第26話 女吸血鬼エリザベート

 新宿区内の萬福飯店という中華料理店である。

 中の個室には、すでに森谷と三橋が着席していた。森谷は、三橋のスマートフォンを覗いて顔をとろけさせている。個室に入った三人組に気づいても緩んだ頬はもどらない。

「よう来た。好きなとこ座りィ」

「すみません、お店の予約まで」

「なに見てンのー?」

 と、一花が無遠慮に覗き込む。

 画面に映るのはキャップ帽をかぶった二歳くらいの男の子。こちら側にむかって無邪気にピースを向けている。一花がさけんだ。

「ガキだア!!」

「綾ちゃんの子どもやで、としくん。ちょオかわええよな」

「エッ────」

 子どもいたの?

 と言いたげに、一花が目を剥いて動きを止まる。

 しかし恭太郎はそれを聞きテンションが昂ぶったか、三橋のとなりにどっかりと腰かけてスマホをぶんどった。

「赤ちゃんだあ」

「もう赤ちゃんって歳じゃないわよ。二歳だもん」

「これホントに綾さんの子? 名前は? はあ、とうしろう。どんな字? ほう、冬に士郎。じゃあ旦那さんってどんな人? ……へえ! 別居中!」

「…………アンタぜんぶ聞こえてんならいちいち聞かないでくんない?」

 と、こめかみに青筋を立てる三橋にはかまわず、恭太郎はキャッキャと子どもの写真を将臣と一花に見せびらかす。自分のでもないのに。

 そういえば、と将臣が一花のふたつとなりに腰かける。

「沢井さんと三國さんは?」

「いま捜査本部寄ってはんねん。あとでお前らにも捜査内容共有したるさかいな」

「守秘義務とかないんですか」

「お前らもある種の捜査員やん。先輩って呼んでええで」

「嫌です」


 先に初めておいてくれ、と沢井から連絡がきた。

 とり急ぎで頼んだ八品の料理が並べられると、話題は自然に愛河邸へと移った。あれほどの豪邸はそうそうお目にかかれないこともあって、三橋の興奮もひとしおである。

「すごかったですよ。洋館。お屋敷。右も左も真っ赤っか、ヨーロッパのお城みたいでした」

「そこにひとりで住んではんの? ぜいたくなこってすなァ」

「でも土日を除けば、たいてい生徒さんとか岩渕さんとかが訪ねてくるそうですから。あんまり寂しいってことはないみたいですけどね」

「岩渕って──ああ。コンサートんとき、真っ先に真嶋史織のとこ走ってったお人か。ガタイ良くて寡黙な」

 という森谷に、一花がうふふとわらった。

「そオ。カッコいいよね、あたし理由つけて連絡先交換しちゃった」

「なん。イッカはああいうんがタイプか?」

「タイプってわけじゃないけど。でもオトモダチにいたらいいよね、いっぱい頼っちゃう」

「小悪魔ちゃんめ」

「アハァ」

 などとじゃれつくふたりは放っておいて、三橋がふと食べる手を止めた。

 岩渕さんといえば、と言った口角はにんまりとあがっている。

「愛河先生も絶賛でしたよ。旦那さんと別れてからは男性に対してあまりいい感情がなかったそうなんですけれど、岩渕さんはどこまでも誠実。真面目。おまけに弱っていたときも何かと支えてくれたとかで──」

「弱っていたとき?」将臣が上目をした。

「娘さんが亡くなってからのことでしょうね。月に一度の調律とは別に、心療内科までの送迎も買って出てくれたみたい」

「へえ、ご自分ではあまり口数が多くないからって距離を置いてたのに。根っからやさしい方なんですね」

 といってスープを飲む将臣。

 いやいや、と森谷が割り込んだ。

「下心あるに決まってるやん。愛河先生、キレイな人やったもん」

「キャアハハハハ」

 はじけるような笑い声があがった。恭太郎だった。

 さも愉快そうにわらいながらレンゲをぺろりと舐める。

「シゲさんといっしょにするなよ。イワさんはそんなこと考えちゃいない」

「なんでわかんねん」

「なんで? それ僕に聞いてんの?」

 くすくす……。

 嘲笑の混じった笑みがすべてを物語っている。彼に聞くにはあまりに愚問である。が、なんかくやしい森谷は憮然とした表情で空心菜を口に放り込む。レンゲの上で小籠包を冷ますのに必死な一花は置いといて、将臣を見た。

