第0-3話 緑茶とワサビと梅干しと
私が自分の置かれている状況を、正しく理解し始めたのは、四歳の頃だった。
辞書をすべて読み終える頃、私の興味は部屋の本から、外の世界に移りつつあった。文字だけでは分からないことが多すぎると気がついたのだ。どうやら、私が思っているよりも、外の世界は広いらしい。
それから、私は塩が言った、「魔王」という言葉を辞書で探してみた。しかし、載っていなかった。
また、塗りつぶされている言葉には、「ま」から始まる言葉が多いということに気がついた。ただ、塗りつぶされているから、どうやっても読むことはできなかった。
辞書に頼るのをやめて、塩の人に何度か聞いてみたが、何も教えてもらえなかった。
その日は朝から雨だった。私は高いところにある窓から、じっと、空を眺めていた。
「雨はどこに消えていくんだろう。美味しいのかな。どれくらい、冷たいのかな──」
空から降ってきたということは、その下にある大地に吸い込まれていくのだろう。
そういえば、この下の大地は、一体、どんな色をしているのだろうか。あそこの窓から乗り出せば、少しは見えるかもしれない。知りたい。
「んーっ、よいしょーっ……はあっ、届かない……!」
ぴょんぴょん跳ねた。毎日毎日、跳ねてみたが、とても、手が届きそうになかった。
「ねえ、塩の人」
「……え、それ、オレのことっすか!?」
「他に誰がいるの? 幽霊さんたちが見えるようになったの?」
「幽霊……!? お、オレはローウェルっす!」
「じゃあ、ローウェル。窓の外は、どうなってるの?」
私が尋ねると、ローウェルは悩む素振りを見せた。彼は悩むときに少し、笑う癖がある。
「──見たいっすか?」
「うん」
迷った末に、ローウェルは私を抱き上げて、高い位置まで上げてくれた。窓を開けると、むわっとした空気が入ってきて、雨の降る音が、鮮明に聞こえた。
そこから、少し身を乗り出して下を見ると、緑の大地が見えた。──芝生だった。雨は空から降ってきて、あっという間に芝生の下にある土に吸い込まれて消えた。もっと、近くで見てみたかった。
それから、私は視線を上げた。
そこから見える景色には、終わりがなかった。
高い建物が建っていて。
一面に芝生が広がっていて。
柵が設置されていて。
遠くに、人の影も見えた。
耳を澄ますと、声が聞こえた。
芝生の苦い臭いがした。
手を伸ばすと、雨はひんやりと冷たくて、ぽつりぽつりと当たる感覚が、面白かった。
そして、自分の手がいかに短くて、自分がいかに小さくて、自分がいかに何も知らないか、気づかされた。
辞書を読んでいる時間ですら無駄だと感じた。外に出れば、辞書を読むより多くのことが分かる。きっと、もっと楽しいことがたくさんある。
私はいっそう、外に出たくなった。そうして、窓枠を掴んで力を込めたが、しっかりと抱えられていて、脱け出せそうになかった。
「ダメっすよ。外に出るのは」
「なんで?」
「まな様は、ここにいないといけないからっす」
「どうして?」
「それは──」
「どうしたら、外に出られるの? 」
私が問いかけると、ローウェルは困った顔で笑って、こう言った。
「きっと、八歳になったら出られるっすよ」
「私、今何歳?」
「四歳っす。……でも、八歳になったら」
「──ローウェル」
外からの声に呼ばれて、ローウェルが私を抱えたまま振り返る。そこには、青髪の男性が立っていた。塩と砂糖はどうしてダメなのかと聞いたとき、そういう決まりだから、と、よく分からないことを言っていた人だ。
一番、私と会話してくれないから、私は彼が苦手だった。そういえば、ローウェルと同じ髪の色だ。
「お前はまた勝手なことを……」
「いいじゃないっすか、少しくらい──」
「いいわけがあるか! 今すぐここから出ろ!」
私はビックリして、動きを止める。ローウェルはそんな私を床に降ろして、頭を撫でた。
それきり、笑顔を隠して、
「失礼します」
青髪を残し、扉から出て、無表情でこちらを見つめていた。
「まな様、外に出ようとなさいましたね?」
「うん、したけど……」
「外に出るのは危険です。絶対におやめください」
「で、でも──」
「でもじゃない!」
私は体を震わせて、壁にもたれかかり、目をそらす。すごく、怖い。
「わ、私は、外に出たいの。お願い──」
「お願いすれば、なんでも叶うと思うな! お前がここで生かされているのは、お前が生きるためじゃない!」
鉄の扉が叩かれて、大きな音が鳴る。私は耳を塞いで、うずくまる。
───怖い怖い怖い。なんで、どうして、そんなに怒るの? 敬語じゃないから?
