる訳だ」

 澄香は絶句した。

「でも。そんな赤ちゃんを骨髄ドナーにするなんて……」

 その声は消え入りそうなほど弱々しい。

 澄香は、その先を言うのを躊躇った。

 自分の口からは言いたくない。

 それが、澄香の本音だった。

 隼人は、その言葉の意味を察し、代わりに言う。

「できる訳ないだろ。骨髄ドナー登録は、20歳以上にならないと出来ないんだ。赤子が生きようが死のうが関係ねえ。一滴残らず、骨髄を絞り尽くすだけだ。テメエが生き残るためにな。

 白血病には、急性と慢性の二種類があるが、急性の場合2~3か月で生命に危険が及ぶが、慢性の場合平均余命4~5年と聞く。

 隆元の場合、主治医によってほぼ毎週健康診断をされていた為に発見が早かったのだろう。疑いが出た瞬間に自身に合うドナーが居ないことが判明。それからすぐに、このエゲツナイ計画を実行」

 隼人の口調は荒い。

 それでも、怒りを抑えているのが分かる。

 澄香は、その矛先は、隆元に向けられていることも同時に理解出来た。

 隆元は、この事実を知っている。

 知っていながら、平然と代理出産を続けさせている。

 澄香は、改めて恐ろしさを感じた。

 こんなことをしている人間が居るという事実に、吐き気すら覚えた。

「カルテにあった、不適合というのはそういうことなのね」

 澄香はそう言って、言葉を切る。

「女を。子供を何だと思っていやがる……」

 その言葉は、隼人の心の底からの叫びのように聞こえた。

 澄香は、隼人の心情を理解する。

 隼人の母親は、隼人を生むと死ぬと分かっていても隼人を産み、自分の人生を犠牲にした。命を繋いでくれた。

 彼にとって親という存在は、かけがえのないものだ。

 その親が、自分が生きながらえたい為に、赤子を犠牲にするなど許せるはずがない。隼人の母親がした行為への冒涜だ。

 澄香は、隼人の目を見つめる。

 その目には涙が浮かんでいた。

 隼人は、その視線に気付き、慌てて目を拭く。

 澄香はその姿を見て思う。

 やはり、彼も同じ人間なのだ。

 隼人が泣いていた理由が分かったような気がした。

 彼は、母親を殺したという罪悪を、ずっと抱えてきたのだと。

 普段はクールで感情を表に出さないが、彼は紛れもなく一人の人間だ。

 隼人は冷静さを取り戻そうと、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 そして、隼人は気がつく。

 自分達を付けている存在が居ることを。

 隼人は、自然な仕草で、後方を確認する。

 ビジネスコートを着た男が4人居た。

 おそらく、黒瀧の手の者であろう。

「澄香」

 隼人は呼びかける。

 そして、真剣な眼差しを向ける。

 それだけで澄香は理解し、小声で言う。

「敵ね」

 隼人は静かに首肯した。

 二人は気づいた素振りを見せずに、そのまま歩き続ける。

「どうする?」

「できることなら撒きたい」

 澄香に隼人は答える。

 隼人達は角を曲がる。

 表参道の喧騒が遠ざかっていく。

 そして、人気の無い路地へと入る。

 すると、背後から足音が聞こえる。

 間違いない。追ってきたのだ。

 二人の歩幅は大きくなる。

 前方に6人の男達が左右の路地から見えたところで止まる。

 黒鞘の刀を全員が手にしていた

 前方の道を塞がれた。

 後方を見れば、4人の男が追いつく。

 ビジネスコートの内側から刀を取り出す。

 一般的な刀の全長は約95cm。

 膝丈までのコートであれば、充分に隠すことができる。

 男達は刀を手にし抜刀する。

 襲撃場所として、ここを候補にしていたのだろう。うまく巻いて逃げたつもりが、追い込まれていた。

 澄香はラクロスケースから刀を抜き、隼人も打裂羽織を解いて、無鍔刀を抜く。

 二人は申し合わせた訳でもなく、澄香は隼人の背を守るように立ち、後方の4人に対し睨みを効かせる。

 隼人は目の前に立ち塞がる、前方6人達の男達を睨む。

 リーダー格と思われる男が正面に立つ。

 年の頃は40代前半くらいだろうか。体格の良い男であった。

 男はスーツを着ているが、見るからにカタギではないオーラを放っている。

