第42話 一夜限りのマリッジブルー

その後、不安因子が排除された会は比較的平和に進み、お開きとなった。


なんとその時間、まだ日が沈む前のことだ。


「……明日の婚礼式に備えて、って配慮はありがたいけど」


けど、である。

はっきり言って、そこからの私はたいそう時間を持て