死人に口あり~三年ぶりに目を覚ました妹が別人だった件~
神戸拾樹
第1話 令和の都市伝説
クラスの喧騒が耳を流れていく。
普段から一人でいる僕にとっては、本当に右から左に流れるだけ。
「ねえ、知ってる? あの噂」
「なになに~」
「夜歩いてると、出るんだって」
「なに、おばけ?」
「違う違う。めちゃくちゃでかいマスクしてて~」
そんな女生徒の話題も右から左へ。
僕の性格のせいか、友達も作れないから。
高校にいる間はただぼうっとする時間でしかない。
下校中、あまり通りたくない道に出る。
でも、ここに来ないと病院に行けないから仕方ない。
二車線の車が交通する交差点。
その信号のふもとには幾つかの花が供えられている。
ここで三年前に妹の
幸い、死ぬことはなかったけど、未だに病院のベッドで眠っている。
いつ目を覚ますかもわからない植物状態。
そんな記憶がここを忌避させることもあるけど、それだけじゃない。
頭が砕けて脳みそが露出した淑女。
腹が破れて内蔵が飛びでた青年。
両腕がありえない方向に曲がった少女。
別名、魔の交差点。
ここには、たくさんの幽霊が今も彷徨っている。
そう、僕にはちょっとした能力がある。
人に自慢できるわけでもないし、生きててなんの役にも立たないけど。
いやむしろこの能力のせいで今の性格になったと考えると、マイナスでしかない。
大体、幽霊なんて見えたところでなにもいいことなんてない。
スプラッタ映画さながらのグロ光景に慣れるだけだ。
ただ、慣れるからといって気持ちのいいもんじゃないから、この交差点に来るのはあまり好きじゃない。
彼らに目を合わせないように通り過ぎた。
病院に着く。
ここの病院は救急指定されていないことが関係しているのか、幽霊も病気で死んだ人が大半で、肉体の損傷は見られない。
沙羅の病室に入って、カーテンを開けて薄暗い室内を明るくさせる。
心電図の音が一定のリズムで鳴り続けている。
僕に変な力があるというのなら、妹にエネルギーを分け与えて起こしてあげられればよかったのに。
でも、僕にそんな力はないんだろう。
何度も試しているけど、妹が起きる気配は一切ないから。
『おにいちゃんっ』
沙羅は、僕の光だった。
死体だらけのこの鬱屈とした世界に染まって、死人のような顔で生きる僕に友達は全くできなかった。
だけど、そんな僕のことを沙羅だけは頼ってくれた。
おにいちゃん、おにいちゃんと言って、僕のことを慕ってくれた。
「はやく起きろよ……」
沙羅の手を握って祈るように瞼を閉じた。
幽霊が見える僕だからこそ、神の存在を信じている。
ただそれは、いたとしてなにもしてくれない気もするけど。
だけど、どうか、どうか妹だけは。
ふと、冷たい風が通り過ぎた。
冬だから窓なんて開けていなかったのに。
窓に視線を移すもやっぱり開いていない。
でも今の冷たさは……風?