 その顔は、どこか見下したような表情を浮かべる。

 隼人は、鋭い目つきで睨む。

 しかし、男は動じることなく口を開く。

「《なにがし》だな」

 隼人は黙って相手を見る。

 相手の表情は変わらない。余裕の笑みさえ浮かべているように見える。

 隼人は答える。

 それは、いつもの丁寧な口調ではなく、荒々しいものがある。黒瀧の陰謀を知ったばかりなので感情が高ぶっていた為だ。

「だったらなんだ?」

 男はニヤリと笑う。

 それは、勝利を確信した者の笑顔だった。

 隼人は構わず続ける。

「今日は館長さんは居ないぜ」

 それは、相手を挑発するような言葉だった。

 男のこめかみがピクリと動く。

 隼人の言葉が勘に触れたようだ。

 その言葉を聞いた瞬間、男の目が細くなる。

 隼人の言葉の意味を理解したからだ。

「澄香。目の前に居るだけに集中しろ。後ろの奴らは俺が何とかする」

 隼人は、それだけ言うと、一歩前に出る。

 澄香は隼人の背中を見て、その言葉の意味を理解する。

 その人数を相手に一人で戦うと言っているのだ。

 だが、それは不可能だ。

 いくら隼人が強くても、一度に相手に出来る人数は限られている。

 澄香は隼人の20人斬りを見てはいるが、囲ませながらも敵を分散させていた。しかも相手は剣道崩れの三流以下。

 前回の雑居ビルでは、逃げとなる広さがあったが、今回は道幅が6人も並べば手狭になる狭い道での戦いだ。

 敵を分散させることはできない。

 澄香には、それが分かっていた。

 それでも、彼は8人を相手にしようとしている。

 澄香は隼人を信じて、任せることにした。

「分かったわ」

 隼人は、もう一歩前へ出るが、それはフェイクだ。相手が先に動いた時に、即座に反応できる位置まで近付く為だ。

 だが、前方の6人は動かない距離でいる。

 隼人は踏み込んだ脚を使って後方に向かう軸足にすると、反転して後方に向かって走り出す。

 隼人の刀は二尺(約60.6cm)しか無いため間合いが短い。その為、入身になって懐に入り、攻撃する必要があった。

 だが、隼人はまだ間合いの外であるにも関わらず、刀を振り始める。

 両手ではなく、右手のみで。

 手を手貫緒で絡めていたが、手は前へと滑り出さないためのストッパーであるために、柄の上では自在に動かすことができる。右手の内側で柄を滑らせ握る位置は柄頭の端まで持っていく。

 柄頭を、親指、人差し指、中指の三本で握る。

 古流剣術では剣道のように左手で柄頭を握るようなことはあまりない。流派によっては、右手と左手を寄せて柄を握る。

 それは、刀の中子は柄の端まで達していない場合が多いからだ。柄頭付近は刀身が入っておらず、木の柄だけで成り立っているのだ。

 この為、衝撃によっては柄のその部分から折れてしまうことがある為、左手は中子がある部分を握るようにするのだ。

 だが、隼人は無鍔刀はほぼ柄頭付近まで中子を伸ばした作りにしてある。定寸の刀の柄の長さは八寸(約24.2cm)。

 それに対し、隼人は九寸七分(約29.4cm)の長柄にしてあった。

 これによって、隼人は二尺(約60.6cm)の刀が三尺(約90.9cm)になるだけでなく、半身になって身体を使うことにより最大射程を一尺五寸(約45.5cm)伸ばすことができる。

 つまり、隼人の間合いは伸び、二尺(約60.6cm)の刀が、四尺五寸(約136.4cm)の長尺刀となったようなものなのだ。

 逆袈裟の一刀は先頭にいた男の右手首を半ばまで斬る。

 そして、返す刀で右から左へと水平斬りを放ち、左隣に居た男の右手首をこれも半ばまでを斬った。

 右片手に加え、三本指での握りの為、斬撃力そのものは劣化しているが、刀を握れないようにすることはできた。

 隼人が身を引いて6人の男達に向かった時には、斬撃を受けた男達の手首が枝先で腐った果実のように垂れ下がる。

 二人の男達の反応は一様だ。

 刀を捨てぶら下がった手首を掴み、切断された部分を圧迫止血している。

 その判断は正しい。

 動脈からの出血は止まることはない。放置すれば、失血死してしまうだろう。

 澄香は隼人の言った2人だけに集中しろという意味を、初めて理解した。

(隼人は、あのような技も持っているのか!)

