第3話 リンスがなかったんだもん

「あー、リンス切れたかー…。」


 髪を洗っていた杉浦明は、リンスのボトルを振りながら呟いた。手の中で、カラカラと空しい音がする。


「参ったなあ…。」


時間は深夜四時半。妻の裕美はとっくに寝ている。泡だらけの頭でたたき起こしに行くのは非常にリスクが高い。その上、寝入りばなを起こされた裕美の恐ろしさは、明の脳髄にまで染み渡っている。きっと、氷のような冷たさを宿した目で見つめられながら、槍の如く鋭い言葉がこんな感じで降ってくるに違いない。


「明、前に言わなかったっけ?私、奥さんに、俺の靴下ないんだけどって探させるような男が一番嫌いなんだよね。まさか、あんたがそこまで自己管理が出来ない男だとは思わなかったわ。」


そうまくし立てると、いかにも不機嫌そうな裕美は、予備の詰め替え用リンスを棚から出して明に渡し、ピシャリと音を立てて寝室のドアを閉めることだろう。後には、いつも呆気に取られて間抜けな顔をした明が、冷たい廊下にただ一人ポツンと取り残されるのだ…。やはり、裕美をたたき起こす事だけは避けたい。想像するだけでどこか悲しい気持ちになるのだから…。


「あ、そうだ、棚だ…。」


ぼんやり考え事をしていた明は、ここで裕美が想像の中で開けた棚の存在を思い出す。そう言えばすっかり忘れていたが、妻と収納についてこんなやり取りをした事もあった。


「あのね、別に明に完璧に整理整頓をしろなんて言わないよ?誰だって、出来ることと出来ないことはあるから。でもさ、ベットの上に物を置くのだけは許せないからやめて?」


明は、ベットの上を見渡した。確かに、調べ物をした時に使った本や漫画が数冊置いてある。だが、特に問題がある様には思えない。実家に住んでいた頃の部屋と比べれば、はるかに綺麗な位だ。


「ちょっとしか置いてないから別に良くない?」


「良くない。私にとって、ベットはいつでも快適に寝れるようにするべき場所だから。」


そう答えた裕美は、明の前に大きなプラスチックの収納ボックスをドンと置いた。


「…なあにこれ?」


「これあげるから、使った物はベットの上じゃなくてここに入れて。」


「スゲー、これコロコロ付いてるー。」


子供のように無邪気に喜ぶ亭主に、裕美はどこか諦めたような表情だ。


「君は今までこういうお片付けボックスを使った事はないの?」


「うーん、子どもの頃はママに持たされてたけど、なんか物置が収拾つかなくなって諦めた。」


「ああ…冴子さんもあんな感じだもんね…。」


冴子さんというのは、明の母親である。彼女は、まさに漫画「クレヨンしんちゃん」の母親、野原みさえを三次元に体現したようなだらしなさを兼ね備えた、スーパー汚女だ。母冴子は、他人に見られる危険性がなければ、必要に駆られない限り掃除も整理整頓もしない。ついには、満を持してひきこもり系ユーチューバーとなり、開かずの間となった冴子の館、つまり明の実家は、冴子の物置と化していた。お屋敷ならぬ汚屋敷である。訪れる人など、人っ子一人いない。館の中には、猿やオウムや犬と猫、そして山姥のような姿をした冴子がつくねんと徘徊している。もはや、ある種の魔界と呼んでも過言ではないのだ。その魔界の中では、明の子供部屋は、多少猫のタマの猫砂と毛が落ちていて本が机の上とベットの上に置いてあるだけの、一番ましな汚さの部屋だった。冴子の生息域である、リビングルームや彼女の汚部屋に乱雑している、飲みかけのペットボトル、いつ履いたのだか分からない着古したよれたベージュパンツ、流しに貯まった得体の知れない汚物に比べれば、可愛い物だ。実家の惨状と汚女な母をふと思い浮かべた明は、ハッと我に返って、目の前の裕美をまじまじと見た。


「なに…?」

小首を傾げた清潔感のある天女のような妻と、床が見えている綺麗な部屋。何と今の自分は幸せ者な事か…感極まった明は、裕美の手をおもむろに取り、跪きながらこう言ったのだ。


