華国の玉

坂俣 織香

第一話 日常の陰影

 一九八二年、我が国中華人民共和国と米国との外交関係が正常化してから三年の月日が経った。中秋の月を愛でて、来週には新たな年度が始まる。時計は天を指した。やはり今日も眠れずにいる。眠らない事よりも眠る事の方が身体的にも精神的にも楽だ。

 カーテンの隙間から淡い月明かりが照っている。すぐ近くにあるにも関わらずどうにもカーテンを開ける気力が起こらない。隙間から溢れた明かりにも美しさが感じられず逆に疎ましい気持ちになって目を瞑る。

 重いため息を一つ吐いて、もう一度机に目を落とした。机の下から書道用具と白紙の巻物、印を取り出す。巻物にはお世話になった大将の名と体の無事の確認、感謝の言葉などを連ねた。最後に自分の名と印を押して完了。二週間後にかれの使用人に託す感謝状、十五歳の時から毎年その日に送っている物だ。

 机の傍に置いてある箱から入軍書を取り出す。拘束された状態で軍基地に連れてこられたぼくを厳しくも優しく導いて下さった。今生きているのはインス大将のおかげ。感謝しても、し切れない。毎年だなんて本当は足りない。毎月送りたい。けれども、そんなことをしてはお邪魔になるだろう。ぼくにも仕事が有る。そっと箱に紙を戻して蓋を閉じる。

 壁に取り付けられた棚から書物を取り出す。ペラリと捲れば過去に居た一人の軍人の似顔絵。ぼくらが入軍してすぐにクーデターを起こしたが失敗し、逃亡中に堕落死した。かれの死後に北京に住まう軍人全てが集められ、かれの様には必ずなるなと数時間述べられたのを今も覚えている。

 部屋を出て、墨で汚れた手を洗いに寮の洗面台に向かう。階段を降りて角を少し曲がって。洗面台の照明を付けると目の前が真っ白になり目の奥が痛む。反射的に閉じた目を少しずつ開けて目を慣らしていく。落ち着いたので水道の蛇口を捻る。水道水の冷たさと石鹸の爽やかな匂いが気温の少し下がるこの時期には似合わず身震いする。

 ついでと思い髪の毛を解かし、歯を磨いていると寮中のスピーカーから起床を呼びかける警報が鳴る。その間ぼくはキッチンで水を一杯煽る。ここそこあそこ、どこからとも無く複数の扉が開く音がする。逆にぼくは自室に戻り軍服に身を包む。

 薄ら寒い中、寮の昇降口に三十四人が集まる。寮長を任されているので目視で全員が居るのを確認しつつも点呼を呼び掛ける。一から三十四と声をあげる寮生たちの顔色を見る。血色の良い事を確認し解散する。

「すみません、フェイツさん」

皆が間稽古をする為に中庭を目指して歩いて行く中、一人の寮生が尋ねてきた。どうやら慌てて準備をしていたら廊下を彩る花瓶の内一つを落として割ってしまった、片付けが出来ていないから片付けをしてから間稽古をしても良いかと聞く。けれど間稽古は十分間の筋力トレーニング。その後はすぐに朝食を摂らなければならない。

「きちんと報告出来たこと、原因を今からでも改善しようとするその姿勢を褒めます。」

片付けを引き受ける代わりに今日一日の寮長をやってみないかと提案すると、寮生は驚いた後、困惑しながら頷いた。ぼくはその旨を中庭で他の寮生たちに話し、寮に入る。陶器の破片を新聞紙に包み、袋に入れる。

 袋を捨てる為に食堂を横切ろうとすると扉の向こうで会話をする寮生たちの声が聞こえた。わざと花瓶を割ってトーニングをサボろうとした。そうしたらアイツが代わりに掃除をする。トレーニングよりも面倒な事を押し付けてきた。少将だなんて所詮は肩書き。

 暗い廊下に相応しい暗いため息が出た。来た道を戻り中庭を通ってゴミ置き場で袋を捨てる。朝食を食べる気にもならず洗面台に向かう。電気も付けずに冷たい水を顔に叩き付ける。俯いて滴る水を眺める。水を止めてハンカチで顔を拭く。髪が乱れていないか、襟は整っているか等という確認を終え、行く宛ても無かったので仕方無く食堂へ行く。配膳の女性に軽食にしたいと頼むと体調を伺ってくれた。

「あんた若いでしょ、もっと食べな」

「いえいえ、もう二十五歳ですよ」

「まだ二十五じゃ無いか!」

お米とお肉、野菜を頂いた。少し多いかなとも思ったが本来の朝食の量よりかは格段に少ないので何も言えない。野菜を食べるのは好きなので嬉しい。お米も我が国を代表する食べ物なので好きだ。お肉は昔は大好きで食べられる事が生きている内の幸せだと思っていたのだけれど。

