8.

 わたしは日記を書きおえて、四月始まりの手帳を開いた。来年の一月のマンスリーのページを開き、その七日のところに「晴野カナメさんの誕生日」と、赤いボールペンで書きこむ。

 誕生日プレゼントを贈っても、迷惑にはならないだろうか。贈るとしたらなにがいいだろう。画材? 絵の具、筆、あるいはパレット……。いや、そういったものはもう持っているだろうし、晴野さんなりのこだわりだってあるだろう。画材はやめたほうがいい気がする。

 なにか、使ってもらえるものがいいな……。食べたら無くなってしまうお菓子だとか、ただ机の上に飾るだけのオブジェだとか、そういったものではなく、日常的に使うようなもの。

 ふと、自分の持っているボールペンに目をやる。高級なボールペン——あくまで、ボールペンとしては高級、という意味で——を贈ったら、晴野さんはそれを使ってくれるだろうか。でも、晴野さんがボールペンを普段使いしていなかったら、ボールペンを贈っても使ってもらえないかもしれない。わたしは、晴野さんが普段どんな筆記具を使っているのかすら知らない……。

 多機能ペンならどうだろう。黒いインク一色のボールペンよりは、使ってもらえる可能性が高くなる……、ような気がする。来週の土曜日にでも文房具屋に行って、ペンを探そう。手元の手帳の今月のページを開いて、赤いボールペンから黒いボールペンへと持ちかえ、次の土曜日の欄に「文房具屋」と書きこむ。

 手帳を閉じて、わたしは部屋の電気を消した。ベッドに身を横たえ、布団をかぶる。思いだそうとしたわけでもないのに、晴野さんの微笑みを思いだしてしまう。なんだか眠るのにいつもより時間がかかりそうだ、と思った。

 早く眠りたいのに……。

 布団にもぐってからどれだけ時間が経ったのだろう。体を起こして部屋の電気をつける。時計を見ると、まだ五分も経っていなかった。もう一度、部屋の電気を消す。

 わたしはなにをしているのだろう。いったい、どうしたのだろう。


 わたしは部室で、描きかけのキャンバスに向かっていた。イーゼルに立てかけた大きなキャンバスだ。キャンバスの下半分には、ビル群。ビルはどれも、地面の近くから崩れていっている。

 絵の具の入っている箱を開けて、青と白の絵の具のチューブを手にとった。そしてパレットの上に青い色と白い色を出して、オイルで濡らした筆でその二つをかきまぜる。そうしてできた空色を、キャンバスの上のほうに伸ばしていった。

 扉の開く音がしたので顔を向けると、晴野さんが入ってきてにっこりと笑った。

「やあやあ、この時間も講義ないんだ?」

「いや、ほんとうはあるんですけど、休講になっちゃって」

 晴野さんはわたしの横まで歩いてきて、キャンバスに目をやる。

「おもしろい絵だね。なんだか少し寂しい感じもするけど」

「題して『ゲシュタルト崩壊』です」

 わたしの言葉に、晴野さんは首を傾げる。

「わたし昔、ゲシュタルト崩壊のこと、ゲシュタルトっていうどこかの都市が崩壊していった事件のことだと思ってたんですよ」

「ああ、なるほど」

 そう言って晴野さんは笑う。

「そうだ、今日はユウは来てないかな?」

「わたしは会ってないですね」

 そっか、と答えながら晴野さんは部屋の後ろにある棚へと歩いていく。

「そういえばこの前、林さんが声かけてくれたんですよ。学食で」

「えっ?」

 晴野さんはこちらを振りかえり、心底びっくりしたような顔をした。

「ユウが?」

「はい。えっと、どうしたんですか、そんなにびっくりして」

「いや、あいつが部室でもないところで、他人に自分から声かけるなんて、そんなの滅多にないと思うよ?」

「はあ……」

「それで、ユウに声かけられたのがそんなに嬉しかったの?」

「え、いえ、安心はしましたよ。林さんってその……、とっつきにくそうな印象があったから」

「ああ、まあそうだねえ」

 晴野さんはわたしの答えに、どこかほっとするように笑う。そして体をくるりと回して、棚の前まで歩き、箱を一つ手にとった。

「どんな話をしたの?」

「えっと、コンテストの絵はどうかって訊かれて……」

「訊かれて?」

「あー、えっと……」

 わたしは思わず言葉に詰まる。とはいえ、なにも言わないほうがまずいような気がしたし、かといって上手な嘘も思いつかなかった。

「晴野さんのことを、その、好きなんじゃないか、って言われて……」

「僕を?」

「は、はい……」

 晴野さんは箱を手に、またこちらへと体を翻した。

「それで君は、なんて答えたの?」

「えっ……?」

 どこか神妙な顔つきで訊ねられてまごついたわたしは、左手に持っているパレットに目を落とした。薄い青い色が夕日を受けて、粘りつくように照った。

「好きですけど、人として好きですけど、恋愛感情かはわからない、って……」

「そっかあ」

 苦笑するように晴野さんは小さく呟く。わたしはパレットから目をあげて、晴野さんのほうに体を向けた。

「晴野さんは、誰かを好きなときに、それが恋愛感情なのかどうかって、わかりますか?」

「うーん……、まあ、なんとなくわかるよ」

 晴野さんはわたしの問いかけに、困ったような声で答えた。そして箱を机の上に置いて画材をいくつか取りだし、パレットの上に絵の具を何色か出しはじめた。

「どうしたらわかるんでしょう?」

「え、なにが?」

 こちらを見ることなく晴野さんは首を傾げて、筆を手にとりパレットの上で絵の具と絵の具を混ぜる。

「誰かを好きだと思ったときに、それが恋愛感情かどうかって、どうしたらわかるんでしょう?」

 わたしは自分の体が少し晴野さんのほうへ乗りだしていることに気づいて、すっと姿勢を正した。

「さあ……。まあべつに、わからなくてもいいんじゃない?」

 晴野さんはそう言って、右手に筆、左手にパレットを持ち、右端のキャンバスの前に立った。

「晴野さんは、今、誰か好きな人がいるんですか? 恋愛感情で好きな人が」

「えっ、どうしてそんなこと訊くのさ」

 どこか慌てたような声で問われて、わたしは自分自身に対してまったく同じ疑問を抱いた。わたしはなぜ、そんなことを訊いたのだろう。

「いえ、なんとなく……、すみません」

「いや、謝らなくてもいいけど……」

 晴野さんはそう言って、ふっと小さく息をつき、こちらを向いた。

「今までに誰かとお付きあいとか、したことないの?」

 結局わたしの問いには答えることなく、晴野さんがそう投げかけてくる。

「ないです。誰かに恋愛感情を抱いたというような記憶も、ないんですよね」

「そっか。まあ、ユウが言ったことは気にしなくてもいいと思うよ」

「はい……」

 それ、確か林さんも自分で言ってたなあ、とぼんやり思いながら、わたしはそれだけ答えた。

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