39:短期淑女養成計画
ふと目を覚ますと部屋の内部は暗かった。
太陽が昇っていない時刻に目覚めたのは久しぶりのような気がする。
私の朝は大抵、ミアやロゼッタに揺り起こされて始まるのに、今日はルカ様の帰国予定の日だから脳が興奮して眠れなかった。
我ながらどれだけ楽しみなんだと苦笑してしまう。
一週間も離れるのは初めてだったから仕方ない。
胸中で誰ともなしに言い訳しつつ、私は起き上がって窓辺に歩み寄り、二重になっているカーテンをまとめて開けた。
王宮は高い丘の上にあるため、王都の美しい街並みを見下ろすことができる。
あと三十分もすれば空に昇った朝陽がどんな人間にも等しく一日の始まりを告げ、いまはまだ眠る街も活発に動き出すのだろう。
「失礼致します。おはようございます、ステラ様。今日はお早いお目覚めですね」
水瓶から水を汲んで顔を洗っていると、部屋の扉がノックされてロゼッタが姿を現した。
ロゼッタは隣の侍女部屋で寝泊まりしているのだが、私が起きた気配を察知してやってきたらしい。
まだ早朝だというのに彼女は完璧に身支度を整え、すっかり見慣れたお仕着せを着ている。
「おはよう、ロゼッタ。……いつも不思議なのだけれど、あなた一体何時に寝て何時に起きてるの? 私、あなたが寝ているところを見たことがないわ」
「女官はそうあるべきだと思っておりますので。もうお着替えになられますか?」
「ええ。朝食の前に神殿に行くわ。ルカ様たちのご無事をお祈りしたいの」
ルカ様は現在公務のためにラークとシエナを連れてユグレニー公国へ行っている。
あの後ラークとシエナは略式の騎士叙勲を受け、正式にルカ様の守護騎士となった。
「かしこまりました。ではドレスの準備をして参ります」
一礼して、ロゼッタは続きの衣装部屋へと消えた。
優秀な女官がドレスを選んでくれている間に、化粧台の前に座って櫛で髪を梳く。
化粧台の鏡に映る自分の瞼は少しむくんでいる。
細切れな睡眠を繰り返していたせいだ。
気になって指の腹で軽く瞼を揉んでると、ロゼッタがドレスを手に戻ってきた。
慌てて手を下ろし、何もなかったふりをして立ち上がる。
「とりあえずこちらのドレスでいかがでしょうか?」
彼女が掲げたのは金の刺繍が入った茶色の縦じま模様のドレスだ。
「本日は二度お召し物を変えて頂く予定です。ダンスレッスンの前、それと、ダンスレッスンの後。ステラ様におかれましては最高の状態でルカ様とお会いしたいでしょうから、私たちも全力を尽くさせていただきます」
「……よろしくお願いします」
何も言わずとも私の恋心を見抜いている女官に、私は赤面しつつ頷いた。
エレスト神殿は王宮の東側にある。
管理者の宮中神官長に朝の挨拶をしてから、私は女神クラウディア像の前で跪いて祈りを捧げた。
しばらくして部屋に戻り、栄養たっぷりの朝食を摂って一息ついたら今日の担当科目の教師が部屋を訪れ、授業が始まる。
エメルナ皇国の下民だった私はろくに教育を受けていない。
一応読み書きはできる。ただし字は下手で本を読む習慣もなかった。
王子として一通り高等教育を受けていた――いうまでもなくノクス様の手配だ――ルカ様や伯爵家出身のラークや同じく伯爵家出身のシエナと比べると、私は立ち居振る舞いがまるでなっていない。
この広い世の中で、ドレスの裾を踏んづけて階段から転がり落ちそうになる聖女がどこにいるというのか。
皆で『蒼玉の宮』を訪れた後、私はノクス様に相談を持ちかけた。
付け焼刃のマナーと乏しい知識しか持たない状態で公務を始めたルカ様の隣に立つのは不安だ、私のせいでルカ様が恥を掻くのは耐えられない。
そう言うと、ノクス様は私のために最高の教師陣を揃え、一か月に及ぶ『短期淑女養成計画』を立ててくれた。
歩き方、身のこなし、礼儀作法、ダンス、刺繍、音楽、アンベリスの歴史、文化。その他諸々。
