マジ……ですか?


 *


 エアブレーキの間抜けな音で、丈は肩をぴくつかせて飛び起きた。いつの間にか寝ていたようだ。片道十分程度なのにまどろむとは、思った以上に疲れているのかもしれない。

 通路を挟んだ反対側の座席では、あまねが不安げにこちらを見つめている。

 いつもなら、興味なさげに窓の外を眺めているのに。――もちろん、こちらの気も知らないで。

 ひとり勝手にむなしくなりながら立ち上がったとき、軽い頭痛とめまいがしてふらついた。

 すると、あまねはあわてた様子で先に下車する。今日はやけに行動的だ。他でもない自分のためにやってくれているのだと思うと、つい舞い上がりそうになる。

 さらには乗降口の前まで来ると、

「大丈夫?」

 そんな一言とともに、すっと手を差し伸べられ、思わず一瞬停止してしまった。

「あ……うん」

 ――だからっ、勘違いするなって!

 心中で今一度自分を戒めながらぎこちなくうなずき、思いきって片手を重ねる。

 そのまま彼女に誘導されて降り、バスを見送る。当然、触れている手はすぐに離れるものと思ったが……違った。

 ――えっ、えっ?

 戸惑いながら顔を上げると、同じ個所を見つめていたらしい彼女と目が合った。

「くらくらする?」

 その質問には、苦笑しつつも素直に答える。

「まぁ、ちょっとね。頭痛くて」

 さっき感じた鈍い痛みが、まだしつこく残っていた。

 その言葉に、彼女はしばらく考え込むように黙りこくって、

「ま、いっか。誰も見てないし」

 冗談みたいにさらりと、そう言った。

「えっ」

 ついに驚きが漏れてしまう。

 マジ……ですか?

「嫌?」

 ちょっと申し訳なさそうに尋ねられ、丈はちぎれんばかりの勢いで首を左右に振る。

 嫌なわけがない。ただ、心臓が持つかどうかは、また別問題だけれど。

 ――ほんとに、手、つないでる。

 現実とは思えない光景に、しばし呆気に取られていると、

「おーい、なにぼーっとしてんの? 体、そんなにきつい? 家どっち?」

 隣から怪訝そうな声が飛んできて、はっとする。

 そうか。彼女は我が家の場所を知らない。

「あっ、ごめん。大丈夫。……っと、こっち」

 どぎまぎしながら、向かうべき方角を指さす。

 もう、いろんな意味で倒れそうだ。


 *


 志賀兄弟が住んでいるという賃貸マンションは、バスの停留所から笹川家と反対方向に十五分ほど歩いたところにあった。ボロだと自嘲じちょうしていたわりには小綺麗な外観で、築年数も浅そうだ。

「ありがと。ここでいいよ」

 今だと言わんばかりにつないでいた手を離し、立ち去ろうとする丈を、あまねはすかさず引き止める。

「ちょっとちょっと。なんかまた逃げようとしてない?」

 お兄さんにも挨拶しておきたいし、部屋に入るまで見届けないと不安だ。

「してないって」

 いい加減うんざりした様子の彼を押しきって部屋を聞き出し、後について階段を上がると、インターホンを押す。

「鳴らしても誰も出ないよ。兄貴仕事だか――」

 彼が言いかけたとき、中から「はい」と声が聞こえた。ややあってドアが開く。

 出迎えたのは細身の男性。ふたりを認めると、困惑したように目を白黒させていたが、

「あれ? なんで? 仕事は?」

 弟の拍子抜けした声で我に返ったのか、彼はふっと表情筋を緩めて、くだけた笑みを浮かべた。

「言ってなかったっけ? 今日休み」

「えー、聞いてなーい」

 気心知れた兄弟らしい会話をよそに、あまねは目の前の男性をこっそり観察する。

 癖のある黒髪こそ丈とは対照的だが、肌の白さはさすがのもの。

 そして若い。もちろん大人の風格はあるのだけれど、言わば、うちの父のような無骨さはないのだ。

 丈から事前に話を聞いていなければ、あと二、三年で三十路だなんて到底信じられない。伏し目がちな瞳は優しげで人懐こく、ほどよい清潔感を兼ね備えている。

 丈が「かわいい系」なら、お兄さんは「爽やか系」といったところか。多少タイプは違うが、どうやら丈の美形ぶりは血筋らしい。

 きっとお姉さんも美人だったんだろうなぁ、などとぼんやり考えていると、視線を感じたのか、お兄さんがこちらを向いた。

 なんだか後ろめたくなって、控えめに会釈する。

「初めまして。笹川といいます」

 ついでに自己紹介すると「あぁ、どうも」と微笑んで会釈を返してくれた。

「丈の兄の、じゅんです」

 名前を聞いた瞬間、これはまたフルネームにすると某芸能人感が……と思ったが、口には出さない。

 挨拶を終えた純は、今度は丈に目をやり、それからふと、何かひらめいたような顔をした。

「もしかしてこいつ、ダウンしちゃった感じですか……?」

 たった一言で見事に言い当てられ、あまねは思わずくすっと苦笑する。

「正解です。ダウンしてるのに無理して、私に秘密握られて、それでも早退はしたくないって駄々こねちゃった感じです」

 首をすくめて微笑しながら言うと、隣の丈が「ちょっとあまね。余計なこと言わなくていいのぉ」とむくれる。

 純はそんな弟の額にそっと触れ、顔をしかめた。

「まったく……」

 ため息交じりにこぼしたかと思えば、玄関にしゃがみ込み、「ほら」と背中を差し出す。

「いっ、いい! 自分で歩ける!」

 即座に拒否した丈の背中を、

「なに言ってんのよ。ふらふらなの知ってるんだからねっ!」

 また余計なことを、と怒られそうな台詞を投げて、軽く押す。

「おっ……っと」

 そんなに力を入れていないのに、彼は簡単によろめいて、純の背中に倒れ込んだ。まだ立ちくらみがするようだ。

 あまねは、半強制的に兄の背中にのせられた丈の靴を、素早く脱がす。

「うわ、共犯ひどっ!」

 そんな声を尻目に、丈はそのまま持ち上げられ、

「ねぇー、ちっちゃい子じゃないんだからぁー。おろせぇー!」

 それこそ幼児のように喚き散らしながら、玄関を上がってしばらく行ったところにある個室らしき部屋に連れ去られていく。丈の自室だろうか。

「こらこら、暴れるなって」

 純は背中で吠え続ける弟を手慣れた様子でなだめつつ、ともに中へ入っていった。

 丈ときたら、無駄に抵抗するから、今日は連行されてばかりだ。おとなしく従っておけばいいものを。

 純は丈を送り届けた後も、体温計、冷却シート、氷枕、飲み物やらを持って忙しそうに部屋を行き来する。

 手伝いましょうか、と言おうと思ったけれど、何を手伝えばいいか分からず、かといってこのまま帰るのも悪い気がして、あまねは玄関に立ってただその様を眺めていた。

 二、三度往来した後、純はようやく玄関前で足を止める。

「「あの」」

 口を開いたのはふたり同時。

「よかったら、向こうでお茶でも……?」

 そう誘ったのは純だった。

 いつもなら社交辞令と受け取って断るところだが、今日ばかりはそういうわけにもいかない。

 何より、純の瞳が語っている。きっと、考えていることは同じだ。

 だから、あまねも黙ってうなずいた。

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