第29話 男時
澄香は、藤木利との勝負を終えて、隼人と志遠の前に立っていた。
全身から汗が吹き出ていたのは、その為であった。
「隼人。私と立ち合え」
澄香の表情は真剣だった。
隼人は澄香が、竹森流・藤木利との勝負を終えたの知らなかったが、何かしら自分自身を追い込んだ状況を体験し、体力が回復していないのは明白なのを理解する。
しかし、澄香は体感した感覚が真新しいままにしておくために、今すぐの勝負を申し込んだのだ。
「喉の渇きはおさまったか。俺は構わないが、一息ついてからでもいいんじゃないか? 」
隼人が言う通り、澄香は疲労により満身創痍と言っていい状態だった。
それでも、澄香は譲らなかった。
今の澄香に、以前隼人に感じた恐れは無い。
・下段からのスカーフ斬り。
・20人斬り。
・一尺五寸の雁金斬り。
そのどれも、澄香にはできない。
だが、それを差し引いても澄香は負ける気がしなかった。
能楽を大成させた世阿弥は、
「男時」とは、自らに勢いがある幸運な状態のことを言う。そういう時は油断せず、細かな小さなところに細心の注意を払わなければならない。
反対に「女時」とは、自分にどうも自信が無く、不安で仕方が無い、あるいは競合する相手のほうに勢いがある衰運のときのことを言う。その場合、例え不調が続いていても、失敗を恐れず、大胆に行動することが突破口になる。
命を賭けた世界では、どんな些細な変化でも見逃してはならない。少しでも、自分の身に起きていることを、正確に把握する。
そして、自分の心の中に起こる変化も、また然りである。
澄香の心は静かであり、澄んだ湖面のように凪いでいた。
隼人と対峙しても恐怖はない。
いや、ある意味ではあった。
だがそれは、澄香自身が、自分の成長を信じているからだ。
私は、強くなった。
だから、臆する事無く立ち向かえると、澄香は思った。
技量ではない。
身体と技を支える精神と心の強さを手に入れた。
それが、澄香の自信になっている。
だからこそ、この少年と向き合っても怖くない。
むしろ、楽しみですらある。
澄香の身体からは、先程までの疲労感が消え失せていた。ゆっくりと息を整えると、再び口を開く。
その声音は、先程の疲労を感じさせないものだった。
「要らぬ心配だ。休憩は、貴様を斬ってからだ」
隼人は、その言葉を聞いて
志遠は澄香の覚悟を知った。
「なら、場所を変えよう。ここじゃ人目につく」
隼人は言うと、歩き出す。
澄香と志遠もそれに続く。
「どこへ行く?」
「邪魔が入らないところだ」
澄香の問に、隼人は答える。
3人は通りを外れ、人気のない場所まで移動する。
その場所は、雑居ビルの解体工事が行われていた。
隼人たちは、その現場に入る。
そこには、資材置き場があり、足場が組まれている。
時間帯として、誰も居ない。
その周囲には、立ち入り禁止のテープが張られており、作業員の姿も見当たらない。
「なるほど。ここなら邪魔は入りそうにないな」
志遠は呟く。
それを確認した隼人と澄香は、向かい合う。
二人の間に、志遠が立った。
「風花さん。
志遠の言葉に、澄香は静かに首肯する。
そして、ラクロスケースから刀と脇差を取り出すと、角帯に差す。
隼人は黒布の包を風に舞わせて解くと、打裂羽織を羽織り、鍔無刀と脇差をベルトに差す。
二人は帯刀した。
澄香は左手で鞘口を握る。
鯉口を切って、抜刀できる体勢に入る。
だが、そこで隼人は、待ったをかけるように手を挙げる。
「澄香。少し待て」
澄香は何事かと、隼人を見据える。その表情は険しかった。
「立会人も。いいか?」
隼人は志遠を名前で呼ばなかった。公平な立場として捉えていたからだ。
