第一章 過去――鳩の血の館
1 氷沼女子大学
二ヵ月前の十月二十二日、金曜日。この日は朝から冷えこみがひどかった。どんより曇っていて、天気予報によると、十二月中旬並みの寒さらしい。
午後からは雨が降った。氷沼女子大学のキャンパスも秋雨にぬれて、つんと鼻を衝く空気が冷たい。
大学院の学生も合わせると、三千名ほどを擁する氷沼女子大学は、東京の西のほうにある。新宿から最寄り駅まで快速で一時間、そこからバスで南へ七、八分。
駅周辺までなら多少はにぎやかだが、大学
大学の敷地内も自然が豊かだ。短く刈りこまれた芝生、
行き交う学生たちのマスクや服、バッグ、傘の色がカラフルだ。
みんながキャンパス内を歩く光景が戻ってきた。まだまだコロナ禍前の日常とはほど遠いが、杏奈はウキウキしてしまう。
一年の延期を経て東京オリンピックが開催された今年の七月と、その翌月の八月に、新型コロナの感染者数が激増した。しかし、先月九月と今月十月に感染者数は激減。昨日、東京都の新規感染者数は三十六名だった。
九月三十日に政府の緊急事態宣言が解除されると、氷沼女子大学も学内での活動制限を緩和した。リモートで授業に出たい人は引きつづきそうできる。杏奈のようにキャンパスを闊歩したい学生は通学が可能になったのだ。
ランチの時間帯だから、外を歩く学生の数も多い。
今日は北風がそこそこ強かった。杏奈は傘を持っていないほうの手で肩をさする。ロングTシャツの上にはパーカーしか着ていない。ジーンズも生地の薄いやつだ。寝坊して、遅刻しかけたせいだ。天気予報のチェックを怠った。
杏奈はこれから友人とランチの待ち合わせ。教科書が入っているトートバッグが傘の外にはみ出ないように肩にかけなおした。
〈先に着いた〉
友人からインスタグラムに
〈講義が早く終わったから〉
つづけてDMが届く。
杏奈の歩幅が大きくなる。古ぼけて色褪せた赤が、雨に混じって視野のはしを流れていく。キャンパス内の建物の大半が赤レンガの洋館だ。
早足になったせいで、大きな水たまりをふんづけてしまった。杏奈のスニーカーが盛大に雨水をかぶる。幸い、靴下まではぬれていない。
〈テラス席しか空いてないよ〉連続でDM。〈テラス席でいい?〉
テラス席のパラソルで雨は防げる。屋外用ヒーターも完備されているから、多少、風が吹いたって寒くはない。
〈テラス席でオッケー〉
杏奈は即答で返事を打った。
〈杏奈のぶんも注文しとくけど?〉
〈ありがとう〉
杏奈も友人も絵文字は使わない。淡白なやり取りに終始するタイプだ。
〈ミラノ風リゾットで〉〈あとピザも〉〈マルゲリータ〉〈ピザはシェアする?〉
杏奈は立てつづけにDMを送信する。
〈する〉〈他に注文は?〉と、友人から返事と質問が来る。
〈なし〉
既読がつく。
スマホをバッグに入れると、杏奈は歩調を速めた。
足もとは暗い灰色の石畳だ。学生たちの足音を響かせながら雨を弾く道の両はしに、ガス灯を模した街灯が並んでいる。
問答無用で絵になる景色。大学の敷地内だけ露骨に異国的なのは氷沼紅子の趣味らしい。
氷沼紅子は大学創設者で、故人。
この洗練された雰囲気に憧れて入学してくる学生も多い。杏奈もそうだった。ホラーやミステリの舞台になりそうな景観、この美しさ、妖しさがたまらない。むろん、氷沼女子大学に入りたかった一番の理由は、これまでに著名なルポライターや記者を輩出してきたジャーナリズム学科がある大学だからだ。これからランチをともにする友人も同じような理由で氷沼女子大学を志望したと言っていた。
その友人、
学校は別々だった。塾が同じで、行きたい大学も一緒。杏奈が高一から通っていた進学塾に、若葉が高三の四月に入ってきて知り合った。
「あの……すみません。さっきの授業で聞きそびれた
同じ大学に入って、お互い教養学部ジャーナリズム学科の学生で、いま三年生。
金曜日は杏奈が一時限目から、若葉は二時限目からで、受講する講義がかぶっていない。ランチで合流するのが、いつものパターンだ。
キャンパス内にあるイタリア料理店まで歩いて五分。この店は氷沼女子大の建物にしてはめずらしく色褪せた赤レンガではなかった。外壁はベージュ色の石材で、杏奈と若葉のお気に入りの店だ。しとしとと降るこの冷たい雨のなか、他の店には浮気せずに外のテラス席に座るほどの。
店内は満席で、若葉が報告してくれたとおり空席はテラス席のみ。でも、大きなパラソルの内側まで雨は入ってきていない。小洒落たデザインの屋外用ヒーターもしっかりと効いていた。
「ほんとに三年のいまから卒業制作やるつもり? 先生はそうしたほうがいいって言ってたけどさ」
傘をたたんで、杏奈が向かいの席に着くと、若葉が足を組みなおして訊いてきた。
黒髪ロングヘアの友人は、笑うと艶っぽい笑顔になる。マスク越しにもそれがわかった。対峙する者の心を落ち着かせない気分にさせる独特の雰囲気が、宮野若葉にはある。
「やるよ。わたしも前からそうしようって思ってたから。本にできそうなぐらい本格的なクオリティにしたいからね」
スカートから伸びる若葉の長い足に目が行く。「今日も大胆に生足さらしちゃって」
若葉はどんなに寒くてもミニスカートかショートパンツを選ぶ
「武器ってのは使わないと錆びつくでしょ」
若葉が「武器」と表現したのはもちろん比喩だが、セックスアピールが目的ではない。他人の目は二の次、若葉自らを格好よく見せるための武器だそうだ。
杏奈は若葉のそういうところを好ましく思っている。
本日の若葉は、黒いカーディガンの上に茶色いチェック柄のテーラードジャケットを着ていた。ジャケットと同色、同じ柄のミニスカートのセットアップだ。
靴はブーツ。若葉の身長は一七二センチ。ブーツをはくと、ますます背が伸びて、武器の足もなおさら長く見える。
「杏奈のことだから、卒業制作は事件のルポルタージュなんでしょ?」
「うん。若葉は卒論?」
「わたしも卒業制作の予定。実はネタも決めてある。杏奈とかぶってると思う」
さっそくマルゲリータが運ばれてきた。トマトソース、バジル、モッツァレラチーズがたっぷりのマルゲリータが。マスクを外すと、食欲をそそる香ばしい匂いが鼻を衝く。
五分後には杏奈のリゾットと若葉のパスタも運ばれてきた。
仔牛の骨付きすね肉を煮込んだオッソブーコと呼ばれる料理が、米の黄色いリゾットと同じ皿に盛りつけられている。パスタは唐辛子を利かせたトマトソースのアラビアータだ。
杏奈がオッソブーコのやわらかいお肉を口にふくんだタイミングで、「あの事件のこと、調べるつもりなんでしょ? うちの女子寮の」と若葉がずばり言い当ててきた。
「そうだよ。八年前のあれ。若葉も?」
「まさしく。八年前の、ふたつの殺人事件を調べようと思ってる」
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