第1章 それは、あのこのほほえみから 6


 アダムスのところに遊びに行くようになってから数か月が過ぎた。エミリは様々な仕事を掛け持ちして忙しく過ごす一方で、休憩時間や休日になるとアダムスの家に向かった。エミリは社交的な性格だったから、休み時間や休日にも周りの人とコミュニケーションをとり、時々何かを手伝ったり、他愛のない世間話に付き合ったりしていた。それが、ここのところ空き時間になるとどこかに消えていく。村のコミュニティは狭い。噂はあっという間に広がった。体のどこかが悪いのではないか。村の誰かと恋仲なのではないか。そんななか、森に行くのを見たと言う者が現れた。森に入って、小一時間は出てくることはなかった、と。村人にとって森といえば、木の実などを採りに行く以外は、「森の賢者」を連想させる。エミリは森の賢者に会いに行っているのではないか。そう仮説を立てたお節介な人が、エミリに詰め寄った。

「エミリ、最近森に通っているって本当?」

「あの“魔物”に会いに行ってるってほんと?」

「噂じゃあの賢者は怪しげな魔術を使うというじゃないの。あなた、誑かされてるかもしれないわよ。」

「あいつに何か不埒なことをされてるんじゃないだろうな?抵抗できないのであれば、俺を呼べ!」

 村の知り合いのほとんどの人に憶測を立てられ、エミリは辟易していた。一人一人にその都度、説明する。彼に会いに行っているのは本当であること。彼はただの友人で、そのような関係ではないこと。無理強いされていることはないこと。

 説明されて、はいそうですかと納得して引き下がる人々ではなかった。エミリが森の賢者と親しい仲になっていることはたちまち村中に広まった。そこで黙っていなかったのが、ひそかにエミリに好意を持っている人々だ。

 いつものようにアダムスのもとに向かおうとしたエミリは、好意を持っている者の一人、小作主の息子のルイに声を掛けられて足を止めた。村中に噂は広まっているから、エミリはアダムスのところに行くと正直に言った。

「行っちゃだめだ。」

 真剣な顔で彼は言った。

「なぜ?ただ彼とお茶しているだけよ。」

 少しエミリより年上のルイは、まっすぐな眼差しで言った。

「あの人は素性がたしかじゃない。深夜にこの村で彼を見たという話も聞く。何を考えて、何をしているのかわかったものじゃない。近づかない方がいい。」

「噂、噂って…。あなたがそんなに噂好きな人だって知らなかった。」

 エミリが呆れて言うと、ルイがずいっと近づいてきた。

「噂だけじゃない。村長のオーウェスト一家の爺さんが言ってたことだ。あの人のことを子供の時に見たことがあると言っていた。これが何を意味しているのか、わかるか?」

「それがどうしたの。親戚か何かで、代々ずっとあの家に住んでいるんでしょ。」

「それにしても全く同じ容姿なことがあるのか?あの人は年をとらないんだ。」

 何も知らないくせにそうやって憶測を立てるな、と相手を責めようとしたエミリは、言葉を口にできなかった。自分だって、つい最近まではこの人達の一部だったのだ。アダムスのことを“魔物”と呼んで、世間話の材料にしていた。ルイを責めることはできない。

「な?怪しすぎる。噂だって、火のないところには煙は立たないって言うだろ。」

 ルイはエミリの手首をぎゅっと掴んで、顔を覗き込んだ。

「もうあそこには行くな。大変なことに巻き込まれてからじゃ遅い。お前が心配なんだ。」

 彼からは、本当にエミリを心配しているのが伝わってくる。今日は行くのをやめよう、とエミリは思った。

「わかった。行かないよ。」

 エミリの言葉にルイはほっとした様子だ。

 そんな調子で、男女問わずエミリを止める人が増加したおかげで、なかなかエミリはアダムスのところにいくことができなくなってしまった。村に恩義がある以上、心配してくれた人の思いを裏切るのは後ろめたかった。

 ようやくエミリがアダムスのもとに行けたのは、更に1か月が経った頃だった。森には若葉が生い茂り、過ごしやすい季節になっていた。

「こんにちは、アダムスさん。お久ぶりです」

 アダムスは、エミリの様子を観察した。心なしか疲れているように見える。

「仕事が忙しかったのか?」

 アダムスが尋ねる。エミリは、以前の訪問から間隔が空いていることを言及されるとは思わなかったので驚きつつも、正直に答えることにした。

「村のみんなが心配しているんです。妙齢の女の子が、ほいほいと男の人の家にいくもんじゃない、と。」

 姿形が変わらないとか、深夜に出歩いているとかいう噂は言わないでおいた。

「そうなのか。」

 アダムスは、よくわからないと言いたげに首を傾げながらエミリを家の中に入れた。

「うわ…。アダムスさん、“使ったものはしまう”“決まったものを決まった場所へ”という約束、覚えていますか?」

「お前が帰ったら忘れた。」

 しれっと言ったちらかし魔に、エミリはため息をついた。しばらく家に来ていなかったから、アダムスの家は再び散らかり放題になっていた。

「お掃除道具、持ってくればよかったな。とりあえず、お茶淹れますね。」

 みんなに言われたことが頭の中をぐるぐるしていて、いつもはべらべらと喋れる口が重い。エミリは無言でお茶を淹れ始めた。

 黙りこくったエミリの後ろ姿を、アダムスはじっと見つめて、先日の夜の出来事を思い出していた。エミリの生気を吸い取った途端に体を巡っていった活力、温かさ。魔族と相性の良い生気を持つ人間がいるとは知っていたが、エミリがそうなのか。

