17



「ごめん!てか、こんな所で犬っぽさ出さないでよ」

「さっきは冗談って言ったのに!」

「だから、ごめんてば!」


澄香すみかは怒ってはいるが、申し訳ないが蛍斗けいとには本当に怒っているように見えず、ただ可愛いだけだった。犬の耳のせいだろうか。だから、つい気が緩んでしまう。


「ま、良いじゃないですか、ちょっとくらい」

「こ、これがちょっとか!思いっきりしてたけど!?」


言いながら、澄香は蛍斗の腕から逃れようと這いつくばった。そのまま蛍斗の下から這い出ようと考えているのだろう。


「嫌なら、もっと嫌そうにして下さいよ」

「で、出来ないだろ、く、口塞がれてるし!」

「…尻尾、揺れてますけど」


蛍斗の言葉に、澄香ははっとして起き上がると、ソファーの端に寄り、お尻を隠すように両手を後ろに回した。


「み、見るな!人の心を覗き見しやがって!」


やはり、犬のものと同様に尻尾は感情を表しているようだ。


「視界に入るから無理ですよ」

「うぅ…」


縮こまり、どこか落ち込んでいるような澄香の姿に、蛍斗は頬を緩め、もう一度「ごめん」と、その頭を撫で立ち上がった。



「お風呂入りますよね、用意してきます」


その言葉に、澄香は慌てて身を乗り出した。


「え、帰るから!」

「耳や尻尾出して?薬飲んでも数時間かかるんでしょ?なら、明日帰る方が良いじゃないですか、もう遅いし」


その蛍斗の様子からは、下心よりも普通に案じてくれているのが伝わってきて、澄香はぽかんとしてしまう。


「…蛍斗ってさ、順能力高いよね。本当に俺の事気持ち悪いとか思わないんだな…凄い兄弟だよ」

「…血は繋がってないけどね」

「いや、そういうつもりじゃ、」

「分かってます。…見た目とか、上辺だけで判断するのが嫌なだけですから」


蛍斗も家族に対しコンプレックスを抱えて生きてきたので、思う所があるのかもしれない。

澄香はそれには触れず、眉を下げた。


「…みんな、蛍斗みたいだったら、こんな隠れて過ごす事もなかったのにな」


それから、澄香は照れくさそうに笑った。


「…自分の体質の事、笑って話せる時がまたくるとは思わなかった」

「…悪いものと思うから、何でも悪くなるんですよ。ただの個性ですよ、その体質で誰かを傷つけた訳でもないし、傷ついてんのは本人だけじゃないですか」


蛍斗は困ったように笑ってそう言い残すと、リビングを出て行った。きっと、風呂の準備をしに行ってくれたのだろう。澄香はきょとんとリビングの向こうを見つめていたが、やがて泣きそうに表情を歪めると、目元をぐいっと擦った。







風呂に入り、食事をして、少し話をして。その内に薬が効いて眠ってしまった澄香に、蛍斗はそっと息を吐く。

一人でほったらかされたようなベッドに、澄香を横たわらせる。澄香は安心した表情で眠っていて、そのチグハグさに、何だか気が抜けてくる。


「…調子狂うな…」


澄香との関係を望んだのは、じんへの復讐の筈だったのに、思い返せば、澄香に会ったその日からその思惑は崩されていた。誰かの息子や弟じゃなくて、自分のピアノを好きだと言ってくれて、自分を見てくれて。

もう、好きになるしかないじゃないかと、蛍斗は心の中で呟く。


「こんなつもりじゃなかったのにな…」


ベッドの傍らに膝をつき、眠る澄香の髪を、さら、とすく。徐々に犬の耳が萎んでいくのを見て、少しだけ残念に思った。


「全然、気持ち悪くないよ」


そう囁けば、ぽけっと開けたままの澄香の唇が微笑み、蛍斗は思わず笑ってしまった。







朝になり、澄香は目を覚ますと、頭に触れた。そこにあった筈の犬の耳が消えている事にほっとして、それから辺りを見回した。部屋の隅に置かれたアップライトピアノを見て、ここが蛍斗の部屋だと気づいたのだが、そこに蛍斗の姿はない。また出掛けたのに気づかなかったのかと、澄香が焦ってリビングに行くと、蛍斗がソファーに横たわっているのが見え、ほっと息を吐いた。

昨夜、蛍斗は澄香にベッドを譲り、このソファーで眠っていたようだ。


「…寝てても王子様だな」


澄香はその傍らに腰を落とし、暫しその綺麗な寝顔を見つめ、そっと頬を緩めた。






まだ蛍斗が眠っている内に、澄香は公一きみいちに連絡を入れた。仕事を休ませて貰う為だ。澄香が店に出ている間、昨日のスーツの男がやって来るとも限らないし、彼が一人で来るとも限らない。営業中に騒ぎを起こすのは避けたかった。

公一は澄香の体質だけでなく家の事情も知っているので、理由を話すとすぐに受け入れてくれた。澄香の代わりに、真帆まほが店に助っ人で来てくれるという。


「店、大丈夫だって?」


その声に振り返ると、蛍斗が体を起こし目を擦っていた。まだ寝ぼけ眼のようだ。


「ごめん、起こしちゃった?」

「いえ…おはようございます」


柔らかな表情で蛍斗が言う。髪は寝癖が跳ねて酷いのに、その微笑みに思わず胸がドキリとして、澄香は焦って返事をしたが、どもってしまった。


「あ、朝だな!カーテン開けよう!今日は、何か予定あるのか?」


まさか、ときめいたなんて思われたくなくて、澄香はそんな自分を誤魔化そうと慌ててベランダの方へ向かいカーテンを引き開ける。朝の眩しい日射しに、二人して目をすがめた。そもそも寝起きの蛍斗に、澄香の心情を推しはかれているのか微妙な所だが、挙動不審は見抜かれていないので、澄香の赤い頬の理由には行き当たっていないだろう。


「今日は、練習もバイトも休みなんです」

「そ、そっか!じゃあ、もう少し寝とく?ごめんな、いつもベッド使わせて貰って」

「その方が俺が安心するんで、だから気にしないで下さい。澄香さんは、眠れた?」

「う、うん、お陰様で」

「それは何よりです」


蛍斗は安心した様子で表情を緩め、それから「顔洗って来ます」と、立ち上がった。澄香は一足先に洗面所を使わせて貰っており、着替えも済ませていた。


「ご、ご飯とか作ってよっかな、うん」


蛍斗が立ち去って誰も居ないリビングで独りごち、澄香はそそくさとキッチンへ向かった。朝から王子様の微笑みは心臓に毒だと、高鳴る胸を落ち着かせるのに必死だった。




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