ぼく+きみ=人になる
@tiana0405
第1話 ぼくはコーヒーが飲めない
「やばい、終わらない…。」
明は、思わず机の上の時計を見つめて、ため息をつく。只今の時間は、朝の5時半。日が昇り始め、雀のちゅんちゅんと鳴く声が家の外から聞こえている。自分でも、分かる。きっと、これは間に合わない。
「映画の時間調べるか…。」
予約していた映画の時間は9時半。パソコンの画面の原稿は、まだほぼ白紙だ。4時間で小説を書き上げるのは、駆け出し作家の明には難しい。しかし、今日はそう甘い事も言ってられない。職業柄、引きこもり気味の明にとって、月に数回の外出の機会だからだ。もちろん、インドア派な明が好んで何が何でも外出したい訳ではない。問題は、この外出の約束相手のご機嫌だ。もし、彼女のご機嫌を少しでも損ねたならば…。
「ああなるよな…。」
明はあきらめきった目で、部屋の片隅でホコリを薄っすらとかぶっているゲーム機をチラッと見る。このゲーム機は、仕事の合間に愛用していたものだ。作家には、勤務時間の縛りがない。納期までに作品を収めればいいとついつい高を括った明は、日々余裕をぶっこいてもはやゲームの合間に仕事をするという自堕落な生活を送っていた。そして、当然のことながら、痛い目にあうことになる。
「ねえ、編集者の高梨さんから電話来たんだけど。」
その日、いつも通りゲームに興じている明の部屋に入ってきた妻の裕美が、怪訝そうな顔で言った。
「電話?何で?」
一向に見当がつかない。そんな表情で首をひねる明に、裕美は呆れた様子で冷ややかに言った。
「原稿が届いていないってクレームでした。」
一瞬、時が止まったような気がした。明は慌てて、数日見ていなかったスマートフォンの電源を入れる。
「え…。」
気付かぬうちに明の予想をはるかに越えて、時は進んでいた。納期を二日過ぎていたのである。その上、確認していない間に、編集者からの数回の着信や、悲嘆にくれたメッセージがメールボックスに沢山残っていた。
担当の高梨は、いつも貧乏ゆすりをしながら人の好さそうな笑みを浮かべている気の小さそうな男だ。きっと作品が送られてこないということで、上からしこたま怒られたに違いない。いつも以上に小さく縮こまって、ペコペコと頭髪の薄くなった頭を下げる哀愁漂う高梨の後ろ姿が目に浮かぶ。
これは、マズイことになった。事情を把握して慌てて高梨に電話をしようとする明を、裕美は手で制した。
「高梨さんには、私の方から重々謝っておきました。そんなことより、お話があります。」
リビングに連れていかれた明は、目の前の裕美の様子を見て察した。
(これは…間違いなく怒っていらっしゃる…!)
いつになく、小柄で華奢な体型の裕美が大きく見える。
「あのね、私前も言ったよね。」
「はい…。」
明はうつむく。前も言ったというフレーズが妻から出た時点で、このお説教は長くなる予感しかしない。
「別にね、あんたがゲームしながら仕事してようが、昼夜逆転してようが、ちゃんともらうもんもらってきてくれれば、私はどっちだって良いの。でも、スマホの電源を切ってるのは何なの?社会人としておかしくない?」
「しゃかいじん…。」
一応、Wワークの副業で会社に就職してみたはものの、一般的な勤め人として日が浅いペーペーな明には、それは異邦の地の言葉だ。その腑抜けた亭主の返答に、裕美はイライラした様子で深くため息をつく。
「分かった、例えを変えるわ。明がコンビニでバイトしてた時に、寝過ごしたらどうなった?」
「オーナーから電話が来てその電話で目が覚めました…。」
「電話に気づけたから間に合ったんだよね?私の言いたいこと分かる?ミスは誰にでもあるから、それは良いの。ただ、連絡が取れれば最悪の事態は免れるし、相手にも迷惑かかんないでしょ?」
「はい…おっしゃる通りです…これからはスマホの電源を入れておきます…。」
明は芋虫のように縮こまって項垂れる。だが、そんなことで妻の猛攻は止まない。
