第10話 侵入者

 琅玕と紫翠は、その日はそのまま、ともに別邸へ戻った。

 いざ別邸へ帰り着いた頃には、もう日付も変わろうかという時刻になっていた。気付かぬうちにだいぶん長い間、語り合っていたらしい。その上、夕食をすっぽかしたものだから、ふたりは女中頭にこってり絞られた。それでようやく、いまだになにも食べていないことを思い出し、琅玕が、簡単なもので良いからあらためて夜食をつくるよう命じて、今度は呆れられた。

 その、夜食が出来上がるまでの間、紫翠はいちど自室へと引っ込んだが、着替えているところをなぜか早々に琅玕に呼び出された。

「ああ紫翠、疲れているところをすまん、ちと聞きたいことがある」

 琅玕は、今日これで何度目かもはや分からぬが、実に妙なことを言い出した。

「この書斎から、なにか失くなっているものはないか調べてくれ」

 自分ではわからん、と渋づらをした。

 …外出する前、琅玕と紫翠が(というか、主に紫翠ひとりが)解剖所見の紙束や書籍や、とっ散らかった各種らくと格闘していた書斎である。

 なのでいまは、手をつける前にくらべれば、多少なりとも片付いている。ただし途中で外出したので、それでも綺麗とは言いがたい。

 一見、外出前と今とをくらべて、ことさらにあたりを荒らされたり、物を移動させたりしたような変化があるようには見えないのだが、琅玕が強硬に言い張っていわく、

「俺たちの留守中に、誰ぞが無断で侵入した。とにかくそれだけは間違いない」

「もしかして、閣下がこのお部屋の各所にほどこしておいでだった仕掛け、あれに何か異常が?」

「なんだ、気づいておったのか」

「それはまあ、新米とはいえ刑部ぎょうぶの役人の端くれでございますゆえ」

 紫翠は、あわただしくばたばたとそのへんを確認し、

 「書斎の扉の上の方に張られていた長い人毛、それが、切れてこのように垂れ下がっておりますゆえ、閣下の仰る通り、何者かが出入りしたことは間違いございますまい」

 扉と、壁の端に、人間の髪の毛を一本、両端を結びつけられて張られていた。この状態で扉を開け閉めすれば当然、髪の毛は引っ張られて切れる。とはいえなにしろ人毛一本、そんな仕掛けがあることを知らぬ者が出入りをしたとて気づくまい。

 「ほかには、これとこちらの行李こうり、これを包んだ風呂敷の結び目に、糸くずが挟んでございましたが、その糸くずがなくなっておりました。それと、戸棚の引き戸、抽斗ひきだしの取手など、ものを仕舞うところの各所に小麦粉らしき白い粉が薄く塗りつけてありますな。だれかが触れば指の跡がつく。いまのところ、跡が残されておったのがこことここ、ただし中からなにかを持ち去ったかどうかはわかりませぬ」

 「ふむ」

 琅玕は、このようにひとつひとつは決して大袈裟ではないが、それでいて有効性の高い防犯対策を、書斎の各所に仕掛けていたのだった。

「しかし、こういう仕掛けをいちいち出入りのたびに確認したり、施し直しをしたりしておれば、さぞかし面倒なはず。日常生活はずぼらで鳴らす閣下にしては、存外ずいぶんとまめなことをなさいますな」

「必要に駆られてのことだ」

 揶揄からかわれて琅玕は腹も立てず、というか無関心な様子で踵を返した。

 そして何を思ったか、いつも陣取っている書き物机のそで抽斗ひきだしの前に、のっそりとしゃがみこむ。

 そして一番下の抽斗をそのまま、丸ごと引き抜いた。

「閣下?」

 抽斗本体はそのままそのへんに置くと、なにやらふところをごそごそ探り、小さな鍵を取り出した。

 そして、先刻までその抽斗がおさまっていた空間に、鍵を持った腕をつっこむ。

「そんなところに突っ立っとらんで、こっちに来てよく見ろ」

 どうも、抽斗の地板の奥の奥、どん詰まりの少し手前のあたりに、鍵穴があるらしい。

 琅玕がその鍵穴に鍵をさしこみ、回して持ち上げると、地板がそのまま全部、すっぽり外れた。

 最下段であるから、普通はその下は台輪(土台)のみのはずなのだが、琅玕はそこから何やら、書類の束のようなものを引っ張り出した。

「…隠し収納でございますか」

「まさか机を丸ごとかついで盗んでいく馬鹿はおるまいからな」

「はあ、それはそうでしょうが」

 それは、紙に穴を開けて紐でじ、厚紙の表紙をつけただけの、実に簡素で粗末な書物(?)であった。

「これはな、この邸に飾ってある解剖模型人形、あれの製作過程を克明に記録した資料だ」

「は?はあ、そうですか」

「俺が、この書斎のなかで、余人に勝手に持って行かれたくないものの筆頭と言えば、やはりこれだ」

 聞けば、この別邸に所狭しと飾られた薄気味悪い解剖模型、これらは、ただ琅玕が自作したというだけではないらしい。

 「材料、製法、その手順、ほんものの遺体から摘出てきしゅつした臓器を石膏せっこうで型取りする方法、模型の土台になにを使うか、どの臓器にどんな塗料を使えば本物に近い色合いが出せるか、場合によっては本物以上に本物らしさを出すテクニック、その他諸々の技術を、完全にゼロの状態から、全て俺ひとりで独自に工夫に工夫を重ねて考案したものなのだ」

