私だけが知っている


 *


 喧騒の中、深緑の板を厚い面でこすると、白、赤、黄、色とりどりの粉がはらはらと舞い落ちる。

 翌日、日直の当番が回ってきたあまねは、授業が終わるたびに、教科担任が黒板に書き残していった文字を消していた。

 本当は、もうひとり相方がいるはずなのだが、誰も動く気配がない。まあ、ひとりのほうが気楽だし、別にいいけれど。

 そんなことを思いつつ、せっせと手を動かしていたら、背後から笑い声が聞こえた。

 振り返ると、教室の隅に見慣れた男子集団を見つける。

 やれやれ、こんな隙間時間ですらたむろしないと気が済まないのか。

 呆れながらも、あまねはその中のひとりに視線をやった。何やら、菊池にちょっかいをかけられて笑っている。昨日、蒼白い顔をしてふらついていたとは、とても思えない。

 以前なら、鬱陶しいとさえ感じていた何気ない光景に、ほっと胸を撫でおろしている自分がいる。あの笑顔は、彼の人生が平穏に保たれている証だ。

 私だけが知っている。

「トイレ」

 そう言って立ち上がった丈を、

「お前、トイレ近くね?」

 菊池が囃し立てる。

 それに誘引されるようにして、

「今度は大かもよ?」

「男のくせして頻尿かよ」

 周りの男子もすかさず乗っかった。

 私だけが知っている。彼が定期的にトイレに立たなければならない理由も、

「ちげーよ。っていうかそれ、性別関係なくない?」

 彼の不良ぶった振る舞いが、いまいち様になっていない理由も。

 彼は「いってら~」「授業遅れんなよ~」という気のない声に見送られ、教室を去っていく。

 いつもの、日常。

 この小さな世界は、何ひとつ変わらないのに、私だけが知ってしまった。


「よっ!」

 後ろから声をかけると、丈はぎょっとした顔でこちらを振り返った。

「びっ……くりしたぁ、あまねか」

 心臓に悪いからやめてよ、と苦笑する彼に、意地悪な笑みを返す。背後でバスが走り去る音がした。

「ほんとにここだったんだ」

「そりゃそうでしょ。嘘ついてどうするの」

「だって、今まで見かけた覚えがなかったから……」

「それは、君が周りに無頓着すぎるだけなんじゃない?」

 図星を指されて閉口すると、「いっつもつまんなそうに外見てるもんねぇ」とからかうように重ねられる。昨日の仕返しのつもりだろうか。

「……大丈夫なんでしょうね?」

 悔しさにねめつけながら問えば、彼は一瞬小首をかしげたが、すぐに悟ったらしく「あぁ、もうすっかり」と二、三度飛び跳ねてみせた。

「昨日の今日なのに?」

「その日のコンディションの問題だよ。昨日はたまたま悪かっただけ」

 ほんとかよ、と小声で吐き捨てると「もう、心配性だなぁ」と笑ってはぐらかされてしまう。

「なんかあったら正直に言いなさいよね。お兄さんにも『丈のこと、よろしくお願いします』って頼まれちゃったし」

 瞬間、おどけた笑みに苦々しさが加わった。なんでまた……とでも言いたげだ。

「しょうがないじゃない。知ってるの、私だけなんだもん」

 わざと拗ねたように膨れてやると、彼は決まり悪そうに頭の後ろを掻く。それが昨日の純と重なり、兄弟そろって癖が同じなんだなと思った。

「――ねぇ」

 無意識に、口を開いていた。

 丈は「ん、なに?」と不思議そうにこちらを見やる。

「菊池くんたちにも、言わないの? その……病気のこと」

 何を言っているんだろう。訊く間でもない。彼は嫌がるに決まっているのに。

 少しでも多く、支えてくれる仲間がいたほうが――いや違う。そんなのは偽善だ。建前だ。

 私は、自分が楽になりたいのだ。

 おせっかいで知ってしまった秘密が、ともに背負うことになってしまったものが、想像以上に大きかったから。誰かと分かち合いたいのだ。

 この期に及んで自分のことばかり。当事者でもないくせに、なんて浅ましい。

 俯き加減で、彼が「ごめん」と呟いた気がした。

 謝ってほしいわけじゃない。じゃあ、どうしてほしいのか。答えを探すうちに、彼が顔を上げる。まっすぐに、見つめられる。

「でも、言わない。絶対」

 怒るでも、困惑するでもなく、きっぱりと言い放った姿は、いっそ美しかった。

 初秋の風が吹き抜けて、彼の亜麻色の髪を乱し、片目を覆い隠す。

 保健室で見たのと、同じ瞳。落胆や諦めを通り越して、強く揺らがない意思と覚悟が宿った、それでいて闇を感じる瞳。

 この眼差しに、いつもおののいてしまう。

「知ってるかもしれないけど、僕、中学まで超根暗だったんだよね」

 彼の口から「俺」ではなく「僕」という単語がするりと出てきたことに少々驚いたが、何も言わず話の続きを待った。

「もともと人付き合いとか苦手だったし、あの日から、何もかもどうでもよくなっちゃって」

 刹那、昨日の純の言葉や表情が脳裏をよぎり、また苦しくなる。

 丈の声を拒むように、つめたい夕風が耳を撫でた。

