第33話 婚約者
その日の晩。
ビールのせいでだいぶん、とろんとした頭でベッドに横になっていた。
いつもは顔を壁の方に向けるのだが。
今日は、マットレスの上でノートパソコンとスマホを捜査している石堂に向けたままだ。
風呂から上がったところだからだろう。
彼自身から、ほこほこと湯気が上がりそうな感じだ。
「明日、早いので今日はわたしも、もうすぐ眠るつもりですが」
眼鏡越しに、ちらりと翠を見た。
「電気はつけたままのほうがいいですか?」
尋ねられ、「はい」と生返事をする。ぼやりとした頭で、「ついでに、尋ねてみよう」と思ったのは、やっぱり酔っていたからかもしれない。
「副社長」
「はい」
「ここ、本当になにもいないんですか? 研修施設。なにも入ってこれない?」
後半は子どものような口の利き方だ。
「入ってこれませんよ。大丈夫。悠里だって入れなかったでしょう?」
柔らかな視線を向けてくれた。
「昨日は怖い夢をご覧になったんでしょう。今日はいい夢が見られるといいですね」
石堂は言うと、手早くノートパソコンの電源を落として、ぱたり、と閉じた。
「昨日と言えば、不思議に思っていたことがあるんです」
石堂が小首を傾げる。ルームウェアのせいか、そんな仕草をすると、彼も随分と幼い。翠は欠伸を噛み殺し、「なんですか」と尋ねた。
「風が吹くぞ、ってなんですか」
「おまじないじゃないですか」
きょとんとして翠は言うが、石堂は訝し気に柳眉を寄せた。
「おまじない。……ちちんぷいぷい、的な?」
人差し指を立て、空中で魔法の杖のように回して石堂が言う。
「どちらかというと、痛いの痛いのとんでいけー、的だと思います」
ちょっとだけ過去を振り返り、翠は答えた。石堂の返事は早い。
「すみません。わたしは知らないのですが、どういった時に使用するのですか?」
「え? これ、地域限定ですか?」
眠気が翠の口元を鈍らせる。ですか、と言ったつもりが、れすか、となってしまった。それを誤魔化すように、続ける。
「怖いものが近寄らないように言うんですよ。伯母さんが教えてくれました。『風が吹くぞ』と言えば、逃げていくから、って」
「怖いもの、とは?」
ふぁあ、と翠は欠伸をする。かろうじて枕に押し付けるようにして顔を隠した。眠い。だるい。
「怖いものは、怖いものですよ」
呟き、目を
「眠そうですね、布士さん」
石堂が苦笑している。
「あ。それ、副社長」
翠は、くすりと笑った。
眠い目で石堂を見る。彼ははマットレスに胡座し、相変わらず穏やかな瞳を自分に向けている。
「なんですか?」
「明日は、違う呼び名で呼んでくださいね。悠里くんが言っていたでしょう」
「そうでした。あなたの元婚約者に負けない呼び名を考えねば」
声をたてて翠が笑う。石堂も一緒に笑ったあと、控えめに申し出た。
「悠里の言う通り、その元婚約者と一緒に飲みに行ってはいけませんよ」
「え。りょーたとですか」
少し眠気が飛んだ。翠は目をまたたかせて石堂を見る。
「危ないと思います。どうしても行くのであれば、わたしも同行します」
「保護者みたいですね」
翠は笑った。だが、今度は一緒に笑わなかった。石堂は困ったように口をへの字に曲げる。
「悠里が言っていたように……。あなたはどうも
「そう……、ですかね。でも、副社長は過保護です」
くすくすと笑いの余韻を残したまま翠は言う。
「布士さん」
「はい」
「わたしから言いだしておいてなんなんですが」
言いよどみながら、石堂は翠を見る。
「なんですか」
翠が微笑むと、石堂は淡く笑みを口の端に載せていう。
「わたしの、本当の婚約者になっていただけませんか?」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですが」
「なんかの隠語ですか?」
「いえ、裏の意味などありません」
「ちょっと理解できないんですが」
「日本語の意味、その通りです。わたしの婚約者になっていただきたいのです」
「えっと……」
翠は目を閉じ、眉間を強く押した。なんだか早くも二日酔いの気配だ。軽く頭痛がする。
「副社長、結婚に興味なかったんじゃなかったでしたっけ」
「もちろん、短命だと思っていたからこそ、そう考えていたんですが……。あなたと出会って人生が変わったような気がするんです」
「気のせいですよ」
笑顔の石堂に、翠ははっきりと言い切った。
「気の迷いです」
「そんなことはありません。体調がよくなっているからこそ、未来への展望が開けました」
「体調がいいのであれば、何も私ではなく、もっと他の女性を恋愛対象としてご覧になっては?」
「いえ、わたしはあなたがいいです」
きっぱりと言い切られ、逆に翠はあきれた。
「どこがいいんですか」
「今までにいないタイプでした」
「でしょうね」
深く頷いてしまう。なにしろ、石堂の周りには財閥だの大企業だののお嬢様が言い寄っていたに違いないのだ。
対して翠は、どこからどうみても、一般庶民代表だ。
血統書に見飽きて、雑種の犬が可愛く思えただけに違いない。
「勘違いですよ、副社長」
ははは、と翠が笑う。
「わたし、勘は良い方なんです」
石堂もにっこり笑った。
「きっと、わたしの運命のひとがあなたに違いない」
「ファムファタル、ですかぁ?」
サロメや
「運命の赤い糸の方ですよ」
石堂が笑うから、翠はつられた。笑い声を立てながら、副社長は結構ロマンチストだと思う。
「でも、私は子どもが産めませんよ。副社長、それじゃあ、困るでしょう」
「別にわたしは困りませんが……」
不思議そうに石堂が、眼鏡奥の瞳をまたたかせる。
「だって、会社の跡継ぎがいるんじゃないんですか?」
くるり、とベッドの中で膝を抱え、翠は枕に顔半分をうずめる。
「会社を継ぐのは嗣治です。わたしは中継ぎぐらいにしか考えられていませんし……。死ぬつもりでしたから、今後の未来は自由です。それに、うちの長男は〝ハードモード人生〟ですからね」
ひょいと肩を竦める。
「おいそれと子どもを持つ気にはなれませんが……。布士さんが望むのであれば、努力しますし、全方位的に協力します」
「私、ですか?」
なんか意外なことを言われた。
「ええ、布士さんです。なにしろ、
申し訳なさそうに眉をハの字に下げるからなんだか吹き出してしまった。確かにそうだ。
「でも私は……」
「医療にかかえれば、産むことは可能なんでしょう?」
「でも、それって自然ですか?」
口をついて出たのは、昔、亮太から言われた言葉。
『自然に子どもが欲しいし』
では、自分の存在は不自然なのだろうか。
自分が望む形は、おかしなことなのだろうか。
「
石堂の声は、決して大きくも、きつくもないのに。
思わず目を
「布士さん」
石堂は、ゆっくりと手を伸ばす。人慣れしていない野良猫に触れようとでもしているようだ。
そうやって、彼は慎重に翠の頭を撫でた。
「わたしは、あなたの側にずっといたい。あなたと夫婦になりたい。この気持ちは自然だと思っています。あなたも、わたしのことをそう思ってくれるといいな、と思っていますよ」
ぎこちなく微笑むと、石堂は「さて」と立ち上がる。
「わたしはもう寝ます。なにかあれば起こしてください」
そう言って翠から離れ、布団にもぐりこんだ。
「おやすみなさい」
翠は言って、目を閉じた。
頭にも、髪の毛にも。
石堂が優しく触れた感触がまだ、残っていた。
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