第4話 初めての“読者”

 網戸の外から吹き込んだ風は、どこか肌寒かった。春とはいえ、まだまだ冬の寒さはしつこく居座り、不意をついてくるので油断はできない。


 一樹は窓をぴしゃりと閉め、立ったついでに思いきり伸びをした。腰に蓄積されたダメージはこの程度では緩和できないが、楽になった気になるだけでも儲けものだ。

 身体をほぐし、再び座椅子へと腰かけ、ノートパソコンへと向き合った。


 キーボードを叩くも、またもやバックスペースで文字を消去する。思えば先程から、ずっとこの段落を行ったり来たりしていた。

 どうにも収まりが悪い。大まかなプロットを作り上げたはずなのに、細部の表現方法がしっくりこず、随分と停滞してしまっている。


 バイトもない平日を利用し、一樹は朝から部屋にこもり、「ラブ&ゴースト」の原稿をしたためていた。六畳一間の安アパートは、布団と座椅子、低い机を詰め込んだだけでもぎゅうぎゅうだ。

 その密な空間の中で、一樹はひたすら“文字”の群れと格闘し続けている。

 走り出しこそ好調だったものの、一旦悩み始めると、アリジゴクのようにずるずると引きずり込まれ、抜け出すことができない。


 表現がしっくりこない、というのはもちろんなのだが、そもそも「ラブ&ゴースト」という作品を書くことに、気乗りしないというのが一樹の本音だった。

 かりにも“仕事”として請け負っている以上、納期を守るのはもちろんなのだが、“納得していないもの”を作るという工程は、想像以上にストレスを感じるものだ。


 自然と、別フォルダに格納している自身の作品――いまだに“名無し”の一作を開こうとするが、その逃げようとする気持ちを必死に律する。

 なんとか前に進むも、結局一時間で3ページほどと、進捗はすこぶる悪い。


 ――お昼でも食って休憩しよう。


 一樹はノートパソコンを畳み、無理矢理に気持ちを切り替える。

 大盛のカップラーメンに湯を注ぎ、蓋をして待つ間、部屋の隅に鎮座する小さなテレビを点けてみた。


 お昼のエンタメ番組では、芸能人達がひな壇に座り、様々なトークを繰り広げている。まるで興味がないコーナーだったが、偶然映し出された“女優”の姿に、一樹は思わず「げっ」と声を上げた。


 司会進行役のお笑い芸人が、女優・黒住くろずみに語り掛ける。


「いやぁ、実は僕ぅ、元々読書が大っ嫌いなんですよぉ。そんな僕が、すぅっと読めたんやから、ほんま凄い作品ですよ」


 関西弁のイントネーションを受け、黒住は「ありがとうございます」と静かに笑っていた。

 レースの刺繍が美しい黒のワンピースを纏ったその姿は、凛としている。背筋を伸ばして座るその姿勢には緊張や嫌味はない。


 彼女の中にある“自信”が一本のしっかりとした“芯”として、根付いているのを感じる。

 他の出演陣と比べても、彼女の纏う“オーラ”は別格だ。


 妙齢であるということが、まるで弱味にならない。むしろ積み重ねてきた確かな過去の重みが、女性の顔に刻まれた微かな皺に、気品すら感じさせる。


 黒住は謙遜しつつ、あくまで凛とした強さを残したまま、答えた。


「私自身も困惑してるっていうのが、本音だったりします。『ラブ&ゴースト』は、構想も何もなく、本能的に思いついた物語を形にしたんですよ。私も書きながら、この物語がどうなっていくのか……それを一緒に楽しみながら書いているんです」


 彼女の一言に、会場から「おお」という歓声が上がる。まるでブレない大女優の姿に、司会がまたもや大げさなリアクションで絶賛を始めた。


 にこやかに番組が進行するも、一樹はたまらずチャンネルを切り替える。まったく興味のない競馬番組を見て、心の中で自分が好きな「5番」と意味のない賭けをしつつ、少し早いカップラーメンのふたを開けた。


 女優・黒住の顔は、今となってはどこでも容易に見ることができる。雑誌の表紙はもちろん、映画やドラマのCMも以前よりも頻繁に流れるようになったし、最寄り駅の看板にもでかでかと広告が載せられていた。


 まさに、“飛ぶ鳥を落とす勢い”というやつなのだろう。そんな彼女が書いた――正確には“書いたことになっている”小説は、自然と注目され、今もなお売れ続けているらしい。


