第20話 生かされることをやめた日

 出版社の中には相変わらず、電話の音と喧騒が響き渡っていたが、それらがかすんでしまうほど大きな声で担当編集者・田中は叫んだ。


「ま、待ってくれよ。本気なのかい、一樹君!?」


 立ち上がり、座ったままの一樹に困惑した眼差しを向ける。一方、一樹はどっしりと椅子に構えたまま、ただ一度だけ首を縦に振った。


「はい。色々と考えましたけど、決断を曲げる気はありません」

「だからって、急すぎるだろう!? そんな、いきなり言われても困るよ!!」


 あくまで田中の言葉の中に、一樹を心配するような言葉は浮かんではこない。彼は徹頭徹尾てっとうてつび、自分達の“利”のことしか考えていないのだろう。

 最後の最後まで、ある意味で一貫した大人の姿に、一樹は心の中で苦笑してしまう。


「ある程度、きりの良い所までは書きますよ。それ以上は、申し訳ありませんが、別の方にでも依頼してください」

「あのねぇ、そういうことじゃあないんだよ! 『ラブ&ゴースト』は、もうドラマも走り出してるんだ。こんなタイミングで“連載打ち切り”なんて、できるわけないだろう!」

「ですから、続きは別の誰かでお願いします。俺くらいの“物書き”は、いくらでもいますでしょうしね」


 あえてわざとらしく自身を卑下ひげすることで、先制攻撃を仕掛ける一樹。効果は絶大だったようで、田中は「ぐうう」と唸り、顔を赤くしている。

 なんだかそのわめき散らす姿が随分とちっぽけで、みすぼらしかった。


 一樹は“宿木やどりぎ出版”に、“代筆”の打ち合わせをしに来たのではない。はっきりと、彼らに自身の意志を伝えに来たのだ。


 現在書いている分で、「ラブ&ゴースト」の執筆を辞める――ということを。


 無論、すんなりと許されるとなんて思ってはいない。“宿木出版”にとって、あの作品はいわば“生命線”とも言える大ヒット作だ。田中が言うように、ドラマ化が順調である以上、“はい、そうですか”と手放すわけもないだろう。


 その程度は一樹も先読みできていたからこそ、喚き散らす田中の姿にも、まるで心は動かない。改めて今まで、なぜこんな大人にへこへこしていたのかと、むしろ自身のふがいなさを恥じてしまう。


 それからも二人の水掛け論はしばらく続いた。あれやこれやと理由をつけて一樹を引き止める田中に対し、一貫して意志を曲げない一樹。

 なにより連載を中止するとなった場合、田中達からすればあの大女優・黒住くろずみに対しての顔が立たないのだろう。


「『ラブ&ゴースト』を待ってる読者は、たくさんいるんだ! その沢山のファンを裏切るっていうのかい?」

「ならなおさら、もっと“書ける人”に任せるべきですね。こんなやる気のなくなった人間が書いたんじゃあ、それこそ読者の方々に申し訳ないでしょうし」

「君ねぇ、身勝手がすぎるだろう! それに、もし辞めたとして、こんなことしてタダで済むと思うのかい? 今後、“物書き”として、やっていけると思うのか!?」


 語気だけでなく、ついに言葉遣いまでも変貌する田中。ついに彼の化けの皮が剥がれ、その下に潜んでいた私利私欲の“魔物”が、姿を現す。

 無論、大声をあげられて、多少は一樹もひるんでしまう。

 だがそれでも一樹は、乾いたため息をつくことしかできなかった。


 大声と、恫喝どうかつと、脅し――どれもこれも、いかにも“三流”が好みそうな、実に稚拙ちせつな技の数々だ。

 なにより目の前の“魔物”の取っ手つけたようなそのとげとげしさが、今の一樹には滑稽こっけいでならない。


 一樹は知っているのだ――“本物”の大きさと、強さを。


 目の前の田中は決して、“怪物”にもかなわず、ましてや“幽霊”や“悪霊”にすら劣る、ただの“人間”でしかない。


 勢いづいた田中に対し、一樹はすくと立ち上がって見せる。狼狽うろたえる彼に構わず、鞄を肩から担ぎなおし、頭を下げる。


「色々とお世話になりました。ありがとうございました」

「お、おい……ちょっと――」

「おっしゃるとおりですね。きっとこれから、“物書き”として大変なんでしょう。ただそれでも地道に、泥臭くやっていきますよ。なにせこれからも――“生きて”いかなきゃあ、ならないんで」


 それだけを告げ、にっこりと笑い一樹は歩き出す。青年から伝わる気迫に圧倒されたのか、田中は手を伸ばすだけで、引き止めることすらできない。

 応接間の扉を開き、喧しい編集部を横切る。どうやら二人の言い合いは外にまで聞こえていたようで、近くのデスクの社員達が恐る恐る、一樹を見ていた。

 

