第2話 図書館にて

 河川敷の土手を歩きながら、一樹は対岸に見える桜の木の群れを眺め、ほうとため息をついてしまった。

 時期が過ぎてしまったせいか桜の花は少し散り気味だったが、それでもまだまだ週末になると花見をする客で溢れかえる、有名なスポットだ。


 河川敷のグラウンドで練習をしている高校球児達の声が聞こえてくる。春の陽気と活気溢れる学生達の声が、自然と歩く体に染み込み、緊張を解きほぐしてくれた。

 お気に入りの道をゆるゆると歩きながら、一樹はふと昨日の出来事を思い返してしまう。


 出版社で目の当たりにした“幽霊”――改めて思い返しても、その不気味な姿に身震いがおこる。あれからなにも悪影響は及ぼされなかったが、いつまたどこで、あのような存在に出くわすか分かったものではない。


 肩から担いだバッグの中には、ノートと筆記用具のほかに僅かばかりのお守りと、袋に詰めた“塩”が入れられていた。 

 不測の事態にと用意した備えだが、はたしてこれがどれ程の効果をもたらしてくれるのかは、分からない。


 ただ見えるだけで、一樹は“幽霊”について、なにも知らない。

 それについて追及しようとなど思わないし、触れ合う気など毛頭ない。できる限り、そんな怪異とは距離を置いて生活していきたいのだ。


 かきぃん、と痛快な音が響いた。見れば高校球児がホームラン級の当たりを繰り出し、歓声を浴びながら走っている。

 そのはつらつとした姿が、一樹にとっては随分と羨ましく見えてしまう。


 平坦極まりない学生生活を終え、社会人になったは良いものの、一樹は社会の“縦割り組織”というやつにとんと馴染むことができなかった。規律正しく動き、年功序列に従うという生き方はただただ息が詰まり、しばらくは様々な職場を転々としていた。


 どこに行こうが、誰にも目立つことなく、波風一つ立てないままいなくなる。

 そんな“影”のような自身の在り方に、幾度となく歯噛みし、悔しくは思えども結局どうにもできない自分を、さらに嫌悪したのを覚えている。


 歩き続けると、こちらと対岸を繋ぐ巨大な橋が見えてきた。

 その高架下――色濃い影に包まれた空間には、段ボールとブルーシートを組み合わせてできた即席の住居が、いくつも並んでいる。

 いわゆるホームレスの群れだ。世界に居場所を失った人々が、雨風を避けられる場所を求め、集まったのだろう。


 じっと観察していると、ぼさぼさの黒髪と髭を蓄えた男が中から姿を現し、ペットボトルの水でぼろぼろの金属コップを洗い始めた。

 生まれつきなのか、風呂に入っていないせいか、はたまた“影”がしみ込んでしまったのか、男の肌は浅黒い。

 土手の上からでも、そのみすぼらしい風体はしっかりと確認できる。


 対岸で白球を追いかける球児達と、ホームレス達――同じ人間でありながら、彼らはまるで別の世界の生き物のように見える。

 陽の光の下、はつらつとした汗を浮かべ駆ける少年達と、影の中で刹那を生きることに必死な大人達。

 同じ時間、同じ空間に存在しているはずなのに、彼らを包む空気や感情はまるで色が違う。


 光と影――対極の存在を目の当たりにし、また大きなため息が一樹の口から漏れる。


 ――俺も“影”の側なんだろうな。


 ホームレスになどなりたくない。少なくとも、社会の中に溶け込み、まっとうな生活をして生きていく大人になりたい。

 そう思う一方で一樹は今の自分の生き方が、家を失い、社会的地位すら失ったあのホームレスらと、あまり変わらないことに気付いてしまう。


 仕事があろうが、寝床があろうが、結局のところ一樹も今いる場所に“納得”できていないのだ。

 あの野球少年達は、生きていくうえで“希望”があるのだろう。だから笑えるし、前を向いて全力で進むことができる。


 一樹はもう随分と、笑っていない。

 土手を歩く自分の顔はきっと、あの汚れのこびりついたコップを洗うホームレスと大差ないように思う。


 ましてや、誰かの名を借りた物書きなどでは――陽に照らされた土手道を歩いていても、肉体の奥底からどす黒い感情が沸々と湧き上がってくる。

 そのネガティブな感情を振り払うように、一樹は目的地へと急いだ。




 ***




 しんと静まり返った図書館の一室に、シャーペンの芯が紙を滑る音が響く。ときに素早く、ときに緩く、不規則なリズムで空気が震えた。

 壁際の席に座り、一樹は一心不乱にメモを取る。大学ノートの隣には分厚い年季の入った“植物図鑑”が開かれていた。

 

