【3話⑤】軋む車輪ならば油を・下
研究所の一角、温かみの無い電子機器とモニターが根城にする部屋の中。デスクの前に立つ海湿りはたった今伝達事項を告げ終わったようで、その後唇をピタと閉ざす。この場で談笑を嗜む気などは無いらしい。対面、淀みない手付きでペンを執り小綺麗なメモを完成させた研究員、
「仕事に私情は、厳禁ですよ」
今にも背を向け出て行かんとしそうな湿りの面持ちを無視して、木枯は事務的な手順ではない会話を始めた。嗜めるような字面で運ぶ言葉。その癖に軽々しく弄ぶペンの残像が煩わしい。海シリーズの長たる彼は、戯画的な含みのある研究員の言葉に悲憤や憂いを抱くのか、否か。はなからこの話題に興味など無いようにも見えるその顔は白い。
「……」
木枯は数秒答えを待つ素振りを醸すが、彼からは何の返答も返らなかった。二人の男の静けさに、呼吸の音も拍動もあまりに薄い。一室が成すスティルライフの色。静寂は時に脅しのような重々しさを持つものなのだと思い知らされる、そんな一〇秒が流れた。
「他の海シリーズの様子はどうです?」
新たに切り出された問い掛けに、湿りはやっと男を一瞥する。
「それを見るのも貴方方の仕事では?」
「貴方の所感も聞きたいんですよ」
デスク上で手を組む木枯の目元には優しさを装う感じが浮いている。彼の真意はいつも人には掴み難いものだったが、少なくとも海湿りは、それを
「……よく働いてますよ」
「けど、あいつらは弱い」
という淡々した声の響きに、目を細めた動きだけが明白だった。この時木枯の脳裏には、半月が不安げに髪を触る仕草が思い出されていた。
「……貴方と静かくんの見ている方向は、全く違うようだ」
木枯は喉の奥で笑うような気配を燻らせて言った。わざとらしい敬称を添えて呼ばれた名に湿りは不快感を示す。
「半月、でしょう」
いつも研究員らが使う呼び名を吐き捨てる彼の忌々しげな語気は、皮肉な程に被験者らしい。
「そうですね」
答える声があった時、既に湿りは扉の方へ足を向けていた。
「考えがあるなら協力しますよ。個人的にね」
だが、自動扉のセンサーが反応するより一歩手前というところで彼の背中に投げ掛けられた言葉が、歩みを遮った。
マフラーが翻る。冷たい瞳のままに開かれた口から紡がれる言葉はその部屋に一層重たい冷気を呼び込むようだった。それから暫くは海湿りが一人何かを呟く。扉の外にはその思惑の一つも漏らさない、静かな声で。話が終わった時、白衣の男はただ、好奇の眼差しと共に無記名の濁った薬品瓶を彼に差し出した。
──海静かの回想。
──思い出すのは、病的な具合のライトと白い壁。
それは、硝子を隔てて一枚向こうのことだ。静かと
「……何も聞かない方が良い」
音のしない呼吸。匂いのしない血の流れ。硝子壁の厚みが歪ませる世界のゆらゆら触れ難い雰囲気の中で、彼は……そう言った。
その時確か、既知は何も言わなかったのだ。恐らくは、静かより彼の方が幾分頭の回りが良かったからだろう。何か他の理由を見付けようとするならもしくは、既知は傷付くのが嫌だったのかもしれない。
「……どういう意味だ?」
それでも静かは硝子壁に触れて言った。
「俺は危難に会いたいんだ。俺達の三日月……行方が分からない。知ってんだろ?俺達は……俺達は、どこに行けば、危難に会えるんだ?」
空気が詰まって濁りそうになる言葉とささくれ立った声色の細さ。漣で割れる貝のようなあっけなさを内包した訴えに、アパシィは暫し沈黙する。いつも研究者に問い掛けられれば答える是非を選べない被験体は、今何を思って口を噤むのだろう。それがただの素っ気無い素振りだと理由付けるのにはあまりにも、静かを見る少年の目が、座ったままに投げ出された腕や足が、力無くて哀しい。