 それと同時に、いずれ隼人と戦う時は、遠間だからと油断できないことも知った。

 殺すのが目的なら、胴体や頭と言った重要な器官が存在する箇所を斬る必要がある。

 しかし、生き残るのが目的なら、別に殺す必要はない。相手を戦闘不能にさえすれば、その時点で勝ちだからだ。

 戦闘能力を奪うにはどうすれば良いか?

 ・視覚を奪う。

 ・武器を持てなくする。

 ・動けなくする。

 だから隼人は、手首や指を狙う。

 腕さえ使えなければ、相手は刀を振るうことができない。

 そして、指先もそうだ。

 指先は特に繊細だ。

 もし、指が欠損した場合、日常生活を送るのにも支障が出る。

 また、剣を持つのであれば、それは致命的だ。

 隼人は、刀を振れなくなった相手のことなど考えていなかった。

 リーダー格と思われる男が叫ぶ。

 その声は怒号と言っていいほどの大きさだった。

 怒りに満ちた表情を浮かべ、5人が隼人に向かって駆けてくる。

 隼人は口元を緩める。

 相手が向かって来るなら、待てば良いからだ。

 男が刀を振り上げると、振り下ろす。

 それを隼人は、身体を捌いて躱しガラ空きになった脇腹に一太刀浴びせる。

 1人目。

 隼人は横薙ぎ振るおうとして来た男に対して、その前に踏み込むと男の鳩尾を逆袈裟に切り上げ、そのまま斜めに斬り下ろした。

 2人目。

 別の男は、隼人の左肩に刀を叩きつける。

 隼人は左脚を引く。

 目の前を刀が通り過ぎる。

 その刀の峰を拳で叩き、加速させると男の刀は地を叩いて切先が折れる。男が、ハッとした瞬間には、男の顎下からから刀が入って抜けた。

 3人目。

 背後から刀が迫る。

 隼人は、身を翻して避ける。

 その男は、さらに踏み込んで上段から打ち込もうとするが、隼人は翻す動作を活かして、刀で相手の右肩から袈裟に斬る。

 4人目。

 隼人が4人目の男を斬った。

 澄香は、1対2という不利な状況にもかかわらず、隼人の動きに目が釘付けになっていた。

 その動きは淀みなく流れるようで、まるで舞を踊っているかのように美しい。相手の攻撃に対し水が流れるような自然さをもって避け、刀の届く距離ならば刀を振って敵を屠る。

(私だって)

 澄香は正面に居る2人の男に目を向ける。

 それは、恐怖で動けないのではなく、自分の役割を理解したからだ。この二人は絶対に通す訳にはいかない。それが任された役割だからだ。

 二人は、同時に左右から襲い掛かってくる。

 右の男の斬撃は、右薙ぎ。

 左の男の斬撃は、左薙ぎ。

 どちらも、刃の向きが真逆である為、どちらを先に防ぐべきか一瞬迷ってしまう。

 その場に居着いていては、左右の斬撃をハサミのように受けることになる。

 だから澄香は、前に出る。

 右の男に対して澄香は地を這うような低さで疾風になって飛び込むと、腹に向かって諸手刺突を入れる。 

 1人目。

 両手で柄を握ることで、もっとも腰が乗せやすい突きだ。

 腹は臓器が密集するところであり、人体で最も弱い部分でもある。

 刀が肉に突き立つ感触と共に、澄香は手応えを感じる。

 幕末の剣士達は、斬るのではなく刺突を一撃必殺の攻撃方法としていた。それは、斬るよりも殺傷能力が高いからだ。

 突かれた場合、内蔵まで傷を負うことになる。その場合、即死ではないがやがて絶命に至る。腸に傷を負うと、便の雑菌が体内に流れ出すだけでなく、腸の消化液が漏れ出して、内部から溶け始める。