 植物の名前や特徴を眺め、目ぼしいものがあればその要点を抜き出し、記載していく。大まかな特徴を捉えた線画を添え、図鑑の内容を簡略化し、自身の“ネタ帳”へと書き写していった。


 一樹はなにも、昼下がりの読書という優雅な時間を過ごすために、この図書館を訪れたわけではない。

 自身が手掛ける“小説”の内容についての調査を行うため、図鑑や歴史書といった様々な資料を片手に、ノートの中身を充実させていくのである。


 インターネットが当たり前になった今の時代、ちょっとした調べ物程度ならば、家にいながらしてできるのかもしれない。

 一樹だって自前のノートパソコンだって持っているし、安物とはいえスマートフォンも携帯しているのだが、利用しないわけではない。

 

 だが一方で、一樹はインターネットという世界の情報を、どうにも信用しきれない部分があった。

 誰しもが自由に発言できる世界だからこそ、そこに掲載されている情報の“質”までもが自由になっている――そう考えてしまうと、どうにも一樹は手軽な手段を良しとできず、こうやってわざわざ図書館まで必要な書物を探しに足を運んでしまう。


 非効率な生き方だし、それでいて“屁理屈”だとも分かってはいた。インターネットにだって正確な情報は溢れているだろうし、書物に記載されているから絶対だとは言えない。

 これはあくまで、一樹が“物書き”として作品を手掛ける上での、彼なりの“ポリシー”――否、“わがまま”でしかないのだ。


 一旦ペンを置き、椅子にもたれかかって背筋を伸ばす。ぎぃと軋む音と共に、凝り固まった肉体がわずかにほぐされた。

 改めて室内を見渡すが、人影はまばらだ。中央の机に高校生男子が二人座っており、手元の雑誌を読んでいる。図書館に置いていたものではなく、どうやら持参した一冊らしい。

 その向こう――壁際には銀縁眼鏡の女性司書が座り、手元の書類を眺めている。

 うるさくすると、彼女の鋭い眼光に射抜かれてしまうため、いわばこの図書館の“守り神”のような存在だ。


 今時、図書館という施設を使う人間自体が稀少なのか、休日になっても混雑することが少ないのは、一樹にとってありがたかった。

 元々、人混みは好きではないから、緩やかな時間の流れを感じ取れる、こういう“静”の空間は実に好ましい。


 窓からは桜並木の道が覗いており、昼下がりの日差しの中を歩いていく人々が見える。

 こうした季節の移り変わりを感じ取れる景色が用意されているのも、一樹にとってここが“お気に入り”である理由だった。


 心と体を落ち着かせると、昨日の編集社での出来事がふいに頭をよぎる。

 一樹はペンを置き、足元の鞄から二つの原稿の束を取り出し、机の上に並べた。


 左には一樹が手掛けている“代筆”――“ゴーストライター”として作り上げた「ラブ&ゴースト」と題された連続小説が置かれている。

 高校2年生の男子が、恋に敗れ自殺してしまった女子高生の“幽霊”と出会い、でこぼこコンビとして様々な問題に立ち向かっていく現代ファンタジー作品だ。

 生者と死者――二つの異なる境遇の男女が、徐々に心を通わせていく、異質な“恋愛小説”としての側面が、世の人々にはウケているらしい。

 

 もっとも、タイトルと大まかな設定は“作者”――世間には正真正銘、“筆者”として知られている――稀代の大女優・黒住くろずみから伝えられたものを、そのまま使っている。