「……」
「答えてくれ……」
「……」
「頼む、答えてくれよ……教えてくれ。危難のこと……」
互いを隔てる壁に縋り付くような手付きをアパシィは一瞬見やった。何を感じたのか、続いてゆっくりと口を開く。ただ、その一つ目の動作は呼吸の為の動きであって、彼が本当に言葉を紡いだのは次に口を開けた時だった。
「分からない」
少年がようやっと生み落とした質問への答えは、正に誰もが望まない最悪の形をとってどろりと空間を満たした。そしてか細い声の滞留は長くは続かず、瞬く間に廊下の先へ続く虚無へ吸い込まれて消える。静かの瞳が、半ば分かりきっていた『未来』の残酷さに酷く傷付いていた。先に見た虹の夕立のような目元と重なって見えて、既知はそっと目を逸らす。
──もし未来が見えるアパシィが、危難の居場所について何も知らないと言ったら……
憂いた仮定が現実となったのだ、と。その感覚は時間をかけてゆっくりと静かの
肩に既知の手が触れて、布越しのせいか随分薄平べったい体温が伝ってきた。男の骨っぽい手は、
「ごめん。無駄足だったね」
と言う。その後彼に背を支えられながら来た道を戻る時の風景と背中に感じた赤い視線は、思考の中で曖昧に混ざり、汚くなった。既知が腫れ物に触れるような声で言った
「満足するまで探すでしょ。付き合うよ」
という優しさは、ただの音としてのみ静かの記憶に残っていた。
──そして回想を終え、時間は現在の海静かへ還る。
居場所は研究所の置かれた都心を外れてやや郊外。凡そ、彼が弟と最後に歩いた辺りだった。頭上は当然変わることなく、本日も曇天。
この国にはもうずっと晴れの日は来ていない。正しく言えばこの地球自体に、もう晴れは来ないのだ。幾年も前にこの星の上には、何の冗談かと思える程酷く厚い雲がへばり付き、生命は太陽と月を見る機会を失った。そして人類滅亡の危機を逃れるべく優秀な科学者達が人工の太陽を空に打ち上げた、その偉大なる実績を含めて、一連の歴史は今や教科書に語られるような大きな一つの事変だ。今、海シリーズとタグ付けられた実験体は月のモチーフを背負っている。けれども誰一人本物の月を見たことは無い世代だった。だからこれは静かの空想でしかないけれど、彼は思う。半身を欠いた「半月」という月は、大層に空虚な存在で、弱々しい姿なのだろう、と。
本日の天候の設定はどうやら強い晴れのようだ。人工太陽の光が白く尖っている。数十年か、下手すれば数百年も前の気候の統計と再現から成る陽光の投影は、独りほつれそうな足取りで往く男の目にはイタく見えた。コンクリート上の縄のような白線を辿って彼は前へと歩んでいる。
「静かだな……」
耳を貫いていく静寂に耐えかねて彼は呟いた。数時間前、犯罪者との邂逅を経て「弟にもう会えないだろう」という予知が「弟はもうこの世にいない」という事実に成り変わってまだ間もないから、記憶の中では弟の声がするのだ。こんな取るに足らない呟きにだって「良いな」だとか少し噛み合わない返事をくれた、悠々毅然とした声がまだ肩の隣に在る気がする。彼が取り逃がした声。彼が守れなかった声。
(俺が、見付けてやれなかった……)
中途半端な道の上。とうとう海静かは歩く力を失ったかのように膝を折ると、その場にしゃがみ込んだ。遠くの方から車の排気音がするばかりの
(俺達は、どうなるべき?)