 刀を振ればそれだけ隙が大きく斬るよりも、刺し貫く方が早い。

 そして、刺突は斬られるより早く相手を殺すことができる。

 だが、刺突には繰り出した後の態勢が伸び切ってしまう欠点もある。その為、刀を引き戻す必要がある。

 左側の男が居ることを考えれば、そんな時間を取っていては命に関わる。

 だから澄香は刀から手を離した。

 それから脇差に素早く持ち替えると、左から右へと斬り払った。

 男達の視線は澄香の手元に向けられていた。そのせいか、澄香の脇差に気付くのが遅れた。

 脇差は男の胸を切り裂きながら抜ける。

 片手斬りの為、斬撃が浅い。

 澄香は脇差しを切り返し、右脇腹から左肩へと斬り上げた。

 二の太刀を入れて止めとする。

 2人目。

 澄香は、2人の男達を倒した。

 その間に、隼人は5人目の相手をしていた。

 男の持つ刀が振り下ろされる。

 隼人はそれを半歩下がって避けると、相手の腕の下を潜り抜けてすれ違いざまに斬った。

 5人目。

 隼人の背後で斬ったハズの5人の男達が立っていた。

 斬られたにも関わらず男達は血を流しておらず、自身の身に起こったことを不思議そうな顔をしている。

 リーダー格の男が、刀を構えたまま隼人が何をしたのか理解できなかった。

「俺が今、この5人を斬ったにも関わらず、まだ殺していない。どうしてか分かるか?」

 隼人の言葉に男は、ハッとする。

 斬られながらも、その5人の身体は無傷なのだ。

「貴様! 何者だ!」

 男は隼人の正体に気付かなかった。

 隼人は名乗る。

「知ってるだろ。俺が《なにがし》ってよ」

 その声は、普段通りの抑揚のない声だ。

 隼人は左手で指打ちをする。

 音が響く。

 すると、隼人が1人目に斬った男の鳩尾が、突然裂けて倒れた。

 男達は驚愕する。

 それは澄香も同様であった。

「クソ。テメエ!」

 隼人の背後に居た男の一人が叫んで、威圧した。

 彼は、もう一度指打ちをする。

 音が響く。

 すると、2人目に斬った男の顎下が裂けて血が吐き出される。

 男は倒れ、絶命した。

「余計な口を開くんじゃねえよ。立場ってのを理解してねえみたいだな」

 隼人は斬った男達に忠告する。

 異様な状況だった。

 隼人が指打ちする度に、斬られた男達が一人ずつ死んでいくのだ。

 澄香は、何が起こっているのか理解できなかった。

 だが、鬼面の男達に襲撃を受けた時、隼人は刀を振って刃唸りをさせた瞬間、8人の男達が突然裂けて死んだのを思い出す。

 また、黒い道着の鬼面の男に対し、予告した歩数を進むと左大腿が突然裂けたのを思い出す。

 あの時、男はその現象について《闇之太刀》と言っていた。

 《闇之太刀》

 澄香は、その名を鷹村館の世戸重郎から聞いてはいたものの、それがどのような技なのかは分からず、ただ一定の太刀筋だと思い込んでいた。

 しかし、目の前で起こったことを見て、その正体に気づく。

 隼人の斬撃は、男達の肉体を斬るが、その時点では斬撃は痛みも無く傷も裂けない。

 だが、隼人が条件とするものを合図として、突然斬られた箇所が裂けるのだ。つまり、隼人は、相手を斬りながら殺しておらず、合図や条件を以って初めて斬撃が発動する。

 およそまともな剣ではない。

 まるで呪いだ。

 そう澄香は思った。

 斬ると同時に、相手の命を握る。

 まるで死神のように。

(これが、《なにがし》。隼人の使う剣……。なんてむごい殺しをするの)