 一樹はその“雑”な大枠だけを頼りに、ひたすらに物語に肉をつけ、なんとか展開を練り上げ、連載を続けていた。


 その境遇を、もしかしたら「幸運だ」と思う人間もいるのかもしれない。偶然とはいえ、大女優の“代筆”役を任され、それが世の中でヒットを飛ばし、原稿料も貰えているのだ。

 こと“物書き”として、影ながら実績を残せているのは、まごうことなき事実である。


 しかし原稿を眺めると、相変わらずため息しか沸いてこない。

 受け取ったものが“仕事”である以上、全力は尽くすし、手は抜きたくない。自分のできる限りの力で“物語”を作り上げたいし、多くの人に楽しんでほしいと心から思う。


 そんな自身の“信念”がある一方で、どれだけ手掛けたところで、これが“影”の功績でしかないという点に、どうしようもない虚しさが沸き上がってくる。


 無意識に眉間にしわを刻みつつ、「ラブ&ゴースト」の原稿を脇に寄せる。代わりに、もう一つの原稿――未だにタイトルの決まっていない、自作小説を中央に置く。

 “代筆”している作品とは“幽霊”を扱っているという点では似ているのだが、一樹が書き上げたのは“退魔師”としての素性を隠しながら生きる青年が様々な怪異に立ち向かう、アクション性の強いストーリーだ。

 恋愛要素はほぼなく、様々な“異形”との生死を賭けたぎりぎりの戦いが、時折グロテスクな描写を交えて描かれている。


 編集者・田中はこの作品を「ウリがない」と評価した。無論、一樹もそのアドバイスに「もっともだ」と思う部分もある。

 だが一方で、どうにも田中のあの素っ気ない態度に、納得できない部分があった。

 編集部に足を運ぶたび、一樹は自身の作品を編集者に見てもらい、自分なりに“チャンス”を掴もうと、あがき続けてきた。


 もう何度も作品にテコ入れをしたが、思い返してみると、田中から伝えられた感想もどこか似通ったものばかりで、その態度や言葉には真剣な色はないように思う。

 つまるところ、“来るもの拒まず”とは言うが、彼ら出版社にとって興味のある作品、ない作品には、明確な線引きがあるのだろう。


 うすうす一樹は気付いていた。

 出版社が自身に求めているのは“ゴーストライター”としての姿であり、オリジナルの作品など興味はないのだ。


 ため息をつき、手に取った原稿を投げるように置く。脳味噌の中に居座る停滞の色を追い出そうと、いたずらに後ろ頭をかきむしってみた。


 一樹だけに聞こえる、指先が髪と皮膚を滑るがりがりという乱雑な音。

 少し熱を帯びた後頭部に、突如として“ぞわり”と、薄ら寒い感覚が伝わった。


 息を飲み、目を見開く。机の上を見たまま、後頭部に当てた手を止め、固まってしまう。

 ぞわり――またもや伝う感覚にゆっくりと、慎重に振り返った。


 視線を走らせる。

 雑誌を読み終え、小声で談笑を続けている学生らのその向こうに“それ”の姿を確認した。

 

 対面の壁際の通路を、真っ白なワンピースを身に着けた女性が進んでいる。

 だが一目見ただけでも、その“異様さ”に気付くことができた。


 長い黒髪の女性は、まるで滑るように通路を進んでいく。上下に一切揺れることはなく、音すら立てずに図書館の中を移動していた。

 受付カウンターの前を通り過ぎるも、眼鏡をかけた司書はまるで反応しない。

 女性の肌はまるで雪のように白く、本棚に遮られても、わずかな隙間からその居場所がはっきりと分かった。


 ――またかよ。


 この図書館に“それ”がいることは知っていた。こうやって見るのも初めてではないし、不意にすれ違ったことだってある。


 だが分かっていてもなお、この独特の感覚には慣れることができない。

 きっとそれは一樹という“生者”の肉体が、同じ空間にいる“死者”を受け入れることができないからだろう。


 “幽霊”――もはや、彼らはどこにでもいるし、どれだけ見たくなくても、一樹の目はそれを捉えてしまう。

 だからこそ、一樹は出来る限り“それ”との距離を置き、関わらないように注意することしかできない。

 