「ん、ん……」
慌てて沙羅を見る。
光が眩しいのか、うっすらと、それでも必死に瞼を開けようとしている。
「沙羅!」
急いでナースコールを押す。
けれど。
「だ……」
なにか声を出そうとしているのか。
三年も眠っていたからか、喉はひっついてうまく喋れないんだろう。
口元に耳を近づける。
「だ、れ?」
あまりにもか細く、消え入りそうな声で。
「記憶障害は三年の月日か、事故が原因でしょう。ですが、日常を送ることで一時的に失くした記憶が取り戻されることもあります。目を覚ましたことが奇跡的なところもあります。根気強くご家族が支えてあげましょう」
と、お医者さんは言った。
確かにそうだ。
植物状態から目を覚ましてくれた。
それだけでも充分じゃないか。
そして沙羅はその後検査、リハビリを経て家に帰ってきた。
その日は久々に四人揃っての食事で両親が泣いたことは言うまでもない。
「は、はは……」
ただ、沙羅はただ困っているようだったけど。
それはそう。彼女にとって俺は兄じゃないし両親は両親じゃない。
記憶障害の影響か沙羅は性格も変わっているようだった。
三年前の事故の日は元気一杯な子だったけど、今は物静かで口数も少ない。
それでも、沙羅が帰ってきてくれて嬉しかった。
そう、僕がそれに目を瞑ることができていれば。
みんなが幸せなままだったかもしれない。
それは偶然、沙羅がお風呂に行こうとしているのを、廊下で見かけた時だった。
一瞬、沙羅がダブって見えた。
できの悪い映像を見させられているような。
二人の人間が重なっているような。
「沙羅」
声をかけると沙羅は振り向いて、いつも通りの沙羅がそこにいた。
「……なに?」
どこか警戒した瞳。
僕を慕ってくれた沙羅じゃ考えられなかった視線。
「ごめん、なんでもない」
そういうと、沙羅はすぐに浴室へ向かった。
僕の見間違いだろう。
そう思うことにしておきたかった。
だけど、そのダブりは一日に一回は必ず見えるものだった。
なにか決まった時に起こるわけじゃない。
ご飯を食べている時や、廊下ですれ違う時、それは突然にやってくる。
そして僕はその現象を見たのが初めてじゃなかった。
初めてじゃないから、その度に不安になっていく。
幽霊が見えるのは家族で僕だけだから、両親も気づいてないだろう。
ただの記憶障害だと疑ってないはずだ。
だけど、何日も何日も見せられて、不安はもう限界だった。
就寝前、僕の部屋と沙羅の部屋は二階で隣同士。
沙羅の部屋の扉をノックする。
「はい」
がちゃりと開けられ、視界に映る沙羅の姿が、どこか知らないように思えた。
そんなものは僕の勘違いだと、疑念を振り払う。
「少し、話いいか?」
「うん」
沙羅の部屋には久しぶりに入る。
仲が良かったとはいえ、この三年間、入ったのは事故があってすぐの頃の一度だけだったから。
その頃と違って、壁には複数枚のポスターと黒いうさぎのぬいぐるみが増えていた。
部屋の内装も事故前はもっと乙女なファンシー要素が強かったけど、今は反対に黒基調のダークな趣がある。
事故で性格が変わったとはいえ、趣味嗜好まで変わるんだろうか。
疑念が次第に膨らんでいく。
「話って?」
ベッドに座り込んだ沙羅は足を組んで、けだるそうに口を開く。
「……お前、誰だ?」
確信のある質問じゃなかったけど。
でも、そう聞くしかなかった。
だって、人がダブって見えるその現象は――幽霊に乗り移られた人に起こる現象だったから。
「あははっ、気づいたんだ」
その答えに、自然と手は拳を握りしめていた。
「沙羅は、どうした」
一階には両親もいる。
大声を出すわけにはいかない。
二人が知っていいことじゃないし、知ったとして信じっこないだろう。
「知らないよ。私はこの体に入れただけだから」
それでも、会話する度に息が苦しくなっていく。
答えがもうわかっているというのに、直視しないといけない現実から目を逸らしたくなる。
「お前は……なんなんだ」
「……さぁ?」
髪を弄りながら首を傾げている。
その仕草に胸が詰まる。
それは沙羅の仕草そのものだったから。
中身が違っても、身体の記憶なんだろうか。
でも、沙羅じゃない。
目の前にいるのは沙羅の身体を勝手に使っているナニカだ。
「私がそういう存在だってのはわかってるけど、生きてた記憶なんてないし、気づいたらこの子に入っちゃってただけだし」
そういう、ものなんだろうか。
実際、僕は視えるからといって死者と対話したことなんてないからわからない。
「でもちょうどよかったじゃん」
……ちょうどよかった?