 澄香は改めて、隼人の恐ろしさを知る。

 それは、自分がどれだけ隼人のことを知らなく恐れていたかを思い知らされた気分だった。

 男達は、恐怖で震えている。

 二人の仲間が死んだのは、隼人の仕業だと分かったからだ。

「さて。質問だ。お前らは何者だ? どうして俺と澄香を狙った?」

 隼人は、男達を睨みつける。

 だが、リーダー格の男は答えない。

 《闇之太刀》を受けた男達の一人が恐怖に耐え切れず、悲鳴を上げ逃げ出した。

 音が響く。

 逃げ出そうとしたところで、隼人が指打ちし《闇之太刀》を使って一人を斬り殺す。逃げ出した男は袈裟懸けに身体が裂け、澄香の間近で倒れる。

 澄香は、思わず目を背けた。

 それから隼人は、リーダー格の男に向き直る。

「答えろ」

 隼人は、静かに言う。

 男は、歯を食い縛りながら隼人を見つめ返す。

 そして、絞り出すように言った。

「……鬼哭館」

 館という名から、道場であることが分かる。

 鬼面を被り、着流しという一律のある姿をしていたことから、ある程度の組織的な動きがあると思っていたが、大方の予想通り剣術道場だったという訳だ。

「ここいらの道場を全部知っている訳じゃねえが、聞いたことのない名前だな。地下での名前か? 表での名は何だ?」

 隼人は問う。

 だが、男は何も言わなかった。

 隼人は舌打ちをして、再度尋ねる。

 男を睨むと、男は怯んだのか少し後ずさりした。

 すると、突然の銃声と跳弾音が、隼人のすぐ脇で発生した。

 隼人が振り返ると、隼人が手首を斬った二人の男が居た。

 一人は澄香を盾にするように後ろからナイフを、澄香の首に刃を突き付ける。澄香の首に左腕を回している為、羽交い締めに近い。

 もう一人が、自動拳銃・54式拳銃を手にして澄香の頭に突きつけていた。


 【54式拳銃】

 中国軍が朝鮮戦争時代にロシア製と中国製のトカレフのパーツを組み合わせて作り上げた51式拳銃を使用していた。

 だが、ソ連と中国との関係が悪化し、ソ連からのトカレフのパーツの供給が無くなったためすべてのパーツの国産化を図り、1954年に完成し、中国軍に正式採用されたのが54式だ。

 特徴的な外観から「ブラック・スター・ピストル」とも呼ばれる中華製トカレフだが、トカレフ、51式、54式はまったく同じ拳銃であり、性能その他の点において差はない。


 男達は右の片手を垂れ下げてはいたが、ある程度の血止めをしたのか、出血は止まっていた。

 恐らくは、隼人がリーダー格の男に気を取られている間に、行動に移ったのだろう。

 リーダー格の男がニヤリと笑う。

 だが、隼人の表情は変わらない。

「おい。刀を捨てろ!」

 54式拳銃を突きつけた男が叫ぶ。

 隼人は、無言のまま右手で刀を持ち捨てようとはしなかった。

「はあ?」

 隼人は冷たく言い放つ。

 男達は隼人の態度と声に肝が一瞬冷える。

 隼人は、男達を鼻で笑った。

 その嘲笑うような笑い方は、男達の神経を逆撫でした。

「その女は、俺の敵だ。共通の目的で行動を共にしていただけだ、とっとと頭をぶち抜け」

 隼人の言葉に男達は戸惑う。

 この男は何者なのだ? なぜ、この状況でこんなことを言えるのだ? 男達は、隼人のことが理解できなかった。

 隼人は、その二人に向かって歩みを始める。

 まるで握手でも求めるかの如く、刀を下げたまま。

「それよりテメエ。誰に向かって撃った? まさか俺じゃねえだろうな」

 隼人は二人の男達に近づきながら言う。

 男達の額には汗が滲んでいた。

 隼人は男達に近寄る。自分に拳銃が向けられていないのだから、当たり前のことだ。

 男達は澄香を人質に取ることで、優位に立ったと思っているようだったが、それは大きな間違いだ。

 人質を取り、人質に武器を向けているということは、自分達を守る武器が一切無い。隙だらけになっているということだ。

 54式拳銃を持った男の足が震えている。

 澄香の首に腕を回した男もだ。

 澄香は、自分が人質に取られた状況でありながらも、自分のことよりも二人の男達の方が危険だと思った。

 そして、それは事実だった。

 危険な少年が刀を手に迫って来ているのに、54式拳銃を向ける方向が澄香の方を向いており、さらに澄香を盾にしているせいで、隼人が近づいてくるのをただ見つめることしかできない。