 琅玕に言わせれば、可能なものなら、

 ―――解剖した遺体を、そのまま保存しておきたいくらいだ。

 しかし現状ではせいぜい、臓器を薬漬けにしておける程度、遺体を丸ごと保存は出来ぬゆえ、代わりに模型を作ることを思いついた、のだそうな。

 「その模型の作成の手順や過程、失敗例やその原因にいたるまで、あらゆることを書き記し、技術のすべてをまとめたものがこの冊子だ」

―――これを、おいそれととどきものの手には渡せぬ。

 ひとえにその思いがあればこそ、琅玕はこの書斎に、髪の毛を張るだの糸くずを挟むだの、防犯対策の小細工をほどこそうなどと考えるに至った、とやら。

「ですが閣下、その、模型の…製作記録、でございますか、それはその、そこまで大切なものなのですか?」

 紫翠は、まだそのへんがあまりピンと来ていない。

 が、琅玕は、

「そうさな、もしこれをどこぞの馬鹿者にでも持っていかれた日には、俺は、世をはかなんで首のひとつも括りたくなるだろうな」

 と、実に彼らしくない、妙にしおらしいことを言ってのけた。

「俺自身、模型を制作する手順を、全て暗記しているわけではないからな。書き残した記録を作業中に再確認せねばならぬことはしょっちゅうある」

 だから、記録が手元になければ単純に困るし、

「それだけではない、そのへんのほう安易あんいに真似をされて、粗悪なまがい物など作られて、それが世間に流通でもした日には。…」

「ま、紛い物?」

 こんな不気味なものの紛い物など作るものがいるわけがない、と思ったが、

 「あいにくだが、需要は結構あるのだぞ」

 驚いた話で、琅玕制作の解剖模型人形は、なんと全国各地に散在する医学塾から教材として引っ張りだこ、彼のところには結構な高値で発注が相次いでいるのだそうな。

「偽物商売などしたがるやからは皆、オリジナルの創始者の名をかたる。それが常套手段だからな。俺の名を勝手に使われて、下手糞なものを売られたりしたら、経済的な損失も当然だが、俺の、職人としての名誉にかかわる」

 「はあ、職人でございますか」

 このころ、手を動かして物を作る職人の社会的地位は決して高くない。仮にも一国の軍事をあずかる高官が、よくぞ職人風情を自称する気になるものだが、当人は例によって、そんな常識論はどうでも良いらしい。

「仮に、この邸に盗賊の類が入ったとして、応接室に陳列された解剖模型の本体を持って行かれたとしても、そっちはそれほど痛手ではないのだ」

「それはまた、なぜです」

「模型の現物を手に入れたところで、たたきこわして分解しようが薄切りにしようが、どれほどいじくりまわそうが、おなじものを再現するのは至難のわざだからな」

 素材の蝋の溶ける温度、固まるスピードひとつとっても、混ぜ物の有無やその種類、土地柄から季節に至るまで、条件が変われば全てが変わる。

 「完成品からは、そういう細かい情報は、そうそう読み取れぬものだ」

 勿論、手間ひまかけて作った模型をただで持って行かれたとしたら、それはそれでおおいに腹は立つ。が、まだしもそちらの方が、製作記録の方を持っていかれるよりは「よほどまし」らしい。 

「たとえばだ、名店の料理を食っているだけの人間には、おなじ料理を作れはせぬだろう。しかし料理長が指南書でも書けば話は別だ、レシピがあれば完璧でなくとも似た料理を作れぬことはあるまい、それと同じだ」

「な、なるほど」

 説得力のあるたとえである。

 この書斎内には、いわゆる金目のものや貴重品といえるものは置いてはいない。

「持っていかれて困るのは、この冊子ぐらいのものだ」

 つまり現状では、被害ゼロにひとしいのだが、

「しかしそれは、俺の主観を基準にするからだ。こちらは持って行かれたことにすら気づかぬような、ごみも同然のなにかを狙った誰かが、すでに首尾を果たしたあとかもわからぬし、そうでないかも知れぬ」

 どちらにしろ、侵入されておいて無視をするわけにはいかないが、しかしいまの時点では、これ以上どう頭をひねっても、現実になにがなくなっているのかいないのか、入った者が一体だれなのか、これ以上はわからない。

「しかたがないな、わかった。帰宅早々にすまなかったな」

 下がってゆっくり休んでくれ、夜食が出来たら呼びにやる。と琅玕。

 それまで琅玕は、なにやら考えることがあるとやら。言いたいことを言うだけ言ってしまうと、無言で椅子をひきよせ、尻を落ち着けるや石像と化す。

 紫翠は、そっと書斎を出た。

 

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