「…そもそもさ、あんた私にプロポーズした時、芥川賞でも直木賞でも日本マンガ大賞でも何でも取るから結婚してくれ!なんて大きな事を言ってなかった?」
(そんなこと言ったっけなあ…。)
と、明はぼんやりと考える。記憶の糸をたどってみたが、まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようにつかみどころがない。
「えーと…指輪を渡して跪いてプロポーズした時のやつ?」
「違う。一回目にプロポーズした時のやつ。めっちゃ号泣しながら告白して、私にふられていじけて終電逃したやつ。」
「あー!そんなことあったね!次の日糞ほどコンビニのオーナーに裕美の悪口を言ったやつね!」
懐かしさのあまり思わず声が上ずってしまった明は、妻の冷たい視線に気付いて口を噤む。
「そういう話がしたいんじゃないの。」
「はい…。」
「あの時の君の、私と夢の仕事への情熱はどこに行ってしまったの?作家になるって夢を叶えて、結婚したら、もうそれで全部終わりな訳?」
明は顔を上げてまじまじと裕美の顔を眺めた。裕美はずっと、明の吹いたら消えてしまいそうな夢の灯火を応援してきた。
夢見るプータローをしていた明と、高校生から株式投資を始めて社長をしていた裕美とでは、生き方も価値観も何もかもまるで違っている。
だが、裕美が確証のない明の夢を否定することは一度としてなかった。それでもって、真逆の2人が結婚してしまったというのだから、事実は小説より奇なりとはこのこと…と、明は常々思う。
「私はね、夢に向かって頑張る明が好きなの。別に腱鞘炎になるほど小説を書けとは言わないけど、もっと自分が叶えた夢を大事にしてよ。」
長い間応援し続けてくれた妻のその台詞は、殊の外、明の胸に刺さった。
「そっかあ…夢を叶えたんだもんね…夢は、叶えてからがスタート地点だよね…。」
「そうだよ。まだまだやれることが沢山あるんだよ?」
「僕…もっと仕事を頑張る!小説も裕美のことも愛しているから!」
感極まった明は、裕美の手を握り締めながら堅く誓う。その瞬間、裕美はしてやったりと微笑んだ。
「じゃあ、私に迷惑をかけたバツとして、ゲームはしばらく、私が許可した時間だけにしてね。」
「え……。」
「何?没収されないだけマシでしょ?それに明が納期に間に合わなかったせいで、今日のデートに行けなくなったんだから、むしろこれくらいで感謝してよね。」
この後、明は鶏小屋に追い立てられるニワトリの如く、書斎に閉じ込められた。
気付けば、ゲーム機のログインパスワードはいつの間にか変えられており、よほど難解なパスワードに設定されたのか解けそうにもなかった。2人に関する日付も、全ての知人の誕生日も、猫の誕生日ですらも試したが、皆目見当がつかない。シャーロックホームズでも雇いたい気分だ。
さらには、一週間ごとにパスワードを変えているような素振りさえ見せてくるのだから、裕美の怒りの度合いが伺える。余程、あのホテルのバイキングがおじゃんになったことを怒っているのだろう。こうして、少しずつ愛用のゲーム機の上にはホコリがつもり、明は二度と妻を怒らせてはならない…と身に染みて痛感したのだった…。
「次のデートがおじゃんになったら、僕の大事なプレステが売りに出されるんじゃ…。」
一向に進まない原稿に苦しみながらも、明の悪い予感は止まらない。それだけは阻止しなければならない。焦りと不安で煽られているせいか、全くもって小説のアイディアも浮かんでこないのだ。明が焦っている間に、どんどん時計の針は回っていく。どうしたものか…。悩んでいる明の足元に、ふわりと柔らかい何かが触れた。
「にゃあん。」
猫のタマが起きてきたらしい。くねくねと身をよじりながらご飯を催促している。これはマズい。タマは、寝室で寝ていたはずだ。猫は自分でドアを開けることが出来ない。
