第65話 彼シャツならぬ姉シャツフォルム?



話を終え、部屋へと戻る頃には、すでに取り返しがつかないくらい夜は深まっていた。


本来なら、美夜を家に送り届けるべきであることは分かっていた。

だが、美夜の家はここから少し遠く、歩いていけば二十分程度は要する。途中にある交番を避けた道を選べば、その時間はさらに伸びるにちがいなかった。


かと言って、タクシーを使えるようなお金も持ち合わせてはおらず……


「ごめんね、なんだかんだで泊めてもらうことになって。ありがと」

「……あぁ、うん」

「もうお眠なの、山名。まだ夜は長いよー、なんかお話しようよ、せっかくだし。私、修学旅行気分だよー」


どうして、こんなことになるんだ……! と。


ベッドの横手、クッションを下に敷いて作った簡易布団で俺は一人もだえる。


ベッドを使っているのは、もちろん美夜だ。

彼女はクッションでいい、と遠慮をしてくれたが、そこは男の意地で彼女に譲った。


すでに消灯していて、彼女の姿はよく見えなくなっていた。


けれど美夜は現在、彼シャツフォルムならぬ、姉シャツフォルムだ。

そのままの服で寝てもらうのも忍びないと、姉が使っていた寝巻きを貸してみたら……化けた。それも大化けだ。


過去に姉が披露してくれた時には、「ふーん」としか思わなかった寝巻きも、美夜が纏えば話は別。思わず、どきりとさせられた。


……暗くてよかったよ、まじで。あんな姿、直視できないっての。


俺はほっと息をつき目を瞑る。


だが、衣擦れの音やら呼吸やらが、ベッドのうえにいる細川美夜の存在を忘れさせてはくれなかった。


なんかいい匂いさえ降ってきてる気がするのは気のせいか、これ? でも、美夜ならそれくらい自然に纏っていても不思議ではない。


学校一、いや街全体で見ても群を抜くほどの美貌を持つみんなの憧れ。

そんな女神さまみたいな美人が、いつも俺が使っているベッドの上にいるのだ。


一度、下手に寝落ちしたこともある。

意識をしてしまったら、目は暗闇の中どんどんと冴えていく。開いた瞳孔が閉じてれない。

そして、眠りの妨げとなるのは彼女の存在だけではなかった。


一番の敵は、腰痛! YOUTUU!