忽然と浮かんだ疑問に、静かは答えを求めていた。けれど口に出すことは叶わない。意地の悪い哀愁が彼の喉元を締め上げ始めた、そんな時。
「静か?今一人?」
耳元で突然声がした。水を浴びせられた猫のように跳ね上がり、誰に話し掛けられたのかと驚きを隠せない表情のまま振り向いたけれど、そこに人影は無い。呆気に取られたのも束の間、静かは今日初めて耳に着けて来た通信装置の存在を思い出してハッとする。右耳に指を添えると短いノイズ音が走った。
「あ、あー、既知?」
「そうだよ。どうしたの?」
「あぁいや、何でもない……」
酷く弱気になっていた自身の心を見透かされたかのようなタイミングでの同胞の呼び掛けに、静かはバツが悪そうに語尾を濁す。
「何か用?まだ、こっちは進展とかねぇけど……」
「あー、ちょっとね。湿りもさっき外出たみたいだけど、合流はしてない?」
「あぁ……してない。湿りは
「あぁうん。一旦俺と静かだけ、試供品って感じだからね」
それは静かも聞き及んでいる情報だった。研究所の外と中で危難の捜索にあたる時間が長い二人だから、と研究員から短い説明と共にこの小さな機械を受け取ったのは記憶に新しい。そして、そんなことよりも、既知の妙な話の切り出し方の方が静かの耳に引っ掛かる。
「俺一人じゃないと話せないこと?何かあんの?」
そう投げ掛けると、淡く空気を含んだ声色が返る。
「うん。湿りのこと」
「湿り……?」
既知の話運びを窺えば、何か湿りには聞かせたくないことなのだろう。
これが例えば虹に聞かせたくないのだと言うならば、解る。虹はまだ思考が幼い故に、話題によっては安易な反感を抱きかねないこともあるため、時には避けるべきという判断も理解し得た。けれど、仮にもこの海シリーズの統率者である湿りに語れない話というのはあまりに珍しい。静かは興味より強く疑念を抱いた。
「それで……?」
「うん。湿りがちょっと……」
言い掛かった既知の言葉は、はにかむような具合で少し揺れる。電波を介した曖昧な声でも伝わる程、兄弟は何か気遣う気配を口に含んだ。
「怪しい動きをしてるかも、なんだよね」
ジリッ、と雑音が混じれば、すぐに不穏な空気の微睡みが静かの背を掴み上げた。その時、恐らく既知の言葉を反復した気がする。けれど自身がどのように口を開いたか静かには知覚出来なかった。
「静か?……落ち着いて欲しいんだけど。……あぁとりあえず、詳しい話はその内するから、ちょっと暫くは気を付けてみてよ」
紡ぎ出される通信は信じられないような指示だった。家族を、仲間を警戒しろと其奴は言っている。静かは目の前にぼんやり伸びている道が不定形な陽光を吸い取って揺れる様を虚ろに捉えていた。空から射す色は何とあっけらかんとしているのだろう。感情の嫌な部分ばかりを明るみにするような昼間に、投げやりな風が一陣足元を攫って行った。もう何時間も何時間もこんな風に迷っている気がする。静かの中に根を張る感情が目に見えたならきっと、酷い色をしているのだろう。
「……あぁ……分かったよ……」
漸く、という程実際時間は経っていなかったが、重い口を開いて彼は言葉を吐いた。居た堪れなさが顔に纏わり付く。何より今信じ難いのは、いつも仲間を一番に思っていると豪語する彼自身が、既知の言う事に理解を示せてしまうことだった。
静かは決して何か決定的な場面を目撃した訳ではない。湿りに対して抱えていた不信感は、漠然と胸に浮く影だったのだ。しかし受けた警告が水切り石の如く心中を揺らして、小さな影はありありと感じられるような波紋に姿を変えた。
「……とは言っても、今すぐに何か起こるわけじゃないだろうから。気にし過ぎないでね」
「はは……無茶言うなよ」
湿気の抜けたカラリとした気温に、静かの笑い声も乾いていた。そしてタイミングを見計らうかのように、長時間の通信に向いていない耳元の装置はプチプチとノイズを発し出す。
「引き留めたね。それじゃあ」
ごく短い別れの挨拶の後すぐに既知の声は聞こえなくなった。
「…………」
静かはほんの暫しの時間、その場にまだ佇んでいた。先刻より緩やかに風が凪ぐ感じに腕をだらり放り出して、脱力する数十秒。
(ただ、少し気を付けろって……それだけだ。湿りの考えが一朝一夕に分からないのは、別に今に始まったことじゃないしな……)
物思いに耽りながらやっと足を執り出す。まるで人間のような哀愁だ。兄弟を失ってしまったあの時から、或いは火照る三叉路で兄弟と別れたその瞬間から。あまりにも多くの感情の不突合が、静かの心中に蓄積してしまったのだ。今暫く自分を人間だと追い込み嘆く事くらい許しても良いと、乳白色を控えた太陽が慰める。
(湿りは、きっと、……湿りは……?)