「ほんと、ロボットみたいに、なんの感情もなく、ただ過ごして。寂しくないって言ったら嘘になるけど、別にそれでもいいやって、思ってた」

 ゆっくりと、噛みしめるように話していた彼は「けど、兄貴がさ……」と切なげに眉根を寄せる。

「泣いてたんだよ。トイレにこもって、毎日のように。『大きいほうしてた』なんてへったくそな嘘ついて」

 ――やっぱり、バレてましたよ。純さん。

 心の隅で囁いた。

「そのときにさ、思ったんだよね。あぁ、唯一の家族には笑っててほしいなって。麻痺したと思ってた僕の心にも、こんな感情、残ってたんだなって」

 丈のその言葉が種火になって、苦しさの中にほんのりとしたあたたかみが灯る。

「いっそ中卒で働きたいくらいだったけど、許してもらえるとも思えなかったし、どうすれば力になれるか分かんなくて、結局勉強ばっかりしてた。ちょっとでもいい高校、行けるように」

 ――すごい。

「無駄なお金はかけたくないから、ちゃんと公立でね」

 ――すごい、すごい。全部分かっちゃうんだ。

 陳腐だけど素直な感動が、罪悪感と拒絶で凝り固まった心をほぐしていく。

「まぁ、そのせいで僕のぼっちは深刻化したし、陰でガリジョーなんて呼ばれたりもしたんだけどね」

 昔を思い出したのか、呆れたようにぎこちなく笑う丈。

 お互いを思いやりましょう、なんて簡単に言うけれど、そんな常套句じょうとうくの本質は、この兄弟みたいな関係を指すのではないだろうか。

 言葉にしないところまでも理解し合い、寄り添い合う。

 なんだかすごく、羨ましい。

「高校入ってからは、また別の意味で必死だった。同じ中学だったやつはいなかったし、ガリ勉根暗キャラを払拭するには今しかないと思って」

 集団の中でひそひそと後ろ指を指されながら生活するのは、たとえ関心を持たずに受け流す術を身につけていようとも、けっして気持ちのいいものではない。あまねもよく知っている。

「入学式の後、がやがやじゃれ合ってるわんぱくそうなやつらに声かけて、何人かと連絡先交換して、つるむようになった。それが章たち」

 さらりと言ってのけるけれど、丈はそのとき、どれほどの勇気を振り絞ったのだろう。

 自分を変えるために、正反対の色の輪の中に飛び込んでいったのだ。

 苦痛というわけではないのだろうが、真実を知ってしまった今となっては、あのグループの中にいるときの彼は、いつもどこか気張っているように見える。

 だからさ、と彼は遠くの空を見つめ、手を伸ばした。

 あまねも一緒になって見上げる。

 橙を受け入れ始めた秋の空は、すっと澄み渡り、他の季節よりも高く感じる。つい手を伸ばしたくなるような、壮大さと清涼感に満ちている。

「章たちが好きなのは、めちゃめちゃ頑張って作り上げた、偽物の僕なんだよ」

 そう言って、静かに手をおろすと、

「じゃあ、こっちだから」

 丈はまたぎこちない笑みを浮かべ、背を向けて歩きだす。

 薄っぺらで能天気な、ただのお調子者だと思っていた。

 でも、彼が抱えているものは、重い。私なんかより、ずっと、ずっと重かった。

 底抜けに明るい人ほど、その裏に、深く暗い何かを隠し持っているものなのかもしれない。

 遠ざかる背中を見送りながら、そんなことを思った。


 *


 丈はとぼとぼと階段をのぼり、玄関の鍵を開けて中へ入る。

 ただいまは言わない。どうせ誰もいないのだから。

 部活に入っていないせいで、兄が帰ってくるまでまだ二時間近くある。なんだか頭が働かない。夕飯前に少し寝ようか。

 ぼんやりと考えながら靴を脱ぎ、自室へ歩いている途中、

「……んっ」

 軽い吐き気を覚え、胸のあたりをそっと押さえた。

 めずらしいなと思いながら、小走りでトイレに向かう。

 しゃがんで便器に顔を突っ込むと、独特な刺激臭に促されるようにして、喉の奥からねっとりと、思ったより多量の消化不良物が放出された。

 数度えずいて咳き込み、荒くなった呼吸を整えながら立ち上がって、水を流す。

 どうしたのだろう。

 学校にいる間は平気でも、帰宅したとたん、緊張の糸が切れたように体が重くなり、倦怠感に見舞われることはよくあった。が、嘔吐したのは久しぶりだ。

 やはりまだ、本調子ではないのだろうか。

 自分で思ってから、乾いた笑いが漏れる。

「本調子、か……」

 あまねにも、半分だけ嘘をついた。

 日々のコンディションによる問題。

 その認識は間違っていない。ただ、正確に言うならば、コンディションが「良い」日などないのだ。

 あるのは「マシ」か「最悪」のどちらかだけ。入院を余儀なくされたこの春から、ずっと。

 余命宣告なんて大仰なものをされたわけではないけれど、なんとなく分かる。

 自分に残された時間が、もう、そんなに長くはないことくらい。

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