志遠は隼人が何をしようとしているのか察する。
「あれか。認めよう。風花さん、少しだけ待ってやって欲しい」
「何か知らないが。さっさとしろ」
立会人に頼まれ、澄香は了承した。
隼人はポケットに手を入れると、リップスティックを取り出す。キャップを取ると、隼人は自分の唇に塗る。
紅が引かれた。
唇を染めたことで、口元の色が少し鮮やかに見えた。
それから小瓶を取り出し、手に少量の液を出すと撫でるように、自分の首に塗った。
澄香は、風に花の香りがあるのを感じ、隼人が何をしたのか理解した。
「……貴様、こんな時に化粧をしているのか? 」
澄香は隼人の行動に呆れた。
今から命を賭けた斬り合いをする人間が、何故そんな事をする必要があるのか理解できなかった。自分が見くびられてるような気分になる。
隼人と初めて会った時、彼は『女は斬らない』と言って、刀を捨てた。それは、自分への侮辱だと澄香は思った。
「口紅を塗って香水を付けて、それで女になったつもりか? 何が『女は斬らない』だ。貴様は、私の父を斬り、母も斬った。お前が、女を殺さないなんて、嘘だ!」
澄香は怒りを露にする。
その表情には、鬼気迫るものがあった。
隼人は青天の
「……待て、澄香。お前は、角間道長の娘だな」
隼人は訊く。
「そうだ。今は母方の姓だが、私は角間道長の娘、角間澄香だ」
澄香は答える。
その声には、隠しきれない憎しみがあった。
「俺は確かに角間道長と果し合いをした。小高い山の原っぱでな、それはもう一年前の話だ」
隼人の言葉に、澄香の怒りが増す。
「ふざけるな。私の父が死んだのは、
隼人は驚きつつ、渦巻く疑問を抑え込み、事実を確認する。
「澄香。俺は今から、妙なことを言うが冷静に聞け。俺は、角間道長と一年前に果し合いを申し込まれ戦った。そこで俺は角間さんを斬って止めを刺した。
その角間さんが、死んだのは
隼人は確認するように言う。
その言葉に、澄香は眉根を寄せた。意味が理解できないからだ。
「一年前だと。自分で止めを刺しておいて、自分の言っていることと私が言っていることを理解しているのか? 訳の分からないことを言うな。私の父が死んだのは、
あの日、私は、家族三人で食事をしたいと言って、離婚した二人を会わせるサプライズを仕組んだ。復縁して欲しかったのよ。
二人が会って話し合える時間をみて、父と母の様子を見に行くと、そこに二人は倒れていた」
澄香は、その時の状況を思い出す。
◆
森林公園。
標高約73mの小高い丘の上にある。街並みを一望でき、夜には近距離夜景も楽しむことができる。敷地は広大で、芝生や広場があり、散歩コースや遊具施設もある。
そこは中心街の外れにあり、周りを林に囲まれており、緑あふれる憩いの場でもあった。
夜。
風が強く、木々が揺れていた。
辺りは静寂に包まれており、虫の声が聞こえていた。
月明かりの下、血溜まりの中で倒れる両親を見て、澄香は声も出なかった。
涙も声も出ないくらい混乱していたのだ。
何が起きたのか分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。
「お父さん、お母さん!」
澄香は叫ぶ。
だが返事はない。
駆け寄ろうとするが、足が動かなかった。
両親の身体に触る勇気がなかった。
触れたら、その冷たさが伝わってくる気がしたからだ。
それでも確かめなければ、助けなければと必死で近づく。澄香は一番近くに居た母の
澄香は、震える手で、恐る恐る、母の肩に触れた。
指先から伝わる感触は、想像以上に冷たいものだった。
そして、澄香の脳裏に最悪の結末が浮かぶ。
嘘だ! 嘘だ!! 嘘だ!!! 嘘だ!!!
そんなはずがない!!
