第2話


 昔から本は好きだった。

 本と言ってもなんでもいいわけじゃない。小説や伝記、小説の中でも冒険小説を好んで読んだ。本の中でも新書のような集約された情報体ではなく、ストーリーのあるものが好きだった。

 最近、僕が読む本のジャンルに冒険記が追加された。

 きっかけは古本屋で見つけた中央アジアに存在する湖に関する調査を行った探検家の記録。黄土色の土と僅かばかりの緑、全く異なる文化を持つ人々との関りや、乗り越えるべき試練、湖の不思議。

 僕はそんなものに魅了され、高校の入学式も上の空だった。そしてほとんど誰とも話さないまま高校生活の初日を終え、当然友だちもできなかった。

 高校生になると給食が出なくなる。校舎の一階には学食があって、温かい食事の他にパンとかも売られているけれど、昼休憩の時間になると学校中のおなかを空かせた生徒諸君が群がるので、正直あまり行きたくない。

 朝にコンビニに寄ってお昼を買っておこうという計画だったけれど、昨夜夜更かしをしてしまったせいか今朝は遅刻ギリギリだった。僕が小走りに教室に走り込むのとチャイムが鳴るのはほとんど同時で、赤ら顔の先生に、セーフ、とにやり笑われてしまった。

 そんなことであったから、当然お昼の用意なんてしていなかった。

 僕は空腹と面倒くささとを天秤にかけて、やや迷って空腹を捨てた。僕だって健康な育ち盛りだから、おなかが減ったらご飯が食べたいし、別に減っていなくても甘いものとか食べたい。

 でも先の探検記を見つけた古本屋で探してきた別の探検記を読むのに夢中だったから、僕には列に並ぶ無駄な時間なんて一秒たりともないのだ。

 そう判断して僕が机の中から革のブックカバーに包まれた本を取り出すのと、授業が終わるのと、隣の子が僕に話しかけてきたのとはほぼ同時だった。

「あ、あの。お昼、一緒にどうかな、なんて」

 本を読みたくて仕方がない僕にとって、それはありがたいけれど大変迷惑な申し出だった。

 僕が正直にその気持ちを顔に出さずにいられたのは、その声がちょっと気おくれして、おどおどと不安そうだったからだった。

 振り向くと彼女は、僕の機嫌を伺うように愛想笑いをしていた。どうしてこんな態度なんだろうと思ったけれど、思い起こせば僕は朝から、ずっと暇を見つければ本を開いていた。集中して読みふけっていたから、もしかしたら彼女の言葉をいくつか無視してしまっていたかもしれない。

 彼女は昨日の入学式で、僕が唯一口を聞いたクラスメイトだった。名前は、えっと……。

「三崎早月です」

 ああ、そうだ。でも三崎さんなのは知ってたよ。今胸元の名札を見たからね。

「僕は原田巴。よろしく」

 名乗られたからにはと挨拶を返すと、三崎さんは笑っているのか怒っているのか困っているのか判別のつかない表情をした。

「憶えてるよ。昨日、聞いたから。もしかして憶えてない……?」

 三崎さんは少し泣きそうな顔をして言った。

 訂正しても良かったのだけど、僕は早く読書に戻りたかったから強いて改めなかった。

 すまない、今の僕は雪に閉ざされた何人も訪れることのできない鎖国の地チベットを目指す旅人。渡った先のインドで思いがけず時間をとってしまった。これ以上遅れることはできないのだ……。なんて。

「えっと。お昼、食べないの?」

 三崎さんは僕が何も言わないのを見て話題を変えた。いや、本題に戻ったというべきか。彼女の机の上には黄色の包みに包まれたお弁当箱がある。

 周囲の子たちも三々五々と集まって、お弁当を開いたり食堂に向かったりしている。机を動かす音、けたたましい話声が少々煩わしい。

「うん。混んでそうだし」

「あ~、確かに。食堂、きっとすごい並んでるよね」

「うん」

「…………」

「…………」

 三崎さんはなにも言うことが見つからなかったみたいでぱくぱくと口を開け示した。水面から餌をねだるコイのようだ。学校の隣にある城址の堀を覗き込むと、ニシキゴイがこんな風にしてやって来る。

 三崎さんは周りに助けを求めるようにして視線を遣った。けれど、どうやら彼女は僕と同じく友だちづくりには失敗したようだ。周囲の子たちはそんな三崎さんをちらっと見るだけで何も言わない。

 たまににやにやと嘲るような視線もある。弓槻さんとか。

 弓槻さんは僕と同じ中学校の出身だった。昔からちょっとガキ大将的なところがあって、中学生の時にも女子グループの中心になって威張っていた。そうしたグループの常で教室内の異物を見下したがるところがあって、中学生の頃、弓槻さんのことを嫌っている子は相当数いた。

 ただ僕は、僕だって彼女らにとってはまつろわぬ者の一人だろうに、不思議と排除する対象から外れていたようだった。

 彼女はたまに誰も見ていない時に僕の許に近寄ってきて、ぽつぽつと話をしたものだ。そういう時の彼女はどこか臆病に見えて、控えめで、大きな声で喋ったり、自分本位の行動で僕を困らせたりすることもなかった。

 僕が喋らなければ自分のことを話して、僕が喋りたい気分の時には話を聞いてくれた。僕の話は他の人にはあまり理解されない趣味の話であることが多かったけれど、理解してくれたかどうかはともかく、何も否定はしなかった。もしかしたらそれが本当の彼女自身なのかもしれないと、僕はなんとなく思っていた。

 ただ、僕にとっては悪い奴じゃなかったとしても、機嫌を損ねると面倒くさい奴であることは確かだろう。弓槻さんに目を付けられるとは運がないなと、僕は初めて三崎さんに興味を持った。

 ただ、積極的にどうにかしてやろうという気にもならない。弓槻さんは他人を徹底的に叩いて追い詰めるタイプじゃないから、放っておいて大丈夫だろう。友だちなんていなくても平気、平気。僕を見てみろ、割と元気にやってる。

 ともあれ、僕だって鬼じゃない。途方に暮れた様子の三崎さんを見ていると少し可哀そうにもなって来る。

 そこで財布を取り出した。ぱっちんと止めるタイプのがま口。そこから三百円だけ取り出して、首を傾げる三崎さんの手のひらに落とした。

「パン買って来て」

「え……」

「それで、一緒にお昼、食べましょう」

「え……はい!」

 三崎さんは困惑した顔をして、けれど決意のこもった目で頷くと、ちょっと待っててくださいと小走りで教室を飛び出した。

 よし、これで僕は食堂で並ぶ時間を読書に充てられるし、彼女は一人でご飯を食べずに済む。

 ウィンウィンだな、と少しいいことをした気分で読書に戻ろうとすると、弓槻さんと同じく同じ中学校出身の北条君が椅子に座ったまま身体をねじって、ちょんちょんと僕の肩を突いていた。

「お前、そりゃねぇよ……」

 見れば弓槻さんもにやにやした顔を引っ込めて僕を見ている。心なしか非難されている気もした。

 どうやら、失敗したかもしれない。


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