 箒で端から端までなかなかの広さがある客間の数少ない埃を集める。全てちりとりで纏めて袋に入れる。水で濡らした雑巾で椅子や机を水拭きをする。塵一つ無いことを確認して廊下を掃除している寮生にも確認をして貰う。その間にぼくは廊下の確認をする。二人で目を合わせて頷く。

 次の活動までの間に靴を磨いたり今日の予定を確認したりする。これといった特別な活動も締切もなく、慌てる必要も無さそうだ。明日の予定も確認するがやはり特別なことも無い。足の怠さを感じつつも正門へ向かう。

 昇降口の前で寮生四人が旗を持ちやって来る。旗を紐に繋げて紐を引く。旗は萎んだまま昇っていく。数分眺めた後、皆が移動する。すると後ろから肩を掴まれる。振り返るとむくれた顔をした男が居た。

「キミ、フェイツクンだよね。誕生日いつ?」

「元旦です。」

距離の詰め方が凄いのかと思ったが様子が違う。かれはシャディン中将、中将ともあろうお方が一体全体なんの御用だろうか。戸惑いながら話を聞いてみるとどうやら女性の軍人に聞いてきて欲しいと言われたらしい。その女性の事がかれは気になっていると言う。そうして少し駄々を捏ねるついでにぼくが受け持つ寮生と共に間稽古をさせてくれと提案された。

 高鉄棒を肩幅より広めに握り、両腕だけで全体重を支える。顎が握り棒に触れるまで上げ、腕を伸ばしながら降りる。五十回を超えたところで隣からまた声を掛けられた。

「キミ……血液型……」

息も絶え絶えだと言うのになぜまたそんなことを言い出すのか、今で無ければ果たして駄目だったのかと考えつつも答える。

「A型ですよ。」

「へぇ……あの子……B型……」

何かまだ言いたげだが筋力と体力が足りずに何も話せずに居る。懸垂が終わった後A型とB型は相性が悪いと教えて頂いた。恐らくだがかれが気にかけている女性に近付かないようにと牽制しようとしているのだと思う。顔も名前も知らない女性にどう近づけと言うのか、恋は盲目とはこの事だろうか。

 すぐに腕立て伏せを始めると青息吐息のかれが隣に座り込んで空を仰ぎながら呼吸している。大丈夫かと声をかけるが呼吸と返事の狭間のような声を上げる。少し落ち着いたかれは背もオレの方が高い等と言うが三センチ程度の差だ。

 少し便乗してみることにした。腕立て伏せを続けながら聞いてみた。

「体重はどうなんでしょう?」

かれが体重において何を良しとするのかも少し気になった。少し唸ってから六十一キロだと言った。ぼくは誤差だがこちらの方が重いと呟くとかれは喜んだ。軍人だと言うのに軽いのが嬉しいのか。かれはぼくとは違う価値観で生きている少し面白い人物であるという印象を抱いた。

 敷地をぐるりと回るように行進した後、朝礼が始まる。指揮官六人からお話を伺い、周りに気を張って行動しろと注意を受けた。国旗を眺め国の為に身を尽くすと再度誓わされ、皆がそれぞれの持ち場に就く。

 いつも同じ時間に寮の駐車場に車を待たせている。バンパーに星が二つある車を探した。車から出てくる人を見て駆け寄る。運転手に礼を言って軍基地に向かってもらうが、今日はかれの様子が少し変わっていた。かれがぎこち無いが勇気を出してぼくに聞く。

「あの、どうして陸士達の前にまで出ているんですか?」

本来少将という階級を得た後は自分のデスクに向かって命令書の決済を行ったり訓練視察をしたりする。命令書というのは四十枚や五十枚なんて物でも七十枚や八十枚なんて物でも無い。経験豊富なかれだからこその疑問であり質問なのだ。

「眠れなくて、それは仕事に活かせると言われて他の人よりもたくさん仕事を引き受けてみたらこの有り様になっていました。」

お若いのに大変ですねと親身な顔をする運転手に礼を言う。目的地に着くまでの数分間、世間話をして行くのがほぼ日課になっていた。ただ耐えるだけ。定年まで、三十二年の辛抱だ。否、定年まで生きたとして次は何をして生きていくのだろう。

 運転手に礼を言って昇降口を通って、警備員に手帳を見せてぼくであることを確認して貰ってから階段を上がった。左に曲がり、突き当たりを目指して歩く。己の名と階級が書かれたネームプレートを横目に鍵を開けて部屋に入り、何百もの書類が積まれる事務机、手に持ている荷物の整理をしてから作業を始めた。全ての書類の全ての文字に目を通し確認、記入する。朱色の丸や四角の印を用途に合わせて押していった。密︎雲区という地名を見付け家族のことを思い出す。仕事漬けで十一年も家族の顔が見れていない。もう十一年。あれからもう十一年も過ぎているのか。

 渋々ここに来たが髪の色素が薄れるほど頑張って、血反吐が溢れるほど息巻いて働いて。そうして出来たお金を家族に送ることが出来て。其れが何より大切だった。今も毎週日曜日に給料の半分を家族に渡している。脱走や反乱防止の一環として手紙等のやり取りを禁じられているため今も元気にしているのか分からない。定年後は家族の為に全てを使おうか。