 あの温かさをもう一度体験したくないと言ったら嘘になる。

 お湯が沸くまで、エミリは簡単に家の中を掃除した。見える床の面積が増えたところでお湯が沸き、ティーポットにそそぐ。茶葉が蒸らされている間、二人はテーブルについて他愛のない話をした。アダムスは小屋で、薬の開発をしているそうだ。この森にはよい薬草がそろっているらしい。エミリは、珍しく自分のことを話してくれるアダムスの話に耳を傾ける。エミリがカップに紅茶を注ぐ。今なら、聞いてもいいかな、とエミリはふと思った。いろんな噂のこと。

「アダムスさん、聞いてもいいですか?」

「いつもそんなことを言わずにずけずけと聞いてくるだろう。」

「そうでした。あの、アダムスさんに家族はいますか?」

 アダムスは長い銀髪を払いながらエミリを見た。

「俺に興味があるから、といういつものやつか?」

「はい!」

 アダムスは考え込むようにゆっくりと紅茶をすすると、短く言った。

「血縁者は父親と、母親と、兄だ。」

「兄弟がいたんですね。」

「母親が違う。会ったことはあるが、一緒に暮らしたことはない。」

「ご両親とは?」

「両親との記憶はほぼない。父親は仕事でほとんど家にいなかった。母親とは小さい頃はしばらく一緒に過ごしたが、俺が教育を受ける頃になるとほぼ姿を見ていない。どこかで勝手に暮らしていると聞くが。」

「そうなんですか…。」

 淡々と話すアダムスの気持ちを考えると、エミリは胸が痛かった。

「ここにはいつから住み始めたんですか?」

「俺が成人してからだ。」

「その前はこの小屋に誰か住んでいましたか?」

 その質問にアダムスは答えなかった。代わりにエミリをじっと見つめた。

「村の人間に、“聞いてこい”といわれたのか?」

 エミリは、慌てて手を振った。

「そういうわけじゃありません。ただ、村で噂がたくさん流れているんです。例えば、おじいさんが子どもの頃にアダムスさんと同じ姿の人を見たとか。アダムスさん、深夜に出歩くなんてしてないですよね?墓場で人魂を食べてないですよね?」

 エミリは必死に言う。自分の目の前にいる男は、薬と傷の扱いに長けているただの人間嫌いな人だという確証が欲しかった。

 アダムスは、考え込むように指先であごをつまむと、エミリに尋ねた。

「村では私は何と言われている?」

「“森の賢者”とか、“アダムスさん”とかです。」

「大層な名前だ。今お前が言った噂が流れる人とは思えないな。他にもあるだろう。」

 エミリは言おうか迷った。自分だったらこれを教えられたらいやだ。

「アダムスさんが悲しむので嫌です。」

「構わない。」

 エミリは小さな声で言った。

「“魔物”と…。」

 自分もかつてアダムスさんをそう言ったことがあった。しかし、実際に彼と会って話をして、魔物でもなんでもないことを知った。掃除が苦手で、炊事洗濯を全くしない人で、少し天然で、とびきり綺麗な男の人だ。

「ひどいですよね。アダムスさんがそんなこと、あるわけがないのに。」

 自分もそのひどい人達の中の一人だ。それを自覚しながら、アダムスがそれを否定するのをエミリは待った。早く、苦笑いして、「馬鹿馬鹿しい。」と否定してほしい。

 アダムスはエミリの言葉を聞いて目を丸くした後、顔を伏せた。

 次に顔を上げた時、彼は声を上げて笑っていた。エミリはほっとする。やっぱり違うんだ。

「そうだ。」

 アダムスはひとしきり笑った後、エミリにそう言った。エミリは耳を疑った。

「え?」

「人間はやはり勘がいいな。その通り、私は人間ではない。」

「え、ちょっと、アダムスさん。冗談ですよね?」

「冗談ではない。村の翁が見たという者は私だ。私はこの村が集落として成り立つ前からこの森に住んでいる魔族だ。」

「ちょ、ちょっと、冗談きついですって、アダムスさん。」

「見られたと気づいた時には目撃者の記憶を消し、長生きしすぎていると気づかれぬように十数年毎に姿形を変えていたが、甘かったな。我が正体を見抜くとは、感心したぞ。」

 エミリは混乱した。目の前の男が、友人ではなく、正体不明の何か恐ろしいものに思えてきた。底知れない恐怖が腹の下の方からこみあげ、悲鳴をあげないようにエミリは口をしっかりと閉じた。

「怖いか?」

 そんなエミリをアダムスは見据える。紫色の瞳が、今はとても深い色に思えた。

「す、少し…。」

 エミリは正直に答える。

「ふん、無理をするな。そんなに震えているくせに。」

 アダムスは席を立つと、エミリの腕を掴んで立ち上がらせ、玄関の方へと引っ張った。

「ちょっと、アダムスさん!」

「今日はもう帰れ。」

「いやです!どうしていきなりそんなことを、アダムスさん!」

「私が魔物であることを村の奴らに言って構わない。」

「え?」

 アダムスがドアを開けた。エミリはアダムスの顔を見上げた。言ってしまったら、村人は自分達を守るためにアダムスを排除しようとするだろう。アダムスは命の危険に晒される。なのに、どうして?もしかして、と、エミリは一つの可能性を考えた。

「もしかして、この森からいなくなるつもりですか?」

 エミリはほぼ全身をドアの外に押し出されながら聞いた。アダムスは答えなかった。

必死に呼びかけてくるエミリの声を無視して、ドアを閉めた。

 ドンドンと扉を叩く音がする。同時にエミリの必死な声も続く。それもしばらくしたら止んで、草むらを踏み分ける足音が遠ざかっていく。それをドアのすぐ内側で聞いていたアダムスは、ドアに背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。これでよかったはずなのに、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。                  

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