 ずるりと豪快にすすったラーメンは、相変わらずうまい。だが一方で、それを咀嚼する一樹の表情は険しかった。


 一樹は鶏がらスープの味を感じながらも、一方でこんな生活が始まった“きっかけ”について思い返してしまう。


 元々、バイトの合間に続けていた副業ライターとして、簡単なブログ記事の執筆を請け負ったのが、一樹と“宿木出版社”との出会いだった。

 当時から一樹の担当編集者だった田中に、わずかなチャンスを求めて自身の原稿を見せたことが、この“ゴーストライター”としての生活が始まったのである。


 バイトや副業で食いつないでいた頃に比べれば、月収は明らかに高くなった。だが一方で、ここ最近は今まで感じなかったストレスにさいなまれ続けている。


 チャンネルこそ変えたが、今もなお生放送の番組では、黒住が変わらぬ笑顔でもてはやされているのだろう。

 一方で、その物語を書きつづっている一樹は、木造の安アパートで苦々しい顔をしたまま、即席麵をすすっている。


 どちらが“光”で、どちらが“影”なのか――その境遇を見れば、誰から見ても一目瞭然なのだろう。


 気分を切り替えるつもりが、より一層、筆が止まってしまった。烏龍茶をがぶりと飲み、わざと大きなげっぷを吐いて見せるも、たった一人の空間には虚しく響くのみだ。


 どうしたものか――ノートパソコンの画面を睨む一樹のすぐ横で、畳の上に置かれたスマートフォンから、軽快な通知音が響いた。


 慌ててラーメンを置き、手繰り寄せる。テレビではレース開始のファンファーレが鳴っているが、まるで気にせず画面を見つめた。


 そこに記されたメッセージの内容に、思わず目を見開く。


『今度の金曜日、また図書館に行くんだけど、一樹君はどうですか?』


 それはあの図書館で出会った女性――奈緒からのメッセージだ。

 あの後も度々、彼女とはあの場所で出会い、押し切られるような形で連絡アプリのアカウントまで繋がっていた。


 それからというもの、彼女からのメッセージは頻繁に送られてくる。

 他愛のない会話はもちろんだが、その端々に「執筆は順調ですか」という確認の内容が盛り込まれるのだ。


 思わず心の中で「担当編集じゃあないんだから」と呟いたこともあったが、それでいて自身の作品に興味を持ってくれたことは、素直に嬉しかった。

 一樹はフリック入力で「多分大丈夫。昼には行くと思うよ」と返す。


 ラーメンを食べる隙も与えず、すぐに返信が来る。

 どうやら打ち込む速度は向こうに分があるようで、端的な一樹のメッセージに比べ、奈緒の内容は実にしっかりしている。


『やった。あの続きが、ずっと気になってるんだよ! “真・絡新婦じょろうぐも”に勝つ方法、あれから色々考えたけど、全然思い浮かばないんだよね。私の想像力、大したことないんだなぁ。土曜、楽しみにしてるね!!』


 文章だけだが、彼女のあのまくしたてるような姿が目に浮かぶ。いつの間にか物語の中の敵に“真”なんていう勝手な名前を付けるあたり、相変わらず奔放な女性である。


 今まで親しい女友達も、付き合った女性もいなかった一樹にとって、同い年の女性とやり取りするということが、どうにも慣れることができない。

 だが、こんな他愛のないやり取りだけで、随分と沈んでいた気持ちが楽になってくる。


 きっとそれは、彼女が“異性”だから、というだけではない。

 なにより彼女が、自分の作品を初めて純粋に読んでくれた“読者”だからだ、ということなのだろう。


 暗がりを進む一樹にとって、奈緒という何気ない存在は、それでも眩しい“光”なのだ。


 声や言葉だけでなく、“文字”までも彼女は輝いている――浮かれる自分がなんだかこっぱずかしくなり、後ろ頭をかいた。


 スマートフォンを置き、ふっとテレビ画面を見つめる。どうやら大一番の勝負がついたようで、沸き立つ観衆達とけたたましいナレーターの声が随分と喧しい。

 だが、凱旋する一着馬を見て「あっ」と声を上げてしまった。


 偶然にも勝者となった馬のナンバーは、一樹が心の中で勝手に賭けていた「5」だ。

 なんだか肩の力が抜けてしまう。無論、当てたところで賭けていないのだから賞金も出ないのだが、それでも先程までの苛立ちがどこかへと散ってしまっていた。


 たまらず床に置いたスマートフォンを見つめる。

 一樹にとって「ラブ&ゴースト」と、それに関係する全てが“影”であるように、“あの子”と関わる時間は自然と“光”を感じることができた。


 ただの偶然だとは分かっている。だがそれでも、一樹は今までの生活の中になかった、妙な“ハリ”を感じ始めていた。


 ――俺も案外、ちょろいんだな。


 自身の安っぽさに苦笑しながら、再びラーメンをすする。

 メッセージと競馬に夢中になっていたせいで、口にした麺は随分と伸びてしまい、歯ごたえがない。

 ただそれでも、口の中に広がる鶏がらが、先程とは明らかに違う味で心を躍らせていた。

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