「男なんかみんないっしょやで。なあ」

「心外な。いっしょにしないでください」

「そんなんだからいまだに独り身なんですよ、森谷さん」

「あれ? 味方がおらんぞ」

「事実でしょ。きれいな女とあっちゃあ見さかいないんだから。吸血鬼じゃあるまいし──」

 と。

 なんの気なしに言った三橋のひと言で、場の空気が変わった。


「吸血鬼といえば」


 跳ねるように背もたれからからだを起こし、恭太郎が将臣を見る。

「今日のアイちゃんはなかなかおもしろいことを言っていたな」

「ああ、三大吸血鬼の話か」

「三大吸血鬼? なんやそれ」

「ラスト講義の文化人類学で、埋葬文化から吸血鬼の話になったんですよ。それで、世界三大吸血鬼として語られる人間について話題が出て」

 へえ、と森谷は口角をあげた。

「文化人類学ねえ──ちなみにまークンも知ってんねやろ。教えてや」

「ああ。いや、そうだな……」

 将臣はちらと料理を見て、苦笑した。

「食事中に話す内容ではないというか」

「大丈夫よ。アンタたちが平気なら、わたしたちはいつもぐっちゃぐちゃな遺体写真見ながらご飯食べてるんだから」

「尊敬しています。警察諸氏──」

「それで? そもそも三大吸血鬼ってだれのことなの」

 と、三橋は四川風麻婆豆腐を皿に盛りながら言った。ラー油と豆板醤によって真っ白だった皿が毒々しい赤色に染まる。

「ワラキアの領主ヴラド、セルビア人傭兵パウル、ハンガリー領の伯爵夫人エリザベートと言ってました。ワラキアのヴラドは有名ですよね。ドラキュラ公の異名もありますし」

「一般常識みたいに言うない。ワラキアもヴラドも初めて聞いたで」

「そうですか」

 将臣は本気でおどろいた顔をしてから、すこし考えるそぶりを見せた。

「それならパウルなんてもっとご存じない」

「知らん。何者や」

「生前『吸血鬼に襲われた』と話していたパウルが、事故で死んだ。その後ひと月ほどして、彼が人を殺してまわっているとうわさが立ったそうです。確認のために、死後四十日ほど経ったパウルの墓が暴かれた。すると墓のなかでパウルは血まみれ。伸びた爪に牙の生えた姿で横たわっていた」

「うわ」

「おののいた村人によって心臓を刺されると、叫び声をあげた。そこで吸血鬼と断定されたことで首を斬られ、身体を燃やされた──とか。これの興味深いところは『彼は本物の吸血鬼だった』と国の認定までうけたことですね」

「国が認定……」

 と、三橋が眉をしかめる。

 個室の扉奥で店員の声がした。がやがやと騒がしい客の声に混じって、聞きなれた声色が扉に近づく。無遠慮にがらりと開かれた個室扉の前にはでかい身体が立ちふさがっていた。

 あっ、と三橋の目がかがやいた。

「沢井さん!」

「よう。遅くなっ──おいおい、たかだか三十分足らずの遅れで、なんでもうこんな皿が空いてんだよ」

「まークンがいてんねやから、当然やろ」

「それもそうか」

 にやりと笑う沢井のうしろには、欠伸をする三國がいる。去り際のウエイターにウーロン茶をふたつ頼んでから、なんの話をしていたのかと三國が将臣を見た。一同を見回してから将臣をえらんだあたり、説明事には将臣だという方程式が成り立ったらしい。

「世界三大吸血鬼についてです」

「吸血鬼──こりゃあ沢井さん、いま世間じゃ吸血鬼ブームなんですかねィ」

「…………」

 沢井の顔がムッとふくれる。

 しかし、これまで飯を食うことに集中していた恭太郎がパッと顔をあげると、将臣に向かって「オイ」と声をかけた。

「焦らすなよ将臣」

「なんのことだ」

「さっきからお前らしくない言葉がぐるぐるしているぞ」

「…………」

 逡巡してから、おもむろに口を開く。


「エリザベート夫人の話をしましょう」


 と。


 ※

 十七世紀。

 ハンガリーにチェイテ城という城があった。

 城主は、軍人フェレンツ伯爵と弱冠十五歳で結婚したエリザベート・バートリー伯爵夫人。中世の有名家門はすべからく血族婚が多く、ゆえに遺伝子異常が多発していた。例に漏れずエリザベートの家系もその流れであり、近親者には精神異常者も多く、件のエリザベートもまた殊に感情の起伏がはげしかった。

 その性格は年を経るごとに歪み、彼女が伯爵夫人となったころから、とくに残虐性が顔を覗かせた。おもに召使に対して、折檻と称した残虐行為をおこなうようになったのである。

 例えば、苦悶の表情を見たいがために拷問器具で指を切断したり、娘の皮膚を切り裂いたり、性器や膣を取り出して興奮したり──。ある種の性的倒錯者だったのか。

 夫の存命中からそれはひどかったが、死別してからその行為はエスカレートする。


 彼女は、とかく若さに執着した。

 もっとも恐れるものは老いであった。


 エリザベートが女吸血鬼と揶揄されるようになった、きっかけの出来事がある。

 些細なことだった。

 夫人の髪に櫛を入れていた召使が、毛を梳いた際に引っかけて何本か抜いてしまった。夫人は何度も殴った。その時、召使が流した鼻血が夫人の手にかかった。──血が触れた部分を布で拭き取ると、そこだけ艶味が出、若返ったように見えた。

 ゆえにこう錯覚した。


『若い娘の血を浴びれば若返る』


 と。

 天啓にも似た答えを導き出したのち、エリザベートの行為は加速する。血液に対して異常な執着を見せるようになり、対象者も召使だけでなく、奉公娘や下級貴族の娘などへと風呂敷を広げて。

 ──およそ十年もの期間、彼女は『若返りの儀式』を続けることとなるのである。

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