第75話 まさかの罠

美夜はその後も、普通なら避けるようなコメントを思いつきだけで拾い続けた。


事前に選んできた、


『どんな人がタイプですか? 水、火、ノーマル?』とか『学校ではモテますか? これまで貰ったチョコの数は?』


なんて質問があまりにもぬるく思える。


これらをノーマルモードとすれば、美夜が選ぶのは毎度ハードモード、いや俺にしてみればヘルモードだった。


「『チューしてみてください! 深めの!』だってさ、ひなた。どうする?」

「いやいや、どうもしないっての!」


生配信の手前、表立って苦言を述べられないから困りものであった。



美夜はこちらに身を乗り出すと、つっと唇を突き出して瞼を閉じてみせた。


薄桃色のチークが引かれた美しい唇には、つい目を奪われざるを得ない。

この世でもっとも瑞々しく、もっとも甘美な果実を前にしたみたいに、生唾が勝手に湧いてくる。


だがそれくらいの欲を抑えられる程度には、普段の練習から彼女に鍛えられていた。


「……やらないっての!」


俺が彼女の肩を掴み遠ざけると、そっと瞼が開かれる。

光を弾く藍の瞳は、物足りなさそうに揺れた。


「いつもはあんなにやってるのに? ずーっと、四六時中チュッチュってやってるのに?」


……いや、やってないけどね?


そういう設定だとしても、四六時中はさすがに痛すぎるだろ……そのカップル!


犬より発情してることになる。

盛りがつきすぎて、知能レベルが問題になるレベルだ。



「それは盛(さか)りすぎだし、盛(も)りすぎだろうよ……」

「おぉ、うまいこと言ったね? ご褒美に、ひなたには、愛のたっぷり詰まったキスを――」

「どんだけしたいんだよ!」


美夜が無理やりこちらに顔を突き出すのを、彼女の頬を抑え、どうにか手で押しとどめる。


もう十分コメディな絵は撮れていたし、コメント欄の賑わい方も十分なものであった。


『二人の掛け合い面白いw』

『キスしたいみやちゃんVS絶対したくないひなたくん、ワロタ』


基本的には平和なレスが流れる中、その一件だけは異様な存在感を放っていた。


『キスしたら許さない、そこまでは認めてない』


と濃い青色で装飾された大きな文字がでかでかと画面を覆う。


ここまでコメント主の声も顔も浮かぶことって、そうない。


間違いなく、梨々子であった。

それを見るや、さっきまで華やいでいた美夜の空気がみるみるうちに変わっていく。


「誰だかまったく分からないけど〜」


と、嘘丸わかりの前置きをしたのち


「認めてもらえなくても、しちゃいますよーだ! ね、ひなた? やっぱりこっち向いて」

「む、むかないって言ったら?」

「私、ひなたを振り向かせるの得意なの」


一瞬、頬に熱いものが触れる。

ほんの一瞬、すぐに離れていったのに熱がなくならない。


むしろ頬から顔中、身体中に熱が伝播していく。


なにをされたのか、分からないわけもない。

この細川美夜という女子は、気ままな人だ。思い込んだら、これくらいはしてしまえる。


俺は頬に触れ、そのまま固まってしまう。

今だけで確実に英単語20こは記憶から消え失せた、どうしてくれるんだよ、まったく。


柔らかく優しいのにも関わらず、衝撃的な一撃であった。


「ね? しちゃった。でもこれくらい挨拶みたいなものだから、許してね」


一方の美夜はまるで血を吸ったヴァンパイアみたいにいきいきとして、ぱちりとウィンクまで決めてみせた。


コメント欄は大盛り上がり。俺のウブな反応を揶揄うものや、なにやらドラマみたいだと騒ぐもの。

またしても、スパチャ……要するに札束が舞う。


それだけならよかったのだけど、


『許さない。覚えとくように』


文字面だけで、怒りがひしひしと伝わってくるコメントも飛んできていた。


「あは、ごめん。忘れちゃったよ。ね、ひなた。忘れちゃったからもう一回!」

「あのなぁ……」

「いいじゃん、動画だからって恥ずかしがらないでさ。一回したら同じだよ。みやのキス、貴重だよ?」

「じゃあ安売りするなよ。というか、いい加減張り合うなって」


出会えば喧嘩する、とは思っていたが……。

まさか顔を見ずともコメントだけで、こんなバトルに発展するところまで来ようとは。


犬猿の仲にも程がある。

美夜は配信中ということも頭から飛んでいるのか、徹底的に抗弁をするつもりらしかった。


『やだわ、なんだか焦げくさいわよ〜』


とのコメントが示すとおり、漂いだすは炎上の匂いだ。


このままでは、「ファンとガチ喧嘩!」なんてネット記事になってしまうんじゃ…………

そうなったらおおごとだ。


いやいや待て。待つんだ、俺。


ちょっと話題になる程度の炎上ならば、むしろ美味しいという可能性も大いにあるんじゃないか?


これはこのまま放っておくのも一つの策なんじゃ……


そんなふうに思案を巡らせていたときだ。

ふと、アナウンス音が部屋に鳴り響く。


不意のことに美夜も俺も黙り込んでしまううち、それは流れてきた。



――西宮市二見(ふたみ)町にお住まいの方々へご連絡いたします。



と。

……まさかの罠であった。

身バレしてしまうようなものは、全て画面外へ移動させ、万全だと思っていたが一点忘れていた。


美夜の家は、ボロアパートだ。

それでなくても役所の放送である。

家の中まで聞こえてくるのは当たり前のことであった。

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