第6話 練習
僕はその日から、ジャメルと暮らすことになった。家がなかった僕にとって、それはとても幸福な日々の始まりだった。夜に寒さで震えることもない。空腹で苦しむ朝もない。ごみを食べて、お腹が痛くなることもない。
熱が出たら、ジャメルは不思議な言葉でおまじないをしてくれて、その日の内に治してくれた。もちろん、僕もジャメルのお世話をした。洗濯もの、買い物も率先してやった。ジャメルは僕に食事と寝床を与え、さらには不思議な力を使えるように訓練してくれた。
ジャメルは僕の目を気に入ってくれている。僕の力はジャメルのとは異なり、何もかも見通せるものだと教えてくれた。最初はあまり実感が沸かなかった。今日は僕の力を試すと意気込んでいて、何だか不安だ。
昼下がりの心地よい風に吹かれているのに、気分は憂鬱だった。ジャメルにアパートの外で待つように命令されてからずっと立ち尽くしている。ときたま見かけるアパートの住人は、棒立ちしている僕を怪訝そうに眺めていく。服はジャメルに買ってもらった新品のサンキュロットとカルマニョールなのに、よほど怪しまれているみたいだ。
「さあ、ユーグ練習だ。俺に触れたら合格だ」
やっと中に入れてもらえる。そう思ったのも、束の間、ドアから弾き飛ばされた。何だ? 見えない壁か? ドアが黒い煙のような光の錯覚を生み出して歪んでいる。その奥がだんだん透けてきた。赤い光が二つ見える。生き物の目。何だ? ドアの向こうから唸り声が聞こえてくる。ジャメルのものとは明らかに違う獣の声。灰色の毛が、風に乗って飛んできた。
見える。ジャメルが中で何かを唱えている。両手を大きく天井にかざし、両目は大きく見開かれ、僕には理解できない狂気の笑みを浮かべている。やっぱりジャメルは怒らせると怖い。もし、この試験を失敗したら僕の命はない。
獣がドアから飛び出してきた。尻餅をついた僕の上に、巨体がのしかかってくる。まずい、このままでは本当に殺される!
とっさに、獣の目玉をひっかいた。ひるんだその隙に転がった。獣が興奮して唸り声を上げる。灰色で口は耳の辺りまで裂け、犬に似ているが体格は熊のようだ。尻尾は三本もあり、尻尾の先にはうごめく目玉がついている。
通りすがりの住人は、顔面蒼白にして佇む僕を気が狂っていると思ったようで、そそくさとアパートに隠れた。この獣も他の人には見えないのか。つまり頼れるのは自分だけということ……。
唸り声を上げ獣が猛攻する。駆け出した僕は、家の間を縫うようにして逃げた。狭い路地には身体が大きすぎて入られないのだ。でも、いつまでも家と家の間に隠れていてはジャメルにたどり着けない。アパートに戻らなくては。
獣をうまくまけたのか、姿はもう見当たらない。今の内にアパートまで走ろう。すると後ろから獰猛な鳴き声が聞こえた。遠回りをして他の通りからやってきた。速い。アパートまで後少しなのに追いつかれる。大きくジャンプした獣は、僕を飛び越え、立ち塞がった。
部屋の中にいるジャメルは僕を楽しそうな顔つきで眺めていた。僕がドアを透き通して見えることが分かっていて、手を振っている。獣が毛を逆立てて僕に近づいてくる。
「ジャメル助けてよ」
もう降参したかった。こいつに噛まれたら、痛いではすまないし、楽にも死ねない。喉を鳴らして笑い始めたジャメルは酷だ。
「諦めるんだったら、楽に死ねる方法を考えてからにした方がいいぜ」
ジャメルとの生活は生きるか死ぬかだ。でも、ジャメルは好きだ。僕をいつ殺してしまうか分からないけれど、同時に、いつも生かしてくれていたから。
何とか生き延びたい。生きてジャメルともう一度美味しいパンを食べるんだ。ただし血の味パン以外で。
咆哮した獣が僕に飛びかかってきた。巨大な口が、赤い喉が僕の頭上から降ってくる。どうすればいい。どうすれば切り抜けられる?
その答えを獣の口の中に見つけた。喉の奥に黒い闇が輝く。それは異様に大きな塊だった。大きな闇の塊の奥に針の穴程の光がある。これだ。僕は意を決して獣の口の中に飛び込んだ。
――視界が開けた。平たい床に産み落とされる。おもいきり、背中を打った。指が、誰かの足に触れた。
「時間はかかったが、成功したみたいだな」
アパートの中にいた。僕の後ろには黒い大きな空間が空中に穴を開けている。それがすぐに閉じた。
「今のは?」
自分でも生きた心地がしなかった。
「この部屋に通じる扉だ」
ジャメルは高笑いをはじめた。その悪い冗談のような光景に、どっと力が抜けた。生きている。助かったんだ。獣の口の中に入ると、部屋に入れるなんて、夢にも思わなかった。
「これで合格だよね?」
悪魔のように笑い声を立てるジャメルは相変わらず笑いが止まらないようだった。
「ああ。バスティーユ牢獄には、色んな魔法の仕掛けがあるからな。必ず突破口はある。その練習だ。俺達の仕事はそれを全て解除させ、民衆が雪崩れ込めるようにすることだ」
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