第35話 神殿

 菱陽起と琅玕は、宴の続く地下の大伽藍へ戻った。

 なるほど、さすがに人数は減ったが、それでも伽藍のなかではまだ酒や料理に興じている者、酔い潰れてそのへんで雑魚寝をしている者、ひと目もはばからず坤道にしなだれかかろうとしている者など、まだまだ随分賑やかではある。

「こっちだ」

 菱陽起は、あるがんせきのひとつへと琅玕を導いた。

「どうじゃな、お前たち」

 とばりりながら、なかに向かって猫でもでるような声をかける。

「あ、菱先生」

 龕のなかでは、子供のような年頃の若坤道がふたり、不安げな顔を隠しもせず座っていた。

「葎華のやつは、戻ったか」

「いいえ、まだ。…」

 龕のなかは他と変わらぬ広さだが、奥に、神像を描いた綴織つづれおりが一枚かかっている。本来は、上下を釘のようなもので打って岩壁に固定されていたようだが、いまは下の端に打ちつけられていた釘が抜かれてぶら下がっていた。

 若坤道がその下端をめくると、綴織の後ろには、びょうてつわくを打った分厚い扉が一枚。

「ここに入って行ったのか?」

 琅玕に聞かれ、おずおずとうなずく若坤道。扉にはかんぬきがおりていて、いかにも頑丈そうな鉄製の錠前が、いまは芯棒が外れた状態でぶら下がっている。

(ここの鍵はあの銀の鍵ではなさそうだ)

 扉は、分厚いかしかなにかの一枚板だろうか、重々しい造りの割に手前に引けば音もなく開き、その後ろには地下に向けてのびる黒々とした闇。

「この扉の鍵は、どこにあるので?」

「普段は観長室の一角にある、鍵の保管庫のなかだそうだ」

 が、宴の間に、その保管庫からこの扉の鍵のみ、消えているのが先刻確認されたとのこと。

「鍵の勝手な持ち出しは当然ながら厳禁されているが、観長室に出入りの可能な幹部坤道なら、持ち出せぬことはない。葎華のやつは、観長室にはほぼ自由な出入りが許されておる」

 観長の沈氏本人は、今宵こよいは、いささか重要な接待が朝まで続くとやらで、お開きまで席を外すわけにはいかぬらしい。

「とはいえことの次第は既に伝えてある。儂と共どのはこれよりこのなかへ入って、葎華を探して参る」

「お、おふたりとも行かれるのですか」

「お前たちは来んで良いわい、これまで通り、ここで見張って待っておれ」

 露骨に怯える若坤道によくよく言いふくめ、扉の前に彼女たちを残し、角灯を用意させ、琅玕と菱陽起は揃って闇の石段を降りはじめた。





「どうも、上とは、だいぶ違いますな」

 琅玕は先に立ち、角灯をかかげ、慎重に爪先を一段ずつおろしていく。

 上の大伽藍では、ほのおいても問題ないほど換気が行き届いていたが、それにくらべ、いま琅玕と菱陽起のおりていく石段のなかは、地下水だろうか、ときおり天井から水滴すらしたたる湿度の高さ。同じ場所にある地下遺跡、この地下水(?)したたる穴蔵の方が、より下にあるというだけでなぜここまで違うのだろう。

 それでも、角灯の灯が消えたりすることもなければ、ことさら呼吸が苦しくなるようなこともない。異臭のたぐいも漂っては来ず、いまのところ、人間がただ居るぶんに問題はなさそうではある。

「この石階段の広さも、上とはくらべものになりませんな」

 伽藍の方の階段は、坤道に先導される客が何組も行き交っていたが、いま降りている石段はひと一人が上り降りするのが精一杯の狭さで、大柄な琅玕などは天井に頭をこすりそうでつい腰をかがめそうになる。

「それに、ここは岩盤くりぬきではないのだな」

 と、菱陽起。

「ああ、そういえば、石段も左右の壁も、上とは素材が違うようですな」

 上は、伽藍だけでなく、そこへ至るまでの石階段も一部、一枚板の岩盤を掘りぬいたつくりだったが、ここは様々なサイズの立方体に切り出した石を積んで造られているようだ。

 琅玕は石段の途中で立ち止まり、角灯を寄せて壁をよくよく照らし出した。

「はあ、上の岩盤くりぬきも大した技術でしたが、こちらはこちらで中々のものでござるな」

 組み上げられた石材どうしの間には、剃刀かみそり一枚入る隙のない緻密な造り。角灯の灯に照らし出されるのは、丹念に磨きあげたかのような平らで滑らかな、黒にちかい暗灰色の表面。赤茶色の軽石のような、ざらついた感触の石を掘りくり抜いていた上の伽藍とは、全く違う石材を使っているらしい。その上、触れれば思わず氷の壁かと勘違いしたくなるほど冷たい。

「菱先生、お寒くございませぬか」

「ああ済まぬ、ありがたくお借りしよう」

 琅玕が上着を一枚脱いで菱陽起の肩に着せかける。暗いから目にはよく見えぬが、おそらく彼らの吐く息はさぞかし白かろう。上からしたたる水滴が凍らぬのが不思議なほどの寒さである。

 この水気のおかげで、ほこりやチリなどは洗い流されてしまって、足跡などは残りそうもない。寒すぎるせいだろう、カビやこけ、昆虫、小動物のたぐいもいっさい見当たらず、あたりは実に無機質で、不潔さがないのはありがたいが、およそ、自分たち以外に生きとし生けるものの気配が全く感じられぬ。