「ほら、この子死にかけだったんでしょ? ずっと身体動かしてないとおかしくなっちゃうだろうしさ、私も使える身体ができてラッキーだし」
「ふざけるな!」
沙羅の、沙羅じゃないナニカの胸ぐらを掴んでいた。
でも、この身体は沙羅だから。
顔も、声も、沙羅だから。
握りしめた拳を振り下ろす先なんてないけど。
「頼む……父さんと母さんの前では、記憶がないフリを続けてくれ」
「ふーん。じゃあ”おにいちゃん”の前では?」
さっきから妙に怒らせようとしてくるのはなんなんだろうか。
悪霊なんだろうか。
生者の苦痛が至福なんだろうか。
掴んでいた胸ぐらを離して翻る。
「”おにいちゃん”って、呼ばなくていい……」
それだけ言い残して沙羅の部屋を出た。
自室のベッドに倒れこんだ拍子に涙は溢れた。
知らなければ幸せであれたのに。
希望を持たなければ苦しまなかったのに。
「沙羅……沙羅……」
沙羅の目はまだ覚めていないことを、僕だけが知っている。
泣き疲れて眠っていたのか、目を覚ますと昼だった。
今日が学校じゃなくてよかった。
とてもじゃないけど行く気がしない。
起きる気もしない。
布団から出たくもない。
がちゃ、と突然部屋の扉が開く。
「まだ寝てんのー?」
昨日までの静けさはキャラ作りなのか。
なんでそんなことをしてるのかはわからないけど。
「起きなよほらー」
布団を剥がされて嫌でも冬の寒さが沁みて震えた。
「うわぁ、なにその顔。私より死人っぽい」
元々の仏頂面が昨日のことで酷くなってるんだから仕方ない。
「なに」
声を出すのも億劫だし、なによりこいつと話をする気が起きない。
「街連れてってよ」
「……嫌だ」
「拒否権あると思ってんの? いいの? 私がグレたりして」
……どうせ憑りつくなら知能の低い奴ならよかったのに。
こいつは沙羅の身体が人質だと知っている。
「お母さんもお父さんも泣くだろうなぁ。なにより君は大切な妹が危険な目にあって、いいのかにゃ~」
君、という言葉は意外にも胸に突き刺さった。
沙羅の声でそんな呼ばれ方をするのはもちろん初めてだ。
「……悪霊」
「悪霊になるもならないも君次第。ほら、起きて」
そうして、僕は渋々こいつを街へ案内しなければならなくなった。
街までは駅で三駅とそう離れていない。
こいつは電車に乗ると、窓の外の景色を見て楽しんでいた。
そんな無邪気な姿を見ると、記憶の中の沙羅が笑いかけてくるようで、頭を振った。
「わぁ」
「で、どうすりゃいいの」
「遊べればなんでもいいよ~」
「あそ、ぶ……」
困ったことに街で遊んだ経験が僕にはなかった。
「もう、頼りないなぁ。そんなんじゃ彼女できないよ?」
「彼女がいないなんて言ったか?」
「いるわけないじゃん」
反論できないのが悲しい。
「じゃあまずはお昼! お腹空いたし!」
そうやって元気に言葉を発するとまるで沙羅のようだけど、やっぱりなにか違うように感じる。
精神がすり減っていくことを感じる。
実際、こいつの言う通りではあるんだよな、と。
巨大パフェを幸せそうに頬張る姿を見て思う。
植物状態は続けば続くほど身体機能が衰えていく。
それとは別に、これはよくある話として思うだけだけど、眠り続けると身体と魂の結びつきはどうなるのだろう。
そういった意味ではこいつの言う通り、身体を動かしている今は魂のリハビリとしていいのかもしれない。
いつか、沙羅が目を覚ます切っ掛けになるのかもしれない。
そんな風に寛容になってしまうほどには、目の前にいるこいつは悪霊ではなかった。
「次は買い物いきたい!」
スマホで調べて雑貨屋や服屋が集まったビルに入る。
きらきらの商品を見て目を輝かせるこいつは、年相応の女の子だ。
ただただ、生者の生活を楽しんでいるだけだ。
「これとこれ、どっちが似合うかな?」
色違いの白と黒のワンピースを肩に合わせて聞いてくる。
どっちが似合うかはわからないが、沙羅なら白を着るだろうから、そっちを指さした。
「じゃあこっちにしよー」
と、そいつは黒のワンピースを買った。
俺に聞く意味は全くなかったと思う。
「プリクラ! プリクラ撮りたい!」
露骨な嫌な顔をしたけど僕に発言権はなかった。
でも、後から考えてみれば撮ってよかった。
プリクラに映る俺とこいつ。
