他には何も、望まないのに
*
翌日は、なぜか妙に灯希の機嫌が悪かった。
朝の授乳を終え、あまねが出勤準備であわただしくし始めたあたりからぐずぐず。
丈ひとりで対応するには心もとなかったが、まさかそんな理由であまねを休ませるわけにもいかず、抱いても揺すっても一向に泣きやまない息子をなんとかなだめつつ、彼女を見送ったときには、ほぼ癇癪状態になってしまった。
オムツ――でもない。昨日はいつもよりさらに寝つきが悪かったから、寝不足で眠い――にしては泣き方が激しい。体は熱くないし、早朝から二度の授乳にも特に変わったところは見られなかったので、具合が悪いわけでもなさそうだ。
よく、生後半年くらいまでは、母体から受け継いだ免疫があるから、感染症にはかかりづらいと聞くし。
いつもは、何か訴えたいことがあるときのみ、控えめに泣く程度だ。日頃いい子なだけに、こういったイレギュラー時の対処法を心得ていない。
大好きなはずの昼寝もしないまま、いつの間にか、腕の中でもう二時間近く泣きっぱなし。
幸い、丈も気は長いほうなので苛立ちはしないが、ここまでくるとさすがにお手上げだし、何より本人の体力が心配だ。
どうしたものかと内心頭を抱えつつ「どちたの? トモくん」「ママがいなくてさびちーの?」なんて言いながら手探りであやしていると、パワフルな泣き声をも掻き消すように、リビングダイニングの固定電話がけたたましく鳴り響いた。
*
「あまねっ……!」
震える声で叫んで病室に入ってきた夫は、顔面蒼白ってこういう状態のことを言うんだろうな、とあらためて思うほど、血の気のない顔をしていた。
あまねは、ベッドからゆっくりと体を起こし、弱々しく微笑む。
「なによ。この世の終わりみたいな顔しちゃ――」
茶化す前に、ぬくもりにつかまえられる。ぎゅっと、痛いくらいに。
弾みで、片手につながれている点滴スタンドが、ことん、と小さく揺れた。
「――ダメだよ、あまね」
必死の訴えは、涙を帯びている。いつかと、立場が逆だ。
「僕より先に死ぬなんて、そんなの絶対許さない……」
続けられた言葉に、相変わらずだな、と苦笑が漏れる。
「もう。みんな大袈裟なんだから。人間、そんな簡単に死なないから大丈夫」
小さく笑って、そうなぐさめるが、
「ほんとごめん。昨日の夜から具合悪そうだなって、気づいてたのに……」
丈は情けない声で鼻をすする。
きっと、灯希が朝からぐずっていたから、そちらに気を取られてしまったのだろう。めったにないことだ。あたふたするのもしかたがない。
「いいって。元をたどれば、自業自得みたいなもんだし」
今朝もしつこく鈍い頭痛がまとわりついていたが、まだ働き始めたばかりだし、これしきのことで休むわけにはいかない。
そう思い、めずらしく機嫌の悪い息子のことが気にかかりつつも、通常通り出勤した。
しかし、いよいよ無理が祟ったらしい。なんだか体がふわふわするなと思いながら仕事をこなしている最中、突然強い吐き気に襲われ、たまらずトイレへ駆け込んで嘔吐した。
吐いても吐いてもまたすぐに気持ち悪くなるから動けなくなり、五分おきくらいにゲーゲーやっているところを、帰ってくるのが遅いからと様子を見にきた同僚が発見。半ばパニックになりながら救急車を手配してくれ、そのまま近くの病院へ搬送された。
診断は、過労による急性胃腸炎。三十八度越えの高熱も出ていたので、吐き気と発熱が落ち着くまでは安静にするようにと言われ、現在に至る。
つわりやお産のときですら吐いたことがなかったのに、とんだ事態になったものだ。丈が動揺するのも無理はない。
「ところで、トモは?」
「兄貴と車の中で待ってる。家で留守番しててもらおうかと思ったんだけど、今日、ただでさえご機嫌ナナメだし、さすがにふたりきりで長時間置いとくのは不安だったから」
まだ生後三ヶ月だというのに、灯希は人見知りが激しく、両親以外の人に抱かれると、ほぼ百パーセント泣く。
女性だとまれに大丈夫なこともあるが、男性は顔を見ただけでアウトな場合がほとんどだ。残念ながら、もれなく純もそのひとりである。
「早く戻らなくて平気? 今頃、大泣き怪獣になってるんじゃない?」
「どうだろ。さっきまでひっきりなしに泣いてたから、疲れ果てて寝ちゃってるかも」
こんな他愛もない会話をしている間も、彼は抱きついたまま離れようとしない。あんまりくっついていると、風邪が移ってしまうかもしれないのに。今朝、バタバタしていてキスする余裕がなくてよかった。
「でも、兄貴とお義父さんに電話入れた後『ママが大変だから一緒に迎えに行くよー』って言ったら、ピタッと泣きやんだんだ。分かってたのかもね、あまねが倒れること」
「まさか、まぁ、子供は敏感だって言うけどね」
笑って返しながら、あぁ――なんだか本当に「普通の夫婦」みたいだな、としんみり思った。
私たちを見て、えらく若い夫婦だと感じることはあっても、その結婚の裏に連続ドラマ並の事情が隠されていようとは、誰も考えつかないだろう。
事実、近頃は丈の体調があまりにもよくて、彼が重病を患っているということを、あまねですら忘れかけるほどだ。
ずっとそうであってほしい。他には何も、望まないのに。
ふたりは時折くすっと笑い声を上げながら、父の登場により、そろって赤面する羽目になるまで、抱き合って話し続けていた。
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