 少しばかり光が見えたところで昼食の時間が来た。今朝よりも食べられる気がしたので野菜を少し足してもらう。それでももっと食べた方が良いとまたもや言われてしまった。野菜を食べる事は出来たが問題は肉である。今朝は餃子を一つ頂いた。それならばまだ食べられる量なのだが唐揚げを三つとなると身体が受け付けない。だが目の前に有るのは無錫排骨が五切れ。甘辛い濃い味が豚の肉肉しさと混ざりあって胃が拒否反応を示す。我慢して食べて配膳係に礼を言って早足にここで最も人気の無いトイレへ向かった。鍵を閉めることも忘れて便座に縋り胃液諸共吐き出す。不愉快な音が過去最悪の記憶を呼び起こし血液までも吐き戻させた。そんな事をこれまでの人生で何千回も何千何回も行なっている。

 午後の業務も午前同様に書類に目を通して必要箇所に必要なことを記入しては印を押し続けた。何百回も繰り返し行いやっと終わったので各郷に分けたものを一束一束担当者に渡して行く。追加で貰った書類にも同じ事をしていった。

 一種の自由時間にも命令書の決済を行う。段々と頭がおかしくなりかけるが大好きな普洱茶を飲んで頭をリセットしてほとんど目や手を休める事は無かった。

 一同が集まり国旗が降ろされるのを見つめ、皆が本日の業務を仕舞いにする。ぞろりぞろりと食堂へ移動する中、どうにもご飯を食べる気になれず一足先に寮へ帰った。寮生と共同の風呂場へ向かい、髪や身体を洗って湯船に浸かる。暖かな湯に似合わぬ冷たいため息がさらに心を冷やしていくように思えた。

 お風呂から上がって髪を乾かしざっくりと解かした後、漢服を身に纏う。敷地内の第一武道場の整備を確認し、準備運動をする。これからの時間というのは航友会活動、さまざまな遊技がある中の太極拳に所属している。特にリーダーがいる訳では無いがインス大将がトップに立っていると言っても過言では無い。階級も大事といえば大事であるが、階級よりもどれだけ長く軍人として務めているのかが大事にされる。中でも階級も高く長らく軍に所属している彼はもはや崇められるような存在である。

 両足を肩幅に開いて立ち両手の指を交差して深呼吸をしていると少しずつ面子が集まって来た。だが会を掛け持ちしている人も居るのでいつも四分の一の割合でしか人数が集まらない。と言っても二万人は簡単に超えてしまうので三週間に一回は最低でも来る様にと言われている。本当に三週間に一度しか顔を見合わせない人も居るがある程度顔と名前を覚えられる様な人も半数居て、今日は三千人弱の人が集まった。それぞれで準備運動や練習、勝負を行う。穏やかな流れを意識してゆったりとした動作に集中して正しい姿勢や身体の使い方を身に付ける。さらに戦闘技術を身に付けるのだ。一人でじっくりと身体に覚えさせていった。

 自室に戻って習字道具を机の端に置き、後で作業を始めやすくした。風呂場で汗を洗い流し乾かす。再度軍服に身を包み髪を解かした。寮生達に上層部からの伝達を聞かせて解散、皆が勉強やニュース番組を見ている中でぼくは自室に戻る。

 カバンの中から五百枚弱の書類と印を取り出し作業に取り掛かった。同じ事を何度も何度も繰り返し五分の二を終わらせる。寝巻きに着替え再度作業を進めた。しばらく続けた後に日夕点呼を行う為に寮の昇降口に集まる。三十四を数え寮内へ戻った。

 ソファに座りぼんやりと床を見つめ眠気を呼んでみる。じわじわと脳の中心から頭を侵略させソファに横になる。目を瞑り息を吐こうとした。が、耳を金切り声の様な音が貫く。あまりの痛みに耳を押さえて縮こまり息をする事すらも出来ずにじっと音が止むのを待った。暫くして呼吸が出来ていなかったことから大きく荒いものになった。耳の奥で命乞いをする声が聞こえる、断末魔が響く。段々と音が大きくなり頭が床に叩き付けられるように痛い。眩暈に酔い、血の匂いが鼻を刺す。荒い呼吸によって喉が乾き刺激を受けて咳をした。すると床には血が着いた。定年前に過去とは似て非なる地獄に落とされるのかと、荒れるからだとは反対に冷静な心で感じた。

 落ち着くまでにかなりの時間を費やした。床を拭いて口を濯いだ。本来医務室に向かい治療を受けるのが賢明なのだろうが行けば恐らくしばらく安静にする様にと注意される。挙句の果てには長期休みを与えられてしまうかも知らない。これまで休まず頑張ってきたのだ。今更安静など難しい、きっと基地に出向いて仕事をしに行くだろう。

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