革命は危機にあり

"マリア・ジャンヌ・ヴィユヌーヴ"

「院長先生、何かできることはありますか?」

「そうだな……マリア、市場でパンを買ってきてくれぬか」

「分かりました、院長先生。すぐ行ってきます」


 マリア・ジャンヌ・は、裁縫をしている手を止め立ち上がった。


 彼女がフローリアという姓を、そして家族を失って早くも4年が経った。マリアは首都ルコテキアにある教会が運営する孤児院に預けられ、一人の孤児として育てられた。


 孤児院の生活はかつての侯爵家の生活のような優雅さの欠片ほどもなく、また他の孤児たちとの集団生活は貴族令嬢であった彼女には厳しいものがあった。しかし、それでも地下牢でのいつ死ぬか分からないような境遇に比べれば、遥かにマシな生活であったことは間違いなかった。


 教会の牧師である孤児院長はマリアの出自を理解した上でそれを秘密にし、慈愛を持って彼女に接した。


 しかし、残念ながらそのような慈愛に満ちた人間だけが存在するわけではない。それがまだ未熟な少年少女となれば尚更である。


 マリアが孤児院長からのお遣いに向かおうとすると、彼女の後ろの方から揶揄するような声が聞こえてきた。


「“お嬢様”はまた点数稼ぎか?」

「全く、いい子ぶっちゃってよ。これだから貴族上がりのは嫌いなんだ」


 マリアが元貴族令嬢だということはもはや公然の秘密と化していた。彼女を苦しめた『銀の血統』は、銀髪というあまりにも特徴的な外見のため一目で分かる。王政時代、少なくとも銀衛隊が反乱を起こす前は『銀の血統』は貴族の証であった。


 故に、平民出身の孤児たちは元貴族という格好の"差別してもよい"ステータスを持つマリアを標的に定めた。孤児院の職員らがいる手前直接的な暴力を振るうことはなかったが、陰湿な嫌がらせや嘲笑を頻繁に行っていた。


 とはいえ、流血を伴うレベルの拷問を2年間耐えてきたマリアにとっては、あまり気にならないものではあった。そして幸いなことに――


「またそれね。飽きないの?あなたたち」


 少し甲高い、少女の呆れたような声音がマリアの耳に入った。マリアを揶揄した少年二人はばつが悪そうな顔を浮かべる。マリアを庇うように二人の間に割って入ったのは、同じ孤児院で暮らす同年代の少女だった。


「ほら、早く行ってきなさい」

「……ありがとうございます」


 少女、マリアの友人であるアメリー・ビュッシュに促され、マリアは礼を言うと足早に外に向かった。


(……情けない)


 外へと歩きながら、マリアはため息を吐く。心無い言葉を浴びせられるたびに、何も知らないのに勝手に物を言う相手への苛立ちと、そして後ろめたさから何も言い返せない自分自身に対しての無力感が混ざった感情が湧いてくる。


 そんな思考を意図的に振り払い、マリアは孤児院の出口近くに設けられた厩舎へと足を運ぶ。貴族の令嬢であった名残として、彼女には少なからず騎馬の経験があり、市場への買い出しなどの機会を見つけては馬に乗るようになっていた。


「こんにちは、ファシュさん。今日もよろしくお願いします」

「マリアちゃんか。今日も買い出しかい?ご苦労さまだねぇ」


 厩舎で馬を洗っていた壮年の男性がマリアに気づき、朗らかな笑みを浮かべた。厩舎の管理人のファシュは、マリアに対して好意的に接してくれている大人の一人であった。


「えぇ、院長に頼まれまして」

「そうか、気をつけて行ってくるんだよ」

「はい。行ってきます」


 ファシュの言葉に笑顔で答え、マリアは馬に乗り、手綱を引いた。


――――――――――


 共和国首都であり――あるいはかつて王都と呼ばれたルコテキアは、その中心部に政府機関や議会と共に教会施設が位置し、そこから同心円状にかつての貴族たちの邸宅、市場、一般市民の住まう居住地域が広がる構造になっている。


