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そしてあっという間にライブ当日だ。今までの地道なライブ活動や宣伝活動のお陰か、初めてのホール公演は二階席まで満席となった。

一席を除いて。


本番が近づく中、蛍斗けいとは手荷物の中から一枚のチケットを取り出した。代金は払ってあるが、このチケットの席に座る人はない。

澄香すみかに渡すと、いつだったか約束した。渡せるような関係でなくなっても、どうしても手放せなかった。


「それ、恋人に渡さなかったの?」


チケットが目についたのだろう、孝幸たかゆきが蛍斗の肩越しに手元を覗き込んで言う。蛍斗はチケットをポケットにしまうと、溜め息混じりにその手を払った。


「恋人じゃないって、…知り合いに渡しそびれただけだ」

「またまたー、本当は居るんだろー?」

「いないから」


蛍斗は軽く笑って言うが、その笑みはどこか力無い。からかい口調だった孝幸も、その様子を見て躊躇いつつ口を開いた。


「…いいの?その人、蛍斗自身を見てくれた人じゃなかったの?」


突然のその言葉に、蛍斗は驚いて孝幸を振り返った。孝幸に澄香の事を話した覚えはない、それなのに、まるで心を読んだかのような孝幸の言葉に、疑いたくはないが蛍斗の中に疑心が生まれてくる。


「誰に聞いた」


まさか、澄香の体質の事まで知っているのか。まさか、誰かに言いふらしてはいないか。

思わず睨みつけてしまえば、孝幸は肩を跳ねさせ飛び退いた。


「お、怒るなよ!恋人いるくらい普通じゃん!みんな、蛍斗が俺を睨むんだよ~!」


と、涙目で他のメンバーを盾に訴える孝幸だったが、「何の話?孝幸、スキャンダルは勘弁してくれよ」「お前、また蛍斗に何か言ったのか?ちゃんと謝ってこい」と、冗談混じりながら、孝幸は他のメンバーに追い出されてしまった。このユニットにおいて、孝幸の信用度は蛍斗よりも低いようだ。孝幸はしょんぼりと肩を落とし項垂れた。


「…悪い、怒ってないから」


勝手に疑ったのは蛍斗なので、孝幸は悪くない。蛍斗は孝幸の姿に申し訳なくなった。

何を疑っているのか、孝幸が例え澄香の体質を知っても、それを言いふらすような人間じゃない事は分かっているのに。蛍斗は自分に向けて溜め息を吐いた。


澄香との関係や、誰かと付き合っていた事も誰にも話していない。だから孝幸がそれを知るとしたら、真実からだろう。真実は澄香とも仲が良かったから、何か聞いていたのかもしれない。


それに今は、澄香との間には何も無い。

こんな自分のままで、良いのだろうか。会いに行くと決めたけど、いざとなれば弱い心が顔を出す。仲間を疑うような自分じゃ、昔と変わらない。


「…大丈夫だよ」


落ち込む蛍斗をどう思ったのか、孝幸はそっと表情を緩め呟いた。


「今の蛍斗は、初めて会った時より格好いいよ」


そう、ぽんと肩を叩かれた。


「…何言ってんだよ」

「はは!そりゃそっか、お前は生まれた時からイケメンだもんな~」


先程まで落ち込んでいたのに、孝幸はすっかり調子を取り戻したように笑った。それから仲間の輪に加わっていく背をぼんやり見つめ、蛍斗は胸が温かくなるのを感じていた。


心配してくれる人がいる、突き放さずにいてくれる仲間がいる、その仲間の大切さに気づけたのは、蛍斗にとっては小さいながらも進歩だ。




まだ怖がりの癖は抜けてない、人間何かを決心したからといって、そう変われるものでもないのだなと、蛍斗は思い知った。


渡せなかったチケットは、戒めであり、お守りだ。


澄香の前に立つ自信が無かった、自分は仁には敵わないと知っていたから、仁を思う澄香を見るのは辛かった。

でも、今はもう何も持たなかった頃の自分とは違う。澄香と出会って、自分のピアノに少し自信が持てた。誰かの息子でも、誰かの弟だからというのではなく、評価してくれる人はいる。見てくれる人がいる。このユニットで、自分は自分だと胸を張って立てると思えた。