私はルカ様の守護をラークたちに任せて『柘榴の宮』にこもり、必死で学び続けている。
「よろしい、歩き方に関しては修正するところがありません。最初はアヒルの物まねでもなさっているのかと絶望しましたが、目覚ましい進歩です」
陽が沈み始めた夕刻。
この日最後の先生であるダーナ伯爵夫人は銀縁の眼鏡をくいっと持ち上げた。
いましがたミアたちがつけた部屋の照明に反射して、きらりと眼鏡が輝く。
「カーテシーも上出来です。百点満点とはいきませんが九十点くらいは差し上げられますので、これにて合格と致しましょう。明日からは本格的にダンスレッスンを始めます。一週間後に王家主催で開かれる舞踏会には当然、ルカ王子もご出席予定ですが、ダンスを完璧に習得するまでステラ様の参加は許しません。幸い、舞踏会という名はついていますが実質はダンスパーティーです。簡単なステップさえ覚えて頂ければ大丈夫ですよ」
「わかりました。頑張ります」
「良いお返事です。それでは本日のレッスンはこれまでと致します。踊り続けてお疲れでしょう。しっかりお休みください」
「はい。ありがとうございました」
退室した夫人を見送ってから、私は寝台に仰向けに寝転がり――たいのを我慢して、よろよろと化粧台の前の椅子に座った。
「疲れたー……」
一時間も踊り続けたせいで足が棒のようだ。
足だけではなく、伸ばし続けた首や背筋、もはや身体中の筋肉が痛い。
ダンスってこんなに体力を消耗するものだったのか。
真面目に踊ったことなんてなかったから知らなかった。
「貴族の人たちの凄さを思い知ったわ……重いドレスを着ていながら、それを全く感じさせず、笑顔で軽やかに踊るなんて。踊るならもっと動きやすい服のほうが良くないかしら? どうしてコルセットで身体を締めあげてまでドレスを着るの? 被虐趣味でもあるの?」
「美とはすなわち忍耐です、ステラ様」
ロゼッタが淡々と言う。
「なるほどお……ごもっともです……」
上体を傾け、ひんやりした化粧台に頬をくっつけていると、壁際でミアと遊んでいたカーバンクルが私の膝の上にぴょんと乗ってきた。
さらに化粧台の上まで飛び上がり、私の顔を覗き込んでキューと鳴く。
どうやら心配してくれているようだ。
このカーバンクルには高い知性があり、人語を理解しているようなそぶりもみせる。
ノクス様のものだったこのカーバンクルはルカ様が譲り受けた。
ルカ様は大喜びで連れ帰り、丸一日悩みに悩んだ末に「フィオリスルーシェ」と名付けた。
私はその言葉が何を意味するのかわからなかったけれど、ラークはすぐに「大層な名前だな」と笑った。
シエナに訊いてみると、「フィオリスルーシェ」とは「最高の幸せ」という意味の古代語らしい。
やはり三人とは知識量が違うなと痛感した出来事だった。
「フィーはいい子ねえ」
私は微笑んでカーバンクルを撫でた。
フィオリスルーシェという名前は長いので、みんなフィーと縮めて呼んでいる。
「うーん、本当に素晴らしい手触り。ルカ様が夢中になるのもわかる。なんて極上のもふもふなの……」
「ハーブティーでも淹れましょうか?」
フィーを撫で回している私を冷静な眼差しで見ながらロゼッタが尋ねてくる。
「ええ、お願い」
陽だまりのような匂いがするフィーを堪能していると、部屋の扉がノックされた。
「ステラ様、よろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
だらしない姿勢から一転、背筋を伸ばして返事をすると、声の主は部屋に入ってくることなく告げた。
「さきほどルカ様たちが王都の港に着いたと連絡が入りました」
「本当に!? ロゼッタ、ごめんなさい! ハーブティーは後で! 先に着替えを手伝ってちょうだい!」
私は勢いよく立ち上がった。
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