第一部

【DAY・1】その一

【DAY・1】その一


 途切れた意識が、唐突に戻った。


 夢で転んだときのように、平衡感覚が狂っていて、現状認識が追いつかない。


 坂か? それとも、崖? ……とにかく、転げるように滑っているのは間違いない。そして、まだ地面は遠い。


 受け身を取ろうにも、角度が急でどうにもならない。せめて顎を引いて頭を守りつつ、滑り台だと割り切って身を任せるしかない。


 ただ、身体のあちこちに痛みが走っている。これは、果たして現実なのか? 先ほどまで、ゲーム大会に参加しようとしていたはずなのだが。


 二日間に渡ってプレイするはずだった「戦国統一オンライン」は、多少の操作補助システムは導入されているが、フルダイブタイプのゲームではない。


 はて……、と考えていると、尻に一段と強い衝撃が入って、俺は空中に放り出された。そのまま、木の枝の中に突っ込む。


 身体のあちこちが痛いが、ひとまず落下は止まった。喜ぶべきか……。けど、左足がどうやらイカれたっぽい。


 救急に通報しようと属人端末を探すが、ポケットには見当たらない。ここは……、どこだ?


 濃密な木の香りに充ちた林、……いや、森か。それも、かなり深い森のように思える。


 樹海か、どこかの山奥の原生林か。それにしても、空が蒼い。少なくとも、ゲーム大会の会場周辺ではありえなかった。


 答えは出ないまま、俺の意識は薄れていった。




 意識がうっすらと戻ってきた。と、咆哮が耳に叩きつけられる。


 明らかに人が発する音声ではない。目を凝らすと、いつの間にか霧の中にいた。


 左足の痛みに耐えながら、どうにか立ち上がる。と、霧を斬り裂いて何かが現れた。基本的に穏やかに生きてきた俺にも、はっきりとわかる暴虐な存在。あれは、熊だ。


 俺には熊の表情を察する能力は備わっていない。そのはずなのだが、怒り狂っているのがわかる。これはきっと本能によるものだ。


 そして、熊はまっすぐに俺に向かって突進してきた。


 ここがどこなのか。異世界転生か、神隠しにでも遭ったのか、それとも夢の中なのか。


 定かではないが、滑落の際に感じた恐怖、痛みの具合、さらには熊の迫力から、現実だと考えざるを得ない。


「どないせいっちゅーねん」


 得物を探した俺は、転がっていた枝を手に取って前に突き出し、同時に逃げ道を探す。


 枝はあっさりと噛み砕かれたが、一瞬だけ意識が逸れてくれたようだ。痛む左足を引きずって、木の陰に入る。


 だが、霧の中にいるからには、その先の道は見通せない。


 木に登るべきか。だが、足が……。


 その逡巡を引き裂くように、木の幹が砕け散った。吹っ飛んだ樹木の向こう側には、変わらず怒り狂った熊の姿があった。


 これは、さすがに詰みを認めるしかない。だが、だからといって投了する気には至らなかった。砕けた幹の破片をつかんで構える。


 せめて一矢を、とか深く考えたわけわけでもない。最後の瞬間まで望みを捨てない、なんて主義があるわけでもない。


 世の中に理不尽な死なんていくらでもあるだろう。自分だけは逃れられるべきだ、なんて息巻くつもりもない。


 それでも無駄に思える抵抗をする気になったのは、「戦国統一オンライン」での弱小勢力プレイにおける、ポイント稼ぎの悪あがき戦術に近いものがありそうだ。生存期間ポイントが得られるわけではなくても、染み付いた習性は変えられないというところか。


 突進してきた熊の顔めがけて、闇雲に枝を突き出す。またもあっさりと噛み砕かれたが、無駄ではなかった。牙でばらばらになった破片が、猛り狂った熊の目に当たったようだ。


 両目を貫いてでもいてくれていたら、逃げ延びられる可能性も出てきていたのかもしれない。だが、そこまで都合良くはいかず、多少のダメージとなっただけのようだ。より凶暴化して、両腕を闇雲に振り回し始める。