だけど、二次元で見ればこいつの介入する余地はない。
写っているのは僕と沙羅だけだ。
「そろそろ帰るぞ」
「えー」
眉間に皺を寄せて、むっとするその仕草は、沙羅の仕草だった。
時折現れる瓜二つの様相に、心がかき乱されるのはどうにもならない。
「もう夕方だ。帰らないと父さんと母さんが心配する」
「むー……じゃあ、また連れてってよ」
「いい子にしてたらな」
と、頭に手が伸びたのを抑えた。
「ん? 撫でたいの? いいよ、ほらほら」
「……やめろ」
苦虫を噛んだような想い。
こいつは沙羅じゃない。
俺もそれに慣れなきゃいけない。
まだ六時になっていないというのに、冬なこともあって、地元の駅についた頃にはもう真っ暗だった。
「……お前、もしかして恐いのか?」
そいつは僕の服の袖を掴んでいる。
家に帰る途中、どうしても街灯の少ない道があるから、普通の感性でいえば恐いのはわかる。
「だ、だって……」
「いやだってお前自身がそうだろ」
「そうだけど……」
なんだろう。
もしかして幽霊世界にも序列みたいなもんがあるんだろうか。
「幽霊だった時の記憶とかあるのか?」
「ふんわりと、だけどあるよ。ミスケロはそれで好きになったし」
「ミスケロ?」
「ミスティックケロイド。部屋のポスターの」
「ああ……」
どうなんだそのグループ名。
「じゃあなにが恐いんだよ」
「わかんないけど雰囲気が恐いじゃん、女の子だよ私ぃ」
んー……生理的に無理、って奴だろうか。
「まぁこの辺りにおかしなのは出ないし、大丈夫だよ」
「……でも、あれ……なに?」
こいつの足が立ち止まる。
視線の先を追うと、街灯の下に一つ人影があった。
時間も時間だし下校中の生徒かと思ったが、人影は遠目に見てもロングコートを着ていて、腰まで届く長い髪と、あまりにも大きなマスクを付けていた。
ふと、数週間前の噂を思い出す。
『めちゃくちゃでかいマスクしててさ、わたし綺麗? って聞いてきて、綺麗って言うと』
いやいや、ばかばかしい。
知識としては知っている。
僕達の親世代に流行したあの話だ。
今更再流行なんて、時代錯誤も甚だしい。
でも、足を進める気が起きない。
「ひっ」
人影は、こちらへ近づいてきた。
間隔の空いた街灯は薄暗く、その人影は静かにこちらへ歩いてくる。
逃げた方がいいだろうか。
でも、怯えて震えたこいつが逃げられるとも思えなかった。
きっと気のせいだ。
考えすぎだ。
「わたし」
気づけば、それは目の前にいた。
あからさまに僕たちの目の前で足を止めて、ぎょろりと覗いた血走った目が睨みつけてくる。
「綺麗?」
その言葉は、噂のままに。
「き、綺麗! 綺麗です!」
隣で恐怖で震えあがるそいつが口走る。
すると長髪のそれは、ゆっくりとマスクを外す。
「ーーこれでも?」
マスクの下は見るも無残に、唇は剥がれ歯が全て露出していた。
耳元まであらわになった肉が狂気に満ちて微笑んでいる。
「はい! はい! とっても! 綺麗です!」
一説によると、口裂け女は綺麗か聞き、口を見せて綺麗じゃないと言えば激昂して相手を殺し、そして綺麗と言えば同じにしてやると口を裂いたという。
けど、そんなことは意味がない。
「馬鹿!」
「じゃあ! 同じにしてやる!」
振り上げられた手には包丁が握られていて、僕は咄嗟に妹を抱えて飛びのいた。
「いっ」
庇った拍子に背中が切られたらしい。
じわじわと、鈍い熱さが広がっていく。
「な、なんとかしてよ!」
「逃げるぞ!」
「で、でも、塩とか、十字架とか!」
近づいてはっきりわかった。
「こいつは人間だ!」
その唇の剥がれた意思の疎通できない噂のこいつは、ただ狂っている人間だった。
なんで口裂け女の真似なんてしているか知らないが、そんなことはどうでもいい。
狂った人間の考えなんて理解できっこない。
「で、でも……た、立てないよぉ……」
かといって。
人間だろうが幽霊だろうが、僕に力なんてないわけで。
ただ、僕は幽霊が視えるだけなんだから。
それでも――。
血走った目が僕達を捉えている。
ぐふふ、と涎を垂らしながら、僕達の恐怖を食らうように、楽しそうに、近づいてきている。
そんな狂人の前に立って両手を広げた。
「僕になにしてもいいから! こいつだけはやめてくれ!」