美夜が横にいなかったのなら、もだえていたかもしれない。

俺はむくり起き上がる。


「あれ、どうしたの、山名。おトイレ? ついていってあげよっか? 怖いでしょ」

「自分の家のトイレはこわくねぇよ」


怖いのは、むしろ自分の身体だ。

いくらよく歩いたとはいえ、この歳で腰痛とはこれいかに。


「もう、お姉の部屋で寝ようかな」


……いや、名案かもしれない。

うちの姉は今頃、飲み屋でグラスを降りまわして大暴れ、というか大飲酒をしているに違いない。


もう終電もとうに過ぎているし、朝まではきっと戻らないだろう。

それより前に起きて、美夜を家に送迎すればいいだけの話だ。


うん、決まりだな。その方が美夜もよく寝られるにちがいない。

立ちあがって部屋を後にしようとするが、背中に当てられるは柔らかな感触。


いや、胸とかそういうのではなくて、枕だ。


「だめだよ、山名! 私のせっかくの修学旅行気分、どうしてくれるのさ。行かないで、ここにいて」

「修学旅行なら男子と女子は部屋、別だろ。それに俺の腰が悲鳴をだなぁ」

「そういうことなら、一緒に使お? 大丈夫、ちゃんとスペースあるから」


美夜はベッドの左端、壁に当たるところまで毛布にくるまりながら転がっていく。


俺のベッドは、シングルベッドだ。

できた空間は、せいぜい一人分以下のスペース。あんなところに入ったら、肌と肌が触れ合う、なんて距離感ではない。


飛び込むわけにはいかないと、俺はクッションの上にあぐらをかいて座る。


「奥手だなぁ、山名は」

「そういう問題じゃないっての。そもそも、いくら恋人の練習だからってそれはやりすぎだろ」

「そうかなぁ」


彼女はくるんと顔を返すと、うつぶせの姿勢。泳ぐみたいにぱたぱたと足を動かす。

それから跳ね起きて、そうだ、とつぶやく。


……なにかよからぬことを思いついてしまったらしい。着ていた姉のシャツのうしろへと手を回す。


「……なに、なにを思いついたんだよ今度は」

「あは、警戒しすぎ。って、そもそもこれを着せた山名が悪いんだからね?」


美夜はそう言うと、もじっと足を内股に寄せる。

さらには、しなを作って、みずみずしい色気を纏った。


美夜はシャツの裏に垂れていた飾り紐を軽く下にひっぱる。


すつと、なんとシャツの裾がするするとたくし上げられていき、綺麗なくびれとへそが露わになったではないか。


思わず目を見開いたのは、俺の意志ではなく超自然的な反応だ。


「な、なんだよ、それ! はやく、しまえっての」

「い、や、だ。というか、このシャツ着せたの誰って話じゃん? そういうこと期待してたんでしょ」

「ばか、違う違う! それは姉の私物シャツだっての」


な、なんてものを買ってやがるんだ、あの酔いどれ大学生め!

だいたい、見せるような、いい相手もいないのくせに……。



今頃、でろでろに酔っているだろう姉に脳内で、強烈にツッコミを入れる。


「そんなわけわからんギミックがあるとは知らなかったんだよ! まじで」

「あー、まあヘソだ出しシャツのことまで、男子が知るわけないか~」

「そう、そうだ。これは出会いがしらの事故だ。やましい気持ちはゼロだったっての」

「あはっ、ゼロだったってことは少しは湧いた? 手、出されてもいいよ。それくらいの覚悟はお泊りだから覚悟して――」


揶揄うのも、これくらいまでにしてほしかった。


日陰者の俺だ。こういう状況への許容度は、極端に低い。

俺は起き上がり、美夜の頭にチョップをくれてやる。手加減はしたが、たぶん普通に痛いくらいの。


「もっと自分大事にしろ馬鹿、アホ、あんぽんたん」

「うわ、ぱくられたし。というか、手出なかった代わりに、手あげたー。暴力反対~、ドメスティックバイオレンスだよ、これ」


「人聞きの悪いことを言うなよ、少なくとも家庭内じゃねぇ!」

「誰も聞いてないからいいでしょ〜。悪い山名には、こうだ!」


美夜は仕返しだとばかり、俺の手首を引き上げると、何度もしっぺを食らわせてくる。


……またしても爪がないことに救われた。

全然これっぽちも痛くない。


ぺちぺちというアンニュイな音が部屋に鳴り響くなか、やたら生き生きとしている美夜。


なんだか滑稽な組み合わせに、俺は思わず吹き出す。

美夜もそれで、たがが外れたように笑い始めて、暗く静かだった部屋が一気に賑やかになる。


「ほら、もういいだろー。はは、分かった分かった」


やっと少し落ち着いてから、俺は美夜の手を取り引き剥がした。


これでお戯れは終わり。

そうなるはずが、俺はうっかり捕まってしまった。


とんでもないトラップだ。

たとえば暗闇の中でも、その破壊力は落ちてくれない。


こぼれいる月明かりを輝きを増して弾き返す。美夜の深い群青色の瞳に捉えられたらたぶん、誰も逃れられない。


このまま吸い込まれてしまいそうだとすら思う。


唾を飲むことも、呼吸すら忘れて少し。

俺たちは至近距離で見つめ合う。


恋人、それも本物の恋人にしか許されないくらい、すぐそばに彼女がいた。


瞬きすらできずにいたら、美夜の鼻先がくんとひくつく。


「ねえ山名……」

「な、なんだよ」

「……豚骨臭いよ? あと、にんにく」

「細川さんもだぞ、ちなみに」

「………………歯、磨きにいこっか」


そういえば、ラーメンを食べ終えた後だったことをすっかり忘れていた。


豚骨とかニンニクとかは、本来、彼女の印象とはもっともかけ離れた匂いだ。



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