第12話 たりない5センチ

 その日はいつもと変わらない朝だった。


 太一がいるかとホームを探すが、朝は一度もみかけたことがない。


 出社してすぐに奈々子はメールのチェックをはじめた。太一はまだ出社していない。


 重要フラグのたったメールから、奈々子は読み始めた。


 それは、香水の発売が中止になったことを知らせるメールだった。


 奈々子の背筋を冷たいものが走り抜けていった。


 取り急ぎ、香水発売中止のプレスリリースを出さなければならないが、すでに美香が動いているはずだ。美香のワークステーションには、飲みかけのコーヒーがあったが、ラップトップが見当たらないことから、おそらくどこかでミーティングをしているのだろう。


 次第に出社する人間が増え、みるみるうちにメールボックスがいっぱいになった。遅れて出社してきた太一とは直接話をする余裕もなく、メール上で他の関係部署をまじえてのやり取りに追われた。


 夕方になると、騒ぎはいったん落ち着きをみせた。


 中止のプレスリリースの段取りは決まって、あとは明日、一斉に各マスコミに連絡を取るだけとなった。


「ジェーンのPRと、うちの上とでもめてね。表向きはジェーンのイメージ戦略と、今回の香水プロデュースがあわないってことなんだけど―」


 美香は言葉を濁したが、言外に金銭がからんでいることをにおわせていた。来日するジェーンのための記者会見の段取りを進めていた美香は悔しそうな表情をみせたが、奈々子はもっと悔しかった。


 それまで、残業しようものなら人生の時間が食いつぶされるような気がしていた奈々子だったが、今回に限っては残業もいとわないほど働いた。


 社会人になって3年、ようやく一通りの仕事にも慣れ、そつなくこなせるようになった奈々子は、もう一段上を目指していた。会社のイメージを保つための地道な裏方もそれなりに楽しいが、表舞台も体験してみたい。奈々子は野心を抱いていた。そんな矢先にふってわいたジェーンの香水プロジェクトである。


 奈々子は、広報として「ハリウッドセレブのプロデュースによる香水発売」という事実以上の情報を発信したいと思った。ジェーンはアイデアと名前を出したかもしれないが、実際に商品を形として世に送り出すのは、企画・開発部の関係者たちだ。彼らの香水に対する思い、熱意をどうしても伝えたい。


 奈々子は、自分が発信した情報がどこに到達するかを見届けたかった。会社としては売上という到達地点があるが、奈々子の仕事、広報には数値目標がない。イメージという、形のないものを作っていくのが奈々子の仕事で、今回ほどやりがいを感じた仕事はなかった。


 香水発売という事実以上の情報を発信する。それは奈々子の出したアイデアだった。香水が発売されて、いい反応が得られていたら、奈々子はひとまわり成長できていたように思う。


 だが、プロジェクトは頓挫した。奈々子のアイデアは世に出ることはない。成長する機会を奪われた奈々子は、プロジェクト前の奈々子に戻ってしまった。


 しょせん、ルーティンワークをこなしていればいいのだと言われた気がする。それ以上の伸びはない。ちょうど、身長が155センチで止まってしまったように。


 プロジェクトのために一生懸命働いていたときの奈々子の世界は輝いていた。自分の背丈より少し高い位置にある世界。成功すればその世界を堂々と歩けるのだと思っていた。


 だが、奈々子がのぞきみていた世界は、5センチのヒールに乗った世界だった。


 のびるはずだったキャリアは、プロジェクトというヒールが折れたせいで、成長が止まってしまった。


 あと5センチ ― いつも5センチたりない。手に入れたいものは、奈々子の指先を逃れていってしまう……。

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