「僕、もっと部屋を綺麗にする…裕美となるべく綺麗な部屋で生活したいから!」


「うん…私もその方が嬉しいかな…ピカピカにしろとは言わないから、片付けはちゃんとしてね…。」


こうして、裕美が各地に設置した収納ボックスの活躍により、家の汚部屋化は防がれたのだった。まめな裕美は、収納棚に生活用品をきちんと補充して入れている。…そう、やはり、リンスはあの棚にあるはずなのだ。過去との長い邂逅を経て、強い確信を得た明は、勢い良く棚を開ける。


「…あれ…?」


しかし、明の期待も虚しく、そこにあるはずのリンスは忽然と棚から姿を消していた。一体どこにあるのか…頭を抱えて途方に暮れる明の目に、ある物が飛び込んできた。


「これ…リンスだよな…?」


派手なピンク色の、いかにもお高そうな女性用高級リンスのボトルが、これ見よがしに鎮座している。確か、このリンスは最近裕美が奮発して買った物だった。キューティクル?が傷んでいる時に使用しているらしい。


「これ使ったら…怒られるかなあ…まあ、一回位なら平気か…。」


悩み過ぎて体が寒くなってきた明は、安易にそのリンスをとりあえず使う事にした。薔薇の強い香りが鼻につくが、どうせ寝て起きれば匂いなど変わるだろう。明日、新しいリンスを買いに行けば良いや。そう決めて深い眠りに落ちていったのだった。


「ちょっと!明、起きて!たいへん!」


次の日、裕美に体をゆすられて起きた明は、寝ぼけまなこであくびをした。


「なに…?って、なにこれ、くっっさ!!」


部屋の中が、果てしなくうんち臭い。鼻をつままなければ、まともに息ができない程だ。


「犯人は、こいつです…。」


顔をしかめた裕美の腕の中には、至る所にうんちを引っ付けて威張っているチワワのチャロがいた。


「キャン!キャン!」


抗議をするかのように吠えている辺り、どうやら散歩とご飯の催促のためにわざと自分のうんちを踏んだようだった。チャロは少しわがままな所があり、自分の要求が通らない時、いつもはしでかさない悪さを平然とやってのける癖がある。それも、裕美や明が嫌がることは何かを熟知しているのだから、始末に負えない。裕美と明は、顔を見合わせて深いため息をついた。


「明…私は床にこびりついたうんちを片付けるから、臭いの根源をどうにかして…。」


げっそりとした様子で言う妻と、その腕の中で尻尾を振りながらうんちまみれで吠えて威張るチャロの様子はまさに対照的である。特に、チャロの表情からは、反省の色など欠片も見られず、『ぼくをかまってくれないお姉ちゃんの鼻をついに明かしてやったぜ!』という謎の強い勝利感が見て取れた。


「う、うん…あーーーー!」


うんち付きチャロを受け取ろうとした矢先、明は目の前の光景に思わず叫び声を上げる。


「にゃあん。」


明の眼前で、チャロの肉球付きのうんち沼に佇むタマが、まるで『お兄ちゃん、どうしたの?』とでも言うように短く鳴いた。


「二匹ともお願い…。」


タマの様子を振り返り、絶望したような表情で裕美は言った。



「キャン!キャン!」


「チャロは今日も元気だね…。」


風呂場で走り回るチャロと、お風呂が嫌いで逃げ出そうとするタマを捕まえてシャンプーをし終わった明は、動物用のリンスを探す。


「あれ…?」


どうやら、前回使い切ってしまったようで見当たらない。ならば、仕方ない。とりあえず、今日のところは不測の事態ということで、人間用のリンスを…。


「あ…。」


明は思い出した。そう、リンスは切れてしまっているのだ…。バスルームのドアを開けて、リビングの裕美をチラッと確認する。鬼の形相で床のうんちと格闘している妻に、『リンス買って来て欲しいな♡』とは、流石の明も言いにくい。かと言って、濡れ鼠のチャロとタマを放置して買い物に行ったら風邪をひいてしまうだろう。残された選択肢は一つしかない…。収納棚の中の、裕美御用達の高級リンスと目が合う。


「怒られるかなあ…。あ、でも犬用のシャンプーも薔薇の香りって書いてあるから、分かんないか。裕美も、チャロもタマも、良い匂いの方が嬉しいよね。」


そう一人納得した明は、吞気にその高級リンスで獣たちを洗ってしまったのだった。


「綺麗になったー?」


ピカピカにふんわりとした毛ざわりの動物たちを連れて戻ると、綺麗になったリビングで裕美は優雅にコーヒーを飲んでいる。


「ふわふわだよー。」


得意そうにチャロとタマを見せびらかす明を見た瞬間、裕美はいぶかしそうな表情をした。


「ちょっと待って…何か、いやにフワフワし過ぎじゃない…??」


「え…。」


瞬間的に、部屋の空気が凍りつく。光沢のある毛並みでツヤツヤしているチャロを抱き上げ、匂いを確認した裕美の表情が曇った。静かに立ち上がると、足早に浴室から戻った妻の手には、大分中身が減った高級リンスが、まるで水戸黄門の印籠かのように掲げられていた。