デビューライブが成功したら、少しは澄香に近づけるだろうか、会いに行けるだろうか、胸を張って、縋るんじゃなくて。いや、今度こそ会いに行く。


蛍斗はポケットの中で渡せなかったチケットを握りしめる。

もう一歩踏み出す勇気を、このチケットに誓って、もう過去の自分には戻らないと。


何より、こんな事で孝幸に心配を掛けてるようではどうしようもないなと、蛍斗は気持ちを切り替え、仲間達の輪に入っていった。





緊張した面持ちで仲間と顔を合せて、逸る気持ちを互いに抑えつつ、それでも抑えきれなくて震える手を握った。

幕の向こうから騒めきが聞こえる、大勢の人が自分達の為に来てくれた。


「一人一人に向けて、最高のパフォーマンスをしていこう!」


行くぞ、そのかけ声に円陣を解き、拳を合わせてステージへ。暗い会場内は、いまかいまかと幕が開くのを待っている。期待が会場の空気を震わせる。

そんな幕前で、それぞれが持ち場につく中、孝幸が蛍斗の居るピアノの方へ寄ってきた。


「何だよ、もう幕が上がるぞ」

「うん…本当は、終わるまで内緒って言われたんだけど、お前の為に言っとく」

「なんだよ?」

「二階席のほぼ正面、前から三列目」

「は?」

「驚いて、ミスんなよ」


孝幸は悪戯に笑って持ち場についた。ライブの本数は幾度となく重ねてきたが、デビューライブは一度きりだ、随分余裕だなと、蛍斗は呆れ半分で孝幸を軽く睨んだ。


半端な演奏したら、蹴りの一つでもいれてやる。


そして、幕が上がった。


感じた事のない大きな歓声と拍手が頭の上から降り注ぎ、ステージにライトが眩しく照りつけた。それでも、客席には顔が見える。一人一人、はっきりと。彼ら彼女らも、こちらを見つめ、高揚した笑顔を見せてくれている。

メンバーと視線を合わせ、ドラムの威勢の良いカウントが始まり、蛍斗は鍵盤を押さえた。イントロが鳴り始め、ボーカルの高揚した声がマイクに乗って会場中に響き渡る。「これから一緒に、夢見ていこうぜ!」と、煽るボーカルに、会場からは歓声が上がり、蛍斗は和音を押さえながら会場に目を向けた。

眩しい歓声に目を細め、ある一点に視線を向けた時、自分の目を疑った。


二階席の正面、前から三列目。


そこに、澄香がいた。

目は合っただろうか、楽しそうに笑っている様子が分かる。来てくれた、そう思えば指が鍵盤から離れそうになり、蛍斗は慌てて手元に視線を戻した。どうにか軌道修正を果たして顔を上げると、孝幸がニヤニヤとこちらを見つめていた。


あの野郎、と顔を顰めかけたが、客前だと気づき、素知らぬ顔を装って演奏に集中した。


けれど本当は、動揺して自分の気持ちを奮い立たせるのに必死だった。


それでも不思議と指先が軽やかに動く。ライトがパチパチ変わるソロパートは、いつもより饒舌にメロディを奏でたかもしれない。


いつも抱えていた、誰かの息子で弟で、だから自分は価値があるのだと、逆にそこだけにしか価値がないと。でもそれは、自分で決めつけていただけなのかもしれない。何も出来ないのを誰かのせいにして、向き合う事から避けていた。出来ない事への言い訳にしていた。


でも、違う。

今は、見ていてくれる人がいる。見つけてくれた人がいる。

客席を見上げ、蛍斗は微笑む。やっぱり澄香の側にいたい。まだきっと頼りないけど、頼りない自分ごと、もう一度澄香に会いに行く。


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