 何が目的で、何を考えているのか。

 本棚の奥へと姿を消した女性の霊にわずかに思いを馳せていると、高校生男子達が本をしまい、椅子から立ち上がった。

 どうやら帰宅するようで、鞄を肩に担ぎ、談笑しながら並んで去っていく。


 不意に、その会話の内容が耳に飛び込んでしまう。


「なあ、今月の『ラブ&ゴースト』読んだ?」

「ああ、読んだ読んだ。いやぁ、あの管理人さんも“幽霊”だったっての、分かんなかったなぁ」


 無意識に、ぴくりと体が反応してしまう。一樹は中腰になったまま、視線だけを高校生へと向けた。


「まぁ、俺はちゃんと分かってたけどねぇ」

「嘘だろ、あんなの気付けるやついねえって」

「ちゃんと伏線張ってあっただろ。前の話の時、お札の貼ってる部屋に、あいつだけ入らなかったじゃんか」

 

 得意げに語る彼の言葉に、友人が「ああ!」と良いリアクションで返す。

 一方、様子を伺いつつ、一樹も心の中でどこか「やるな」と見破られたことに、賞賛の拍手を贈っていた。


「この作者の女優、文才あるんだな。モデルも演技もできて、小説も書けるなんて、すげえよ」

「だなぁ。月刊連載ってのがもったいねえよ。早く次の話、読みてえなぁ」


 最後の最後まで、今月号の「ラブ&ゴースト」を絶賛しつつ、二人は部屋を後にした。

 誰かに自身の作品が読まれているという喜びが、不意に飛び出した女優の名前で台無しになってしまう。


 学生達が去ったことで、より一層、図書館の静寂が際立つ。

 聞きたくもない女優の名と、本棚の奥へと消えたあの“幽霊”の存在にどこか気分が悪くなってしまい、一樹はたまらず席を立った。


 もののついでと、ひとまずトイレで用を足す。手を洗っている間も、重々しい感情がのしかかり、生温いため息を幾度となく吐き出させる。

 むしゃくしゃしたまま手を拭いたペーパーをゴミ箱に投げ入れるも、ふちに弾かれて地面に落ちてしまった。

 些細なことすらうまくいかない自分に余計に苛立ちながらも、それを拾って捨て、改めて手を洗ってしまう。


 行き場のないストレスが、いつまでたっても体から抜けきらない。

 誰かの“影”として生きていくことが、ここまで苦痛なことだとは思いもしなかった。


 このままだと、この仕事そのものを――“小説を書く”ということまで、重荷になりかねない。

 一樹にとって、それだけは嫌だった。

 何の取り柄もない自分が唯一大事にしてきたものまで、ごみ箱に捨ててしまいたくはない。


 にっちもさっちもいかない感情のまま、足早に図書室へと戻る。

 “幽霊”がいないかを慎重に探りつつ、壁際の自分の席へと向かった。


 だが、顔を上げ、足を止めてしまう。


 ノートと図鑑が置きっぱなしにされた自分の席に、一人の女性がいた。

 肩まで伸びた栗色の髪の毛と、少しだぼっとしたブラウンのパーカーがまず目につく。

 どこか幼さの残る大きな丸い目が、椅子に腰かけたまま、机の上の資料を眺めている。


 なぜ、自分の席に彼女がいるのか。

 なぜ、自分が広げている資料を読み込んでいるのか。


 色々と問いかけたいことはあったが、一樹はまず反射的に気付いてしまった。

 若い彼女が向けている視線の先――そこにあるのは、一樹が広げっぱなしにしていた“原稿”だ。


 たまらず、一樹は声を上げていた。


「あ……あの――!」

 

 彼女は慌てて振り返り、座ったままこちらを見上げてくる。

 大きな眼がぱちぱちと瞬きし、すぐ隣に立つ一樹を見つめていた。


 思わず、その瞳の中心を見つめてしまう一樹。

 透き通った虹彩の奥で、なんとも間抜けに狼狽えた自分が、立ち尽くしていた。



 

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