澄香は、その現実を否定するために、何度も叫んだ。
母の身体を揺すったが反応はなかった。
「お母さん! 目を開けてよ。ねぇ、起きてよ」
何度も揺するが、返事はない。
悪夢だと澄香は思った。
その時、父・角間道長のうめき声を聞いた。
澄香は父の方に駆け寄る。
道長は、まだ微かに息をしていた。澄香は、父が助かるかもしれないと思い必死に声を掛けた。
すると
澄香は父と目を合わせる。
「お父さん!」
道長は澄香を視界に入れると、掠れた声で言った。
「──澄香か。……まさか、今になって。死のうとはな」
呼吸器系をやられているらしく、鮮血を咳き込む。その度に口から赤い液体が吐き出される。
その返り血が澄香の顔にかかる。
澄香は、その生暖かい感触に、これが現実なのだと悟る。泣きながら、何度も父のことを呼んだ。
だが、次第に呼吸が弱くなる。
「待ってて。今、救急車を呼ぶから」
スマホを取り出そうとする中を、道長は歯を食いしばる。
「はや、と。《なにがし》……。怨めしい……ぞ」
道長が苦しそうに言葉を紡ぐ。
それを聞いていた澄香は、道長が死ぬ間際に呟いたのが、
認めたくないが、父は事切れようとしている。
だが、それでも救急に電話するしかなかった。
スマホを操作する澄香。
道長は、その行動を制止する。
「いい……。それより、俺を。
道長は、血に濡れた手を妻・秋香に向かって伸ばす。水に渇いた遭難者が、水を求めるように。
「秋香……」
道長は妻の名を呼んで、瞳から光が消えた。
手が力なく地面に落ちる。
まるで糸の切れた操り人形のように。
それは、命の灯火が消えていくのを物語っていた。
それが澄香にとって、両親の最後の姿だった。
◆
澄香は、話しながら、怒りを露にする。
それは、鬼気迫るものがあった。
澄香の表情には、悲しみと憎しみが混ざり合っていた。
「父の懐には、隼人、貴様に宛てた果たし状の控えがあった。つまり、貴様と勝負をしたということだ。父がなぜ貴様と果し合いをしたのか知らない。剣士と剣士の勝負だ、どちらかが命を散らすことは理解できる。
でも、どうして母まで斬った。果し合いの邪魔立てをしたというの? 貴様は、私の父を斬りながら殺し足りなかったというのか!」
澄香は記憶に激情を抑えながらも、怒りを込めて訊く。
その言葉に、隼人は戸惑いを覚えた。
澄香が言っていることが事実だとしたら、辻妻が合わない。
「……俺は確かに角間さんを斬った。だが、お前の母親を斬ったのは俺じゃない」
隼人は否定した。
「言い逃れをする気か。ならなぜ、父はお前への《なにがし》への怨みを口にする。貴様が殺したからだ」
澄香は確信を持って答えた。
隼人は首を横に振る。その顔には困惑が浮かんでいた。
「……だろうな。角間さんは、俺が斬った。寿命じゃ死ねないようにした。俺を怨みながら死ぬのは当然だ。それでも、俺はその日に斬っていない。
澄香。もう一つ訊く。お前が以前、鈴豊馬場で言ったアレとは何だ? ありかとは、どういうことだ?」
隼人の質問に、澄香は眉根を寄せた。
どこまでも自分のことを見下してくる隼人の態度に苛立つ。隼人は父・道長を斬ったことを認めている、ならばそれこそ隼人以外にないからだ。
「しらばっくれるな。お前が盗んだ、父の首だ!」
澄香は叫ぶ。
隼人は絶句した。
澄香の言葉に、志遠は驚いた。
「首だと……」
隼人は、全く預かり知らぬ話だった。
だが、澄香は嘘を吐いているようには見えない。
隼人は道長を斬ったことは認める。
だが、澄香の母を斬ったことも無ければ、澄香の父の首を討ち取ったこともないのだ。
余りにも見に覚えのないことが続いた為に、隼人は5日の食事断ちをして、いつも研ぎ澄ましていた感覚を失っていた。
澄香から聞いた事実は、彼の精神の集中力を削いでしまったのだ。
だからこそ、彼は気付くことができなかった。
自分達が囲まれていることを。
隼人が気がついた時、周囲に人影があった。
額から角を生やし、大きく裂けた口には牙があり、鋭い眼光を放つ。
その
鬼面を被った着流しの男達だった。
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