「…私の高級リンスをチャロとタマに使ったでしょ…?」


決定的な一言が繰り出された刹那、明は深くうなだれた。こいつはもうダメだ…言い訳はもう通用しない…。観念した明は、ショボショボと妻の尋問に答えた。


「あの…昨日リンスがなかったので、とりあえず僕も一回使っちゃったんです…。」


「…知ってる、匂いで朝気付いた。それは良いの。」


(あれ?何か思ってたより優しい…?)


不思議に思って顔を上げると、腕組みをしている裕美と視線がぶつかる。


「あのね、私が怒ってるのは、リンスの場所を聞いてくれなかった事と、明はともかく、チャロとタマに私の1500円の高級リンスを使った事なの。」


「え、でも昨日は寝てたから…。」


「昨日の事は良いの、今日の事で怒ってるの。」


「ごめんなさい…。」


お腹が減ったな…謝りながら、明は思う。まだ朝ご飯を食べていないが、この分では当分食べられそうにない。そんなボケーっとした明を見て、深いため息をついた裕美は、リビングの片隅のAmazonの箱を指差した。


「あれ、中身確認した?」


「いいえ、まったくこれっぽちも。あれはなあに?」


「詰め替え用のリンス。」


「え。」


慌てて段ボール箱の封を切ると、昨日から切望していたリンスの山が顔をのぞかせる。


「5が付く日でセールしてたから、まとめ買いしておいたの。10本で900円。」


「さすがー!裕美ちゃん、やりくり上手―!言わなくてもリンス切れてたの気付いてくれるなんてすごーい!ありがとう!」


明が思わず褒めちぎると、裕美は少し気が済んだようで物腰が柔らかくなる。


「これからは、開けてない段ボールもちゃんと中身確認してください。」


「はい…すみませんでした。」


「あと…。」


チャロをヒョイと抱き上げた裕美は、明にこう質問した。


「今のこの匂いで彼が幸せそうに見える?」


「ええ…?女の子みたいな薔薇の匂いした方が嬉しくない?僕は裕美の匂いと一緒だから普通に興奮したけど。」


「…君の感想じゃなくて、彼の感想を聞いてるの。」


「くちゅん。」


二人に見つめられたチャロは、まるで薔薇の香りにむせたようにくしゃみをした。あのリンスは、チャロの敏感な鼻には少し香りがキツイようだ。タマの方も確認すると、自分の猫ベットの上でくねくねと体をこすりつけている。匂いを取ろうとしているようにも思える。


「ちょっとお気に召さないみたい…?」


「動物は鼻が敏感だから、こういう匂いが強いリンスは使っちゃダメだよ。しかも、これ1500円もするんだから…。」


呆れた様子で裕美は言った。


「ごめん…えーと…、僕のお小遣いから新しいそのお高いやつを今Amazonします…。」


スマホからAmazonのサイトに飛ぼうとしたちょうどその時。


「ぐぎゅるるるるるる…。」


「あ…。」


明の空腹がついに限界を迎えたようで、わびしい音が部屋中に響き渡る。その場のシリアスな空気が台無しだ。


(怒られてる最中、ずっとご飯の事考えてたのバレたかな…。)


さぞかし呆れられただろうと恐る恐る顔を上げると、明の予想とは裏腹に、裕美はどこか笑いをこらえるような表情を浮かべていた。


「さっきからずっとご飯の事考えながら話聞いてたでしょ…?」


「うん…。悪気はないんだよ…。」


「知ってる。私もお腹空いてたけど、釘を刺してからにしようと思ってたから我慢してた。」


「じゃあ、お詫びを兼ねて僕がいつもの何の変哲もないただのバーモントカレーを作るよ。」


「いいね、私もカレー食べたい。」


まるで先程までとは打って変わったように、子どものような表情を浮かべて裕美は笑った。二人の足元に集まってきたチャロとタマから、あの薔薇の香りがフッと漂う。その匂いは、いつ嗅いだ時のそれよりも、明には『しあわせのにおい』に感じられた。

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