それはつまり…。明は生唾をゴクリと飲み込む。リビングの方に耳をすませば、ゴソゴソと人の気配がした。時計をもう1度見る。無理だ、後1時間で書ける訳がない。あきらめの境地に達した明は、トボトボと重い足取りでリビングへ向かう。メイクばっちりで着替えていたら、どれだけお冠になることだろう…。久々のお出かけでいつになく妻がニコニコしているかもしれないと想像すると、果てしなく気が重い。
「おはよう。」
明の予想に反して、妻はパジャマ姿のまま、静かにコーヒーを飲んでいた。明の鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見ると、裕美は少しいたずらっぽく微笑む。
「原稿が、終わらないんでしょ?」
「うん…ごめん、今日の映画をキャンセルして終わらせないと納期に間に合わない…。」
「いいよ、映画はまた今度ね。」
至極当然のように、あっさりと裕美は言った。
「え…。怒らないの?」
「映画を見れないのは残念だし、チケットが無駄になるのは忍びないけど、今週ずっと仕事を頑張っていたのは知ってるし、昨日の感じを見てて納期に間に合わないだろうなと、予想してた。」
事もなげに言う妻に、明は呆気に取られた。何なのだろう…この生物は、エスパーなのだろうか…。
「何で仕事を頑張ってたって分かるの?ゲームして遊んでいたかもしれないとは思わないの?」
矢継ぎ早に質問する明の目をジッと眺めて、裕美は笑った。
「全部顔に書いてあるから、顔を見れば仕事をサボってたかどうか分かるもん。」
開いた口が塞がらない明は、妻が超能力保持者であることを確信した。
「それにさ、あのゲーム機のパスワードは、多分、明には解けないよ。」
「何で?」
「今のパスワード、シャーロックホームズの誕生日だから。予想出来なかったでしょ?」
シャーロックホームズの誕生日…その線は思いつかなかった…。そう思った明は、妻相手にホームズを雇いたいと考えたことを思い出す。
やはり、常に裕美は明の一歩先を考えている。その一歩の差が、今の明にはたまらなく心地良く感じられた。ふと、妻の飲んでいるコーヒーが目に入る。冷たい冬の外気に触れて、ゆっくりと湯気を立てている様子は、いつもより温かそうに見えた。
「僕もコーヒーが飲みたい。」
明がそう言うと、裕美は驚いたような顔をした。
「え、コーヒー飲めないじゃん。もったいないから、飲めなかったら私にちょうだいね。」
渋々と言った感じでコーヒーを差し出される。明は、苦いものが嫌いだ。コーヒー牛乳ですら飲めないし、抹茶も飲めない。いつも通りコーヒーを無駄にする確率は高い。だが、今の明にはなぜか謎の自信があった。勢いをつけて、コーヒーを口の中に流し込む。
「どう?飲めない?」
心配そうに裕美は明の顔を覗き込んだ。
「甘い…。」
初めてそう感じた。
「あー、やっぱりこのコーヒー豆で、ミルクとシロップを入れたら、明でも飲めるんだー。この間あんまり苦くない豆を発見したから、買ってみたんだよねー。」
事もなげに裕美は言う。明はその間延びした声を聞きながら、今まで裕美と過ごした時間を思い起こした。
世の中には、出来なさそうなことが多すぎる。しかし裕美といると、それがどんなことであっても、なんとなく挑戦したくなるのだ。裕美との阿吽の呼吸がその勇気をくれるのかもしれない。
スマホで次の映画の上映時間を確認する。15時半…。今から7時間後、いけるかもしれない。希望を持った明は、目を輝かせながら妻に宣言した。
「ねえ、ちょっと15時半の部に間に合うように頑張ってみるから、やっぱり映画を見に行こうよ。」
「7時間かー。いけるかもね、まあ期待しないで待っておく。」
コーヒーを飲みながら、裕美はどこか嬉しそうに明に微笑んだ。コーヒーの湯気が、2人の前をゆったりとたちのぼっていく。
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