 一番危険なのは男達の方だ。

 次第に澄香は、恐怖で震える。

 もし、男達が澄香の頭を撃ち抜いたらどうなる? そんなことは、考えたくもなかった。

 だが、こんな事態を招いたのは澄香のミスだ。隼人が無力化したにも係わらず、止めを刺さずに油断してしまったのだ。

 澄香は、状況判断の甘さ、危機管理能力の低さを痛感する。《闇之太刀》で死んでいく男達をむごいなどと情けをかけていた自分の甘さを呪った。

 隼人は男達に近寄り、立ち止まる。

 隼人の左手が脇差を抜くと54式拳銃を持った男の腹を刺し貫いた。

 男は、くぐもった声を漏らし崩れる。

 それから隼人は、信じられない行動を取った。

 右手の刀を突き出したのだ。

 澄香は、自分の腹部に冷たい氷柱が挿入されたような感覚に襲われる。寒くて少し身体が震える。

 澄香が自分の腹部を見ると、刀が刺さっていた。

 鍔の無い刀。

 それが柄元まで潜り込んでいる。

 それを持つ者は、隼人だった。

「隼人……」

 澄香は、震える声で思わず呟いていた。

 隼人は冷たい目で澄香を見る。

 彼が刀を一気に引き抜くと、澄香の背後からナイフを突き付けていた男が崩れて倒れる。

 澄香も、その場で崩れるが、隼人が支えてゆっくりと座らせた。

 なんて最期だと、澄香は思った。

 味方だと思っていた男に裏切られて殺されるなど、なんと愚かなことかと自分を責めた。

 だが、それは澄香の甘さが招いた結果だ。

 止めを刺さずに放置していた男達によって、人質にされ、敵の情報を引き出していた隼人の邪魔をすることになったのだから。

 澄香は自分の呼吸が浅く、早くなっているのを感じる。

「ごめんなさい。私……」

 澄香が謝っていると、隼人が彼女の額を指で軽く打つ。

「痛」

 澄香は、片目を閉じで隼人を見上げる。

 隼人は、険しい表情をしていた。

 だが、怒っていないようだ。

 むしろ、悲しげに見える。

「何勘違いしてやがる。自分の腹を触ってみろ」

 隼人に言われ、澄香は恐る恐る自分の腹部に触れる。

 腹に痛みも無ければ、服に穴も空いていない。

 もちろん、出血も存在しなかった。

 隼人の刀に刺されたのにだ。

「え!?」

 澄香は驚く。

 すると、隼人は苦笑した。

 そして、澄香の耳元で囁くように言った。

「澄香の身体を傷つけずに、背後の男を突き刺しただけだ。傷つけるつもりはなかった。悪いな、脅かすような真似をして。これも《闇之太刀》だ」

 澄香は呆然とする。

「……けど、私も死ぬんでしょ。条件や合図で」

 澄香は、隼人の目をじっと見つめながら問う。

 隼人は、静かに答えた。

 その目は優しく、穏やかなものだ。

「俺が、そういう意思を持って斬ればな。今やったのは、網袋に入ったミカンに楊枝を刺したのと同じだ。ミカンに傷はつくが、網袋は破れない。だから、澄香の身体は無傷だ」

 澄香は安堵のため息をつく。

 同時に涙が溢れてきた。

 よかった……。

 澄香は、心の底からそう思う。

 自分が助かったこともそうだが、隼人が澄香の命を奪うつもりでなかったことが分かったからだ。

「俺が裏切ったと思ったか?」

「そうよ……」

 澄香に正直に言われて、隼人は苦笑いをする。

 彼女は、隼人のことを信用していなかったばかりに、彼を疑ってしまったことが申し訳なく思えた。

 隼人は背後を振り返ると、リーダー格の男と、《闇之太刀》で斬った2人の男。計3人の姿が無いことに気がついた。

 逃走させるつもりは無かったのだが、澄香の救助に集中していたため、逃してしまった。

「私のせいで、情報を得られなくなってしまったわね。ごめんなさい」

 澄香は、隼人に頭を下げる。

 隼人は首を横に振った。

「そうでもねえさ。少なくとも鬼哭館という名が分かった。それだけでも収穫はあった」

 澄香も納得したのか、それ以上は言わないことにした。それから彼女は、ふと気がつく自分が隼人に抱き支えられていることに。