 烏合うごうの衆の視線を振り払い歩く一樹の前に、あの怪異――相変わらず編集部に居座る“幽霊”の姿が見えた。

 一瞬、その姿にたじろぎそうになるが、一樹は堂々とその脇を通過する。

 こちらを驚くように見る“幽霊”の姿に苦笑しつつ、一樹は「じゃあね」と、誰にも見えない存在に別れを告げた。


 全員の視線を背に受け、振り返ることなくドアを開けて出ていく一樹。いつもは喧しくて仕方ない室内を、久々の“静寂”が包んでいた。




 ***




 出版社を後にし、木枯らしの中を颯爽さっそうと進む。いまだに体の中に熱はたぎっているが、それでもなんだか悪い気はしない。

 短い階段を下りていると、広い煉瓦れんが道の前で待っている、馴染みの顔を発見した。


「お待たせ、奈緒」

「あ、一樹君。どう、どう、どうだった!?」


 高めのテンションで問いかけてくる奈緒に、一樹は無言で微笑み、両手を軽く上げて答える。その表情と余裕のあるジェスチャーから、奈緒も結果を察してくれた。


「そっかぁ。良かった、てっきりなにか、もめてるのかなって」

「いやぁ、あっさりしたもんだよ。奈緒が言ってくれたように、辞めるって言いきっちまえば、どうにでもなった。案外、もっと早くこうしてるべきだったかもな」

「乱暴とかされなかった? なんか、こう、固いバールのようなもの、持ち出されたりとか」


 ――どこの殺人事件だ、それは。


 心の中で突っ込みながらも、苦笑して返す。


「ないない。大体そんなことすりゃ、本格的な“傷害事件”だ。どれだけもみ消そうが、出版社にだって限界があるだろう。まぁ、色々と脅されはしたがな」

「へええ。まったく、汚い大人の群れだね! あんな嫌な女と組むだけあるよ。腹立つなぁ!」


 いわずもがな、“嫌な女”とは大女優・黒住くろずみのことだ。奈緒は遠くに見える出版社の社屋に向かって「べええ」と舌を出す。


「いい気味だよ、まったく。揃いも揃って、舐めるなっての!」

「お、落ち着けって。全部終わったんだから、もういいさ」

「大人だなぁ、一樹君は。もっと徹底的に怒っておいた方が良いよ、こういうのは。ボイスレコーダーとかで録音しておくべきだったかなぁ」


 悔しがる奈緒に「やめとけって」と苦笑いが止まらない。勢いこそ強すぎるが、それでも自分のことを親身になって怒ってくれる存在に、胸の奥が暖かくなる。


 一樹はため息をつき、少しだけ出版社を見つめた。


「これで、俺の“ゴーストライター”としての仕事は終わりだ。ここからは正真正銘、“兵藤一樹ひょうどうかずき”として、一からやり直しだよ」

「本当に良かったねぇ、一樹君! やっと一樹君がやってきたことが、きちんと認められたんだね」

「まぁ、それも本当、ここからの頑張り次第だけどね。けどまぁ、何から何まで突拍子とっぴょうしもなさ過ぎて、思考が追い付かないよ」


 初めてこの出版社を訪れた時、はたして季節はいつだっただろうか。もはやそんなことすら一樹は忘れ、長い時を“幽霊”として生きていたように思う。

 木枯らしに身をさらす中、一樹はそれでも身を指す冷たさに、どこか心地良さを感じている。


 この場に立つ自分が、“代筆者”から“作家”に――“幽霊”から“人間”に戻れた証拠なのだろうか。


 一樹は視線を奈緒に戻し、微かに笑う。


「でも俺――後悔はしてないよ。この場所に来なかったら、きっと“今”もないんだと思う。あの時の悔しさがあったから、こうして逃げずに、それでも“書く”ことを捨てなかった。少なくとも、それだけは褒めてやりたいと思うんだ」


 一樹の独白に一瞬、奈緒は驚いたようだった。だがすぐに笑顔を取り戻し、彼女も大きく頷いてくれる。


「一樹君、変わったね。なんだかこう――強くなったって気がするよ」

「買いかぶりすぎだよ。ほんの少しだけ傷付いて、“かさぶた”が増えただけさ」

「それでいいんだよ、それで! きっとそれだって、“生きてる”から、できることなんだからさ」


 無邪気に笑う奈緒に、一樹は「そうだな」と呼応し、二人して歩き出す。

 木枯こがらしが吹きつけるが、やはり運ばれてくる冷たさは、かつてのそれとは異なる色をしていた。


 ひゅうう、という冬の到来を感じさせる音色に、それぞれの歩幅で続く、二つの足音が混ざり、離れていく。

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