それでも、沙羅の身体を傷つけさせるわけにはいかない。
たとえ中身が沙羅じゃなくたって。
「ふたり、なかよし、ちゃんと……殺したげる」
駄目か……。
狂人は高く包丁を振り上げて、迫る死に目を瞑った。
痛く、ない。
いや、包丁はまだ、刺さっていない。
恐る恐る瞼を開けると、狂人の瞳が僕を見ていないことに気づいた。
その一歩横の、隣の、なにかを見て、怯えているように思えた。
じゃきっ、と。
鉄の刃が擦れる音が響いた。
唐突に腹から冷えあがる震えが歯を揺らす。
こわい、恐い、怖い。
横にいるそれを、視ることが、できない。
「…………ェ」
確かに、いる。
僕の横に、それはいる。
それは、間違いなく人じゃなく、この世のものではなく、幽霊、のようですらなく。
「オマエカァァァァァァァァア!」
濁り散らした咆哮のような声を聞いた刹那、じゃきん、と。
視界にあるのは、崩れ落ちる身体と、大きな鋏に乗った口から上の頭だった。
蛇のように首が動いて、恐怖そのもの振りまく彼女が僕を見る。
耳まで裂けた大きな口はぱっくりと開かれていて。
けれど、印象強いのは、とてもとても悲しそうな、泣きだしそうな瞳だった。
「――――」
ソレは頭を振り払うと、鋏を引き摺りながら、闇の中へと消えていった。
「い、いま」
こいつにもソレは視えていたんだろう。あまりにも強い存在だから、おそらくアレは誰にでも視える。
「忘れて、って、言ってた?」
「……だな」
もしかしたら彼女は覚えていてほしくないのかもしれない。
幽霊とは違った存在の、都市伝説の妖怪。
令和になって知る人も随分と減ってきた。
彼女は現代に産まれた妖怪として有名だった。
つまるところ、元々存在していなかったはずだった。
だからようやく忘れられて、静かにいられたんじゃないだろうか。
噂が広まれば彼女はまた存在しなければならなくなるんじゃないだろうか。
そしてそれは、彼女の本意じゃないのかもしれない。
だって彼女は自分を騙る人間に、心底怒っていたようだったから。
それにしても。
「はぁ」
生きててよかった……。
腰の抜けたそいつをおぶって帰っていた。
正直、あんなわけのわからない死体を警察にどう伝えればいいかわからないから、逃げた。
「ねえ」
「ん」
「なんで……守ってくれたの」
「そりゃ、沙羅の身体だしな」
「そう……だよね」
背中でどんよりとした空気が流れているようだった。
沙羅のその身体であまり落ち込まないでほしい。
どうしても僕は錯覚してしまう。
「それに」
「……」
「お前、悪い奴じゃないみたいだしな」
それは今日一日街で遊んでわかった。
こいつがなんなのか知らないけど、沙羅の身体に憑りついた魂だ。
でも、そんなのが曖昧な事象だってことは、おそらくこいつが一番よく知っている。
もしかしたら――明日、突然魂は抜けてしまうかもしれない。
やっと生き返れたのに、今この時にでももう一度死んでしまうかもしれない。
希望を知らなければ苦しまなかった。
そんなこと、僕だって、こいつだって、同じだろう。
生者でも、死者でも、人でしかないんだから。
だから街で遊びたかったんだろう。
ちょっとでも今を楽しめるように。
いつか来る終わりに怯えずに済むように。
そう考えたら、沙羅の身体に憑りついているからって邪険にすることもできなくなってしまった。
「ふふっ」
ぎゅっと首を絞める力が強まる。
「苦しいって」
「んー!」
「おろすぞ!」
「やー」
まるでそれは沙羅と過ごすような、幻想の世界だった。
でも、これを神様に届いた祈りの結果だとは思いたくない。
もしそうだとしたら、沙羅は……。
答えのない話を考えても仕方ない。
「お前の名前、考えなきゃな」
「名前、名前かぁ……沙羅でいいけどなぁ」
「それは、無理」
「んー……じゃあ、さや」
「もっと別の名前にならない?」
「これ以上はグレますー」
「はいはい、なんでもいいよ」
「さぁちゃんでもいいよ!」
「さやね」
「ぶー」
背中の重みがたとえ偽物だとしても、僕の心はどこか晴れていた。
たとえまやかしの日々だったとしても。
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