 澄香は顔を赤らめる。

 異性に抱き支えられることなど、父親を除いては経験が無かった。

 それに、相手はかたきである隼人だ。

 そんな彼に抱かれているのだ。恥ずかしくない訳がない。そんな澄香の心情を知ってか知らずか、隼人の様子に変わりはなかった。

「もういいわ。自分で起きるから……」

 澄香は自分で地に手を突いて身を起こしていると、隼人の背後に54式拳銃を手にした男がまだ動いている姿を見た。

 54式拳銃を構えた男は、まだ生きていたのだ。

 男は震える腕で、銃口を隼人の背中に定めようとしていた。

「隼人。後ろ!」

 澄香は咄嗟とっさに隼人をかばうため、彼の前に出ようとする。

 銃声が響く。

 隼人は澄香に押し倒されていたが、男が落としたナイフを拾って投じ54式拳銃を持つ男の額を貫き、止めを刺していた。

 隼人は自分の身体に、何かが濡らす感触を覚えた。

 澄香が自分に身体を重ねているのだと理解する。

 彼女は苦痛の声を上げる。澄香の身体が小刻みに揺れている。

 それを見て、隼人は刀を捨て慌てて身を起こすと、澄香の左肩を掴んだ右手が血で濡れていることに気付く。

 撃たれた?

「澄香!」

 隼人は、澄香の左肩を確認する。

「ジャケットを脱がすぞ」

 隼人は宣言だけで了解は取らない。一刻を争うかも知れない事態に、羞恥心を考慮している場合ではない。

 隼人は、素早く澄香のレディースジャケットを片肌脱ぎにさせると、血にまみれた左肩を見る。

 そこには、銃弾が肩をかすめた痕があった。

「安心しろ、かすめただけだ」

 だが、澄香は銃撃の衝撃で、痛みと痺れで動けなくなっていた。

「そう。左半身が少し痺れるわ」

 澄香は、申し訳無さそうにする。

 末梢神経へのダメージがあったのかも知れない。

 隼人は、澄香の傷を布で縛ると、刀をまとめて担ぎ、澄香を支えるようにして言った。

「立ち上がるぞ」

「平気よ。それより隼人の方こそ……」

 澄香は、隼人にケガは無いかと確認しようとした。

 だが、それよりも先に隼人が澄香を抱き寄せていた。

 隼人の腕に力が込められる。

 澄香の心臓が跳ね上がる。

 だが、不思議と嫌ではなかった。

「待ってろ。すぐに志遠の所に連れて行ってやるから」

 澄香は、自分の体重を預けても大丈夫なのか不安になる。

 しかし、今の隼人には、澄香を支えながら歩くことしかできない。

 そう判断して、澄香は隼人に寄り添って歩き出す。

「またケガしちゃったわね」

 澄香は、少し冗談めかして言っていた。

 本当は、自分がケガをしていなければ良かったと思っている。

 しかし、それを口にすると、自分の弱さをさらけ出してしまう気がしたのだ。

 だから、軽口を叩いて誤魔化そうとした。

 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、隼人は淡々と告げる。

「俺のせいだ。すまなかったな」

 隼人は、自分のせいでケガをさせてしまったことを悔やんでいた。

 男への止めが甘くなければ、こんなことにはならなかったはずだ。

 隼人は、そう考えていた。

 澄香は、隼人の肩に頭を乗せる。

 そして、そっと囁いた。

「違う。私の油断が招いた結果だもの。隼人は何も悪くない」

 澄香は、隼人の肩から伝わる温もりと鼓動を感じていた。

 そして、彼の腕に包まれる心地好さも感じていた。

 だが、それは同時に罪悪感でもあった。

 隼人は、澄香の父を斬ったかたきである。

 その事実が、澄香の心に重くのしかかっていた。

 それを表に出すわけにはいかない。

 だからこそ、澄香は明るく振る舞う。

 それは、隼人に対する裏切りだと分かっていても……。

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