そこで彼の思考は止まった。思考を放棄し未来に絶望した、という話ではない。
静かはじっとある一点を見詰めて息を潜め、自身が職務の真っ只中であることを思い出したのだ。それはふいに視界の端、建物と建物の間にほっそり繋がる切れ目のような路地の入り口で、何かが動いた気配を見たせいだった。影法師かとも思える程一瞬の違和感。けれどもそれを幻覚と受け流す程に静かの思考力は枯れ切っていなかったのだ。……それを確かめられたことは今の彼にとって幸甚だっただろう。
(こんなところに浮浪者?……いや、珍しいけどあり得ないわけじゃないな)
先刻の足取りとは打って変わって、空気を従わせるような確かな足運びで静かは路地へと近付いた。覗き込むのに躊躇いは無い。凡そ大抵の場合、自身に勝てる浮浪者など居ないと確固たる自負がある故だった。
「……え。湿り?」
けれど覗いた先に見たシルエットは、想像していたよりずっと見知ったものだった。肘から先を持たない上半身。しなやかな筋肉を以って確かに地を踏む下肢。呼び掛けにちらりと此方を見遣る目も、今日まで何度も見てきた記憶のままの色をしている。
「あぁ、そっか……湿りも外来てたんだな……」
安心と不安心は一緒くたになりながらも、今日ばかりは負の感覚が前に出ていたはずだ。けれど言い掛けると共に近付く足を早める。大した距離も無いが、仲間を見れば駆け寄るという動作は静かにとって、ただ無意識の動きだった。
「……!?」
そしてそれは次の瞬間。
ズン、と重圧を頭部に感じたと思った刹那の、一寸先、自身の首を湿りの足が押さえ付けているのだと気付く。爆発的に跳ね上がる動脈の五月蝿さ。奪われた呼吸の静けさ。理解した時には地面に捕らわれていた体躯とそれに乗り上げる海湿りの影が、薄暗い路地の中で境目も無く折り重なっている。理解が追い付かない。追い付けないまま、湿りの眼の月白だけが視界に強く飛び込んできて、心臓が痛い。耳を踏み付けられたかと思えば、痛みの後には通信装置の割れる乾いた音がした。
「誰に何を聞いた?」
それは湿りが放った言葉だった。きっと彼の下で静かは哀れな程の狼狽を眼に宿していただろう。
「な、何?……何の話!?」
「……、お前は顔に出やすいよ、静か。不信感とかそういうものは特に」
意図を汲み取れないまま伏す男に対し、湿りの吐く息は淡々としている。問答にもならない短なやり取りに続けてマフラーの内側からそれを取り出す動作に至るまで、彼には一切の迷いが見えなかった。静かは突如眼前で光った金属の針に、研究室の施術台の幻影がフラッシュバックする。
(……注射器?)
湿りが歯に咥えているそれは見慣れない形状かと思えたが、大まかな特徴を捉えればおよそ間違いなく、薬液を込めた注射器と思われた。いつの日のことか記憶は無いが、透明な筒を満たしているのは確かに見覚えのある液体の色。静かは無音のままで、ガンガンと喧しく叫んでいた。悲鳴を上げていた。
(湿り、湿り、湿り……!頼む、止めてくれ!止めてくれ!こんな疑いを、確信に変えないで……!!)
願いはあまりにも悲痛。けれど、脳裏に鳴る音を一つでも声に出すことは叶わず、現実には彼はただ、これから成されることを待っている。
海静かが最後に感じたのは、鋭利な針に思考を突き破られる痛みだった。
──海静か編〈1〉・完──
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