 命中すれば、一撃でぐずぐずの肉塊にされるだろう。後退りするが、距離が詰まっていく。


「転がって!」


 耳朶に届いた叫びに応じて身を投げだすと、俺のいた位置に槍らしきものが突き出された。そのまま、熊の首が貫かれた。


 ぐぎゃあ、という声と一緒に、両腕が繰り出された。それを華奢な影が後方転回で空振りさせる。


 着地しつつ構えられた弓から、続けて三度、すごい勢いで矢が放たれた。二本が両目に、もう一本が槍でつけられた傷に突き刺さる。


「動ける? 走って」


 引きずり起こされた俺は、足の痛みを無視して走り出す。振り抜かれた爪が、俺の背中をかすめた。


 俺の手を引いて駆けているのは、どうやら同年代の少女であるようだ。ちらりと後ろを見て、足を止める。


「毒が回れば、やがて倒れる」


 言い終えたタイミングで、熊がどうと音を立てて地面に激突した。俺も、続いてへたり込んだ。




 質素な和風の衣服に毛皮の肩掛けという風体の人物と、名乗りを交わす。澪という名の短髪の少女は、狩人であるらしい。外見からは、日本人であるように見える。


 先ほどの熊は彼女が仕留め損なったために、凶暴化していたようだ。強敵に反撃しようと猛り狂っていたところに、俺がのこのこと現れたわけか。


 あのまま気を失っていれば、気付かれもしなかったのかもしれない。まあ、踏み殺されていた可能性も充分にあるが。


 手負いにさせた自分のせいだと詫びられたが、命の恩人なのは間違いない。ありったけの感謝の言葉で応じると、なにやらくすぐったそうな表情になった。


 一方で、銃を使わないのかと訊くと、不思議そうに首を傾げられた。狩人は、槍とトリカブトの毒矢を武器とするのが通常らしい。


 日本語で会話が成立しているので、場所だけ移動したのかと思ったのだが、少女が一人で狩人をしている上に、和風の質素な服に毛皮の上衣という風体からも、現代日本のどこかだとは考えづらい。


 和風の異世界か、あるいは文明崩壊後の未来世界だったりするのだろうか。


 自分がどこから来たかわからず、お金も持っていないので、一緒に連れて行ってくれないかと頼んでみると、真顔での問いが投げられてきた。


「ねえ、護邦もりくには神隠しにでも遭ったの?」


 護邦とは俺の名である。姓は新田なので、隠さずにそう告げている。


「どうやらそうらしい。崖みたいなところにいきなり現れて、滑落してきたんだ」


「それで、そんなにぼろぼろなのか。……あの崖?」


 話しているうちに霧はすっかり晴れていて、のどかな青空が広がっている。その空を遮るように切り立った崖は、なかなかに急峻だった。


「そうなんだ。こうして見ると、信じられないけどな」


 ゲーム大会に向かうために選んだ服装は、ポロシャツにスラックスという簡素な取り合わせで、かなり擦り切れつつあった。ただ、怪我は意外と大したことがない。左足も、無理すれば歩ける程度だった。


「よく生きてたね。それは、あの凶暴化した熊と対峙したのもそうなんだけど。……勝てると思って戦ったの?」


「いや、単なる悪あがきさ。死は覚悟していた」


「惚れ惚れするくらいに見事なあがき方だったよ。とりあえず、近くの村へ行こうか」


「手間を掛けて悪いな」


 俺は、澪の後について歩き出した。




 連れられて訪れた村は、簡素な木造に藁葺き屋根の集落といった風情で、さすがに現代日本ではなさそうだ。


 今は何時代かと問うてみたが、澪は今回も首を傾げるのみだった。感じからすると、江戸時代……、いや、戦国か、あるいはそれより前かもしれない。


 ポケットを探ってみたが、属人端末どころか紙くず一つもなく、まさに無一文状態だった。これはもう、澪という狩人の少女を頼りにするしかない。そう考えると、疑われかねない言動は控えた方がよいだろう。


 この村は、見坂村というそうだ。村から坂が見えるからだろうか。


 彼女は馴染みの村人が多いようで、俺にまで親しみの余波が向けられてくる。身なりは粗末だが、粗野ではない人たちには好感が持てる。


 そのうちの一人、ややひしゃげた顔の農夫が俺の足の怪我に気づいて、湯治を勧めてきた。傷や打ち身によく効く温泉が、隣村……、坂を上がった先の、上坂村の外れにあるらしい。


「そうね。今後どうするにしても、怪我は治しておいた方がいいわ。少し足を引きずっているようだし」


「ああ、助かるよ。……ただ、無一文なんだ。なにか、金を稼ぐ手段はないかな」


「それなら、だいじょうぶよ。あの熊の死骸の在処を伝えたから、あたしとあなたの二人くらい、しばらくもてなしてもらえる。それでおあいこよ」


「あいこってのは、いい言葉だな。でも、澪と村の関係はそうかもしれないけど、俺は……」


「いいの。困ったときは、お互い様よ。あたしは、そうやってこれまで生きてきたから」


「なら、いつか澪を助けられるように、がんばってみるよ」


「うん、期待してる」


 話は終わりとばかりに、彼女は足を早めた。頼りにしてしまっていいのだろうか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る