 上の大伽藍は、なにしろ定期的に多くの客を入れるところであるから、こまめに掃除をしているに決まっているし、手入れをされているのは当然であるが、この穴蔵は、前後の事情を総合すると、数刻まえに王葎華がここを降りていった(と思われる)のと、いま琅玕たちがいるのを除けば、もう数十年間ひとの出入りがなかった場所のはずなのだ。

(普通は、そういう場所というのは、もっと小汚さや、もののちた跡があるものなのだが)

 …琅玕は以前、一軍を率いて南方へ赴いた際、密林のさなかに放棄された遺跡群を見たことがある。

 えたいの知れぬ巨大な建造物の柱や壁、彫刻の幻獣、奇怪な格好の人物像などが半壊状態のまま、植物のつるや根がからみつき、あちこちヒビが入って穴が空き、彫刻は腕や首などが取れ、隙間すきまから雑草を生やし、動植物のすみになり、天井が崩れて空いた穴から陽射しがさしこんでいたりした。

 そういう、いわゆる経年劣化の形跡が、ここには微塵も感じられぬ。

 もとは生者の暮らしのあらばこそ、かれらが姿を消したのちに死の気配の漂うものだが、ここにはかつて命あるものが居た様子からして無く、いまはそういう死の気配すら名残もない。あるのはただひたすら、時間が止まったような虚無のみ。いつごろ誰がなんのために造ったものか知らないが、建造当初からこうだったのだろうか。

 琅玕は、そんなことを熱心かつ一方的に語りながら、

「可能なものなら専門の者を派遣して、こころゆくまで調査研究させてみたいものですが」

「…まあ後日観長にでも交渉してみるが良かろう」

 などと長広舌ちょうこうぜつを菱陽起に呆れられた。

 やがて石階段が終了し、少し広い平らな場所にたどり着いた。

 角灯ふたつの灯りだけでは、空間のすべてを照らしだすには光量が全く足りないが、それでも、なにやら天井の高い、広間のようになった場であることはどうにかわかる。

 その、暗闇のなかで、なにかがキラリときらめいた。

「ん?」

 どうも金具のようなものが、角灯の乏しい灯を反射して光ったらしい。足元すらおぼつかぬ中、慎重に歩を進めると、やがてなにやら、荷物とも何ともつかぬ妙なものに蹴躓つまずいた。

「…これは、人ではないのか」

 あわててその場にかがみ込むと、それは間違いなく衣服をまとった人体である様子。先刻光ったのは、腰に下げた佩玉はいぎょくの飾り金具の光だったらしい。というか、その佩玉も、人体の纏うほうも、よくよく見れば見覚えがある。 

「し、紫翠⁈」

 あわてて抱き起こしてみれば、まげこそほどけておどろ髪になっているものの、たよりなげな角灯の光に浮かびあがる顔、その大半を占める赤黒い爛痕らんこん、わずかに残った秀麗な美貌は、まちがいなく琅玕じぶんの番に違いなかった。

 (なぜこのようなところに)

 一体なにがあったのかはわからねど、紫翠は、さいわいなことにただ気絶をしているだけのようだった。外傷もなく、脈もはっきりしている。もっともこんな暗いところでは詳しい容態はわからない。一刻も早く明るいところで診察を、と思ったが、そのとき少し離れた場所で今度は菱陽起の声が聞こえた。

「来てくれ共どの、こちらには葎華のやつまでおるぞ」

 あわてて角灯をかざすと、広場の奥のどん詰まりのあたりに老乾道が身をかがめているようだった。しかたがないのでその場にもう一度、そっと紫翠を寝かせ、菱陽起のところへ向かうと、その膝元に横臥おうがしているのは、なるほどこちらも見覚えのある華美な装束の古株坤道。やはり、意識を失っているようだ。

 こちらも脈は正常、外傷なし。顔を上に向け、角灯を近づけると、なるほど王葎華であった。口元と、装束の胸元が若干汚れており、そこから漂う独特の鼻をつく匂い。どうも、気絶する前に激しく嘔吐した模様。

「葎華、葎華、いかがいたした、しっかりせい」

「菱先生、あまり御母堂の身体を揺すってはなりませぬ」

 琅玕は、角灯で床を丹念に照らしてみた。すくなくとも、倒れていた王葎華の周辺には、彼女が吐いたと思われる吐瀉物らしきものが散乱している様子はない。

「どこか別の場所で嘔吐した後、ここへ移動してきたのか…」

「き、共どの、共どの」

 背後で、王葎華を介抱していたはずの老乾道が、うわずった声をあげた。

「何です菱先生、一体どうなさったというのです」

 振り向くと、菱陽起は膝の上に王葎華の頭を乗せたまま、なにやら、あわてた様子で角灯をごそごそといじっている。予備の蝋燭ろうそくを何本も出し、そのすべてに火をつけ、角灯の火屋ほやの中に蝋涙ろうるいを垂らしては立て、無理矢理に全ての蝋燭を火屋内に入れた。

 蝋燭をたくさん灯せば、それはそのぶん明るくはなる。老乾道は、とにかく可能な限りの光源を確保したいらしい。

「なんぞ妙なものでも発見いたしましたか」

「おお、まさしく発見したわい、見るが良い」

「?」

 菱陽起は、蝋燭を増やした自分の角灯を琅玕に持たせ、

「周囲の壁を照らして、よう見よ」

「壁?」      

 言われた通り、角灯を持った腕を高く掲げて目前の壁に近寄り―――

「…これは」

 角灯の光に浮かびあがる華麗な凹凸。

 あたり一面、壁という壁が、おっそろしく精巧な浮彫うきぼ彫刻ちょうこくで埋め尽くされていた。

 

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