「ごめんなさい。お願いします、外に、行かせてください」
「そんな言い方をしても無駄だ! お前の望みなど、誰も聞いていない!」
そう言って、青髪は窓を、バンッ、と閉めた。雨の音が遠くなる。草の香りが消える。外が遠い。
「どうしたら、外に行かせてもらえますか?」
「だから、外に出るなと言ってるんだ!」
そうして、私は頬をぶたれた。その衝撃に驚いて。打たれたところが、痛くて。怖くて。
「……うわああん!!」
「泣けば許されると思うな。お前の存在自体が罪なんだ。お前がみんなから優しくしてもらえるのは、お前が愛されているからじゃない。お前が愛されていないからだ! お前が可哀想で、見ていられないからだ! お前自身は、誰にも必要とされていない! 分かったか!?」
「うああぁん!!」
「外に出ないと、約束しろ!」
話し方の問題じゃない。ただ、青髪は私を外に出したくないのだ。外に出ないと、誓わせたいのだ。そうして、自分が安心したいのだ。きっと、私が外に出ると、何か不都合なことでもあるのだろう。
「嫌だ! 外に行きたい! 私は外の世界が見たいの! こんなに狭い部屋は、もう、嫌だっ!!」
「……そうか。お前を甘やかしたのが間違いだった!」
私は蹴り飛ばされて、壁に背中を打ちつけた。一瞬、何が起こったか分からなかった。ただ、呼吸ができない。上手く、声が出せない。涙だけが静かに溢れていく。
「ちょ、ちょっと! さすがに、死んじゃいますって!」
「骨も折っていないのに、このくらいで死ぬわけがないだろう。あの方の血を引いているのだから」
「でも、暴力は禁止されているはずっす!」
「忘れるなよ、ローウェル。お前の子どもを誰が助けてやったと思っている」
「それは──っ」
ローウェルの制止も聞かず、青髪は私の元まで歩いてくると、髪の毛を掴んで引っ張りあげた。
「痛い、痛い! 離して!」
「外に出る気は失せたか?」
「嫌だ! 出して、ここから出してよ!」
私は青髪から離れようともがく。しかし、短い手足では、まったくと言っていいほど届かない。揺れるほどに地肌が痛む。
「なんで出ちゃダメなの!? みんなは外に出てるんでしょ!?」
「お前が普通じゃないからだ! お前が、女で、白髪で、赤目で、魔族だからだ!」
「それの、何が悪いのっ──きゃあっ!」
私は壁に叩きつけられて、地面に落ちる。それから、足でお腹を押さえつけられる。
「うぐっ……」
「出ない。そう誓え」
「いやだあぁっ……!」
諦めなければ、夢は叶うと、本たちは言った。何が起こっても、諦めなければ、なんでもできると。だから、私は諦めたくなかった。怖いし、痛いし、嫌なことばかりだったけれど。
「うっ……!」
すると、青髪は私の上に乗って、口と鼻を手で塞いだ。息ができない。苦しい。じたばたと暴れるが、離れてくれない。手を掴んでも、とても引き剥がせそうにない。
「……ごほぉっ」
そうして、意識を失って。
目が覚めると、こう問われた。
「外に出ないと誓うか?」
「出たいって言って──んー!」
今度は、意識を失う直前で、手を離されて。
「外に出ないと誓うか?」
「……出たいっ」
このまま、死ぬんじゃないかと思った。それでも、私は外に出たかった。
そうしたら、今度はナイフが出てきた。キラキラと光っていて、きれいだと思った。ただ、あれは、何かを切るのに使うものではなかったか。
「それはさすがにまずいですって! あの方にバレたらどうするんすか!?」
「あのお方は今日から一ヶ月、カルジャスへ行くことになっている。その間に治る傷しかつけない」
そして、ナイフが腕に当てられると、ピッと引かれた。
痛い。痛い。怖い!
「うわああああぁん!!」
「出ないと誓うか?」
私は泣きながら首を横に振る。私は、ここまでして外に出たいのだろうか。今までの生活に、何か不満があったわけでもない。ただ、外の世界を知りたかっただけなのだ。それが、こんな思いをすることになるなんて、思っていなかった。
私はもう、自分がどうしたかったのか、もう、分からなくなっていた。
「何かあったの?」
私の声を聞いたワサビがやって来た。そうか、そこには、塩もいるのだった。助けて──。
「まな様がどうしても外に出たいと仰って。あれだけされても、出ないって言わないんっすよ。……見てられないっす」
「そう……。まあ、あの子にとっては、外が輝いて見えるのかもしれないわね。……さ、ローウェル。任務に行くわよ」
「──はいっす」
ワサビの人がローウェルと何か話しながら、二人で去っていく。何を話しているのか。そんな暇があったら、助けてほしい。
私が助けてほしいと言わないから、分からなかったのだろうか。
そちらに気をとられていると、今度は太ももに激痛が走った。
「あああああ!!」
「出ないと誓うか?」
出ないとは言わなかった。でも、首を横に振る勇気もなかった。すると、また足音が聞こえた。二人が戻ってきたのかと思ったが、そうじゃなかった。
「本当にまな様が痛みに悶えて、悲鳴を上げていらっしゃるじゃないですか。はあっ、はあっ……なんて、いい悲鳴……! 生きてて良かったあ……!」
「この異常者が」
緑茶と梅干しが話していた。緑茶は頬を赤らめていて、梅干しはぴくりとも表情を変えなかった。
「くれぐれも、殺すなよ。私たちが何をされるか分からない」
「まな様の血液、ぺろぺろしてもいいですかあ?」
そう言って緑茶は、私の腕と太ももの傷を執拗になめた。気持ち悪い。なんでそんなことをするのか分からない。何より、傷口が痛い。
「あはぁ……! もっとください! もっとぉ……」
青髪は私の腹にナイフを刺した。
「あああぁっ……!!」
「ありがとうございまあす……!」
その傷がなめられる。痛い、痛い痛い。おぞましい。恐ろしい。心がない。でも、言わなきゃ。
「たす、け……て」
それを聞いた緑茶は、頬を赤らめて私を見ているだけだった。梅干しは、私と目を合わせる気もないようで、眼鏡のレンズを拭いていた。
「早く任務に向かえ」
「はい。行って参ります」
「はあい」
それから、再び問われた。
「外に出ないと誓うか?」
「──」
そうして、みんなから見放されて、私はやっと、首を縦に振った。
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