 マリアたちがされている孤児院は教会に併設されたものであるので、孤児院から市場までの距離はそれなりにある。そのため、少なからず騎乗能力があるマリアはそういった意味では孤児院において重宝されていたというべきだろう。


 (今日買うものは……)


 道を進む中で、マリアはパンの他に何か足りてなかった品がないか、頭に思い浮かべる。その時だった。


「おい、そこの嬢ちゃん」


 突如として、野太い男の声が響く。ふと前を向くと、そこには如何にもといった風体の男が数人立っていた。どんなに好意的な受け取り方をしたとしても――彼らがマリアに対して友好的な態度を取るとは到底思えなかった。彼らの視線には嗜虐性が宿っているように見える。


 瞬時に周りを見回し、そこでマリアは自分が普段進む道とは違う道を辿ってしまっていたことに気づいた。


「……何でしょうか」


 本能的な恐怖に内心で怯えつつも、マリアは平静を保ちながら彼らに返答した。


「何でしょうか、じゃねぇなぁ。お嬢ちゃん、よそ見をして人にぶつかりそうになってるのに謝りもしねえなんてどういう了見だ?」

「……すみません」

「誠意が感じられねえなあ。第一、人に謝るのに馬に乗りながらってのはなんだ、お貴族様気取りのつもりか?お嬢ちゃんは知らねぇかもしれねぇがこの国では2年前に貴族は全員ぶっ殺されて――」


 本物の貴族令嬢だったマリアを前にして、男たちは好き勝手なことを並べ立てる。


「……ともかくだ。こっちは誠意を見せてもらいたいの。分かる?」

「……」


 マリアは黙って俯く。彼女にとって、今の状況は最悪と言って差し支えなかった。運の悪いことに――あるいはそういった場所を狙って待ち伏せていた可能性もあるが、周りには人通りが少なく、僅かに通りかかる人も触れぬが吉とばかりに彼女の置かれた状況には目もくれずに足早に立ち去っていく。


(どうすれば……)


 マリアは必死に頭を回転させるが、打開策はまるで浮かんで来なかった。トラブルに巻き込まれたことがない、とは言わないまでもこういった荒事に関しては経験が全くなかった。悲しいかな、彼女は人に嬲られる経験だけは恐らく誰よりも豊富だが、残念なことにただの一度たりともやり返すということをしてこなかったのである。


「黙ってちゃ分からんな、お嬢ちゃん!」

「ッ!?」


 男の1人が苛立ちを隠さない声で怒鳴り、マリアの肩を掴み馬から引き摺り下ろそうとする。馬が嘶き、反射的にマリアは身を強張らせ、目を瞑った。その時だった。


「そこまで」


 凛とした声音がその場に響く。その声に、場にいる全員が思わず動きを止め、そして一斉に声の方向に向き直った。


 そこに立っていたのは、青色の軍服に身を包んだ長身の女性だった。腰まで伸びた青髪、そして蒼玉を思わせる双眼からは強い意志を感じさせ、精緻な彫刻のような容貌と相まって、その姿は見るもの全てを惹きつける魅力を持っていた。


「……ゲッ、"親衛隊"かよ」

「やべぇ、どうするよ」


 女性が現れた途端、男たちは明らかに狼狽した様子を見せる。服装を見る限り、女性は多分軍人なのだろうが、2年前――彼女が生まれ変わったその日に見た軍服とはまずその色合いからして違っていた。


 マリアは困惑しつつも、女性に視線を向ける。すると、目が合った。女性の瞳は澄み切った青空のように綺麗で、それでいて何処となく憂いを帯びているようにマリアは感じた。女性もそれに気づいたようで、少しだけ微笑んでみせると口を開いた。


「これ以上彼女に対して狼藉を働くようなら、私は善良な共和国市民を守るために実力を行使しなければならない。今すぐ立ち去るなら、今回は見逃してやろう」


 女性が発した言葉に、男たちは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。しかし、その中で最も体格のいい男は違った。男は大きく舌打ちをすると同時に、懐に手を伸ばす。


「ちっ、ごちゃごちゃうるせぇんだよーーッ!」


 ――それはまさに一瞬の出来事だった。男が懐から刃物を取り出し、女性に対して振りかぶったその刹那。女性は男より素早く腕をつかむと、そのまま捻り上げる。男は苦悶の表情を浮かべ、手からナイフをこぼす。


 続いて、男の腕からおよそ人体から聞こえてはいけない音――恐らく関節を外されたのであろう――が響き、男は叫び声を上げようとするが、いつの間にか女性が取り出していた猿轡が口に押し込まれていてそれも叶わない。


 男が痛みに悶絶して崩れ落ちたことを確認すると、女性は残りの者たちへと鋭い視線を向けた。


「さて、こいつと同じ目に遭いたくないなら今すぐここから失せることだな」


 鋭い視線を向けられた男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。マリアは唖然としていたが、慌てて下馬して女性に対し礼を言おうとする。


「あっ」


 しかし慌てていたせいか、うまく降りられず転びそうになってしまう。


「大丈夫かい?」

「あ、ありがとうございます」

「全く、この辺りはこんな奴らが割とウロウロしてるのに、1人で来たら危ないよ」


 転びかけたマリアを支えながら、女性は地面に放置されたままの男を足で突く。男は何かを訴えるように呻くが、口に嵌められた猿轡によって遮られてしまう。


「助けてくださってありがとうございます。あの、その……お名前を伺ってもいいですか?」

「ん?いや、名乗るほどのものではないよ。……この調子だとまた何かしらに絡まれそうだから、この地区の外れまで送ってあげよう」

「あっいえ、そんな……」


 マリアが女性の申し出を断ろうとした瞬間、彼女の視界に女性と同じ服装をした人間が複数現れた。彼らはこちらに気づくと、猛スピードで駆け寄ってきた。


 そのグループを見た瞬間、女性は顔面蒼白になる。


「大尉殿、探しましたよ!またこんなところで油を売って!」

「げっ、ヤバいヤバい」

「今度という今度は我々も庇えませんからね。大隊長殿から大目玉食らっても──」


 やってきた女性の部下と思わしき男性はその場で説教を始めようとするが、状況が理解できずポカンとしているマリアと、相変わらず呻いている男性を見つけ、眉を顰める。


「あの、大尉殿。これは一体どういう……」

「そこに転がってるやつがこのお嬢ちゃんに手ェ出そうとしたもんでね、軽く捻ってやったわけさ」


 女性は男とマリアを交互に指差して言う。そして、『そうだ』と言わんばかりに手を叩き、続けた。


「つまりだねアンドレ少尉。私は職務をサボっていたわけではなく、善良なる共和国市民を守るために奮闘していたというわけだよ」

「どう見ても偶然の産物にしか思えませんが……まぁいいでしょう。それで、この男はどうするんですか?」

「取り敢えず現行犯だからそのまま12区の親衛隊支部まで連行してから、市警に引き渡して。刑事犯はうちの管轄じゃないからね」

「承知しました。おい、連れて行け」


 アンドレ少尉と呼ばれた男性の指示で、男は連れていかれる。担がれて運ばれる男はどう見ても腕がおかしな方向に曲がっていたが、誰もそれに触れることはなかった。


 男が連れて行かれてから、アンドレ少尉はマリアの方を向き、女性に尋ねる。


「それで、この子は……」

「私が外まで送り届けておくよ。少尉は私のために言い訳をちゃんと考えておいてくれたまえ」

「……分かりました。大尉殿は市民を救助するために一時的に持ち場を離脱していたと報告しておきます」

「うん、よろしく頼むよ」


 女性は手を振り、アンドレ少尉を見送るとまたマリアに向き直った。


「さ、行こっか。馬に乗らなくてもいいの?」

「あ……はい。よろしくお願いします」


 マリアは勢いに押されて再び乗馬した。結局、治安が悪い地区を抜け、女性と別れるまでマリアは彼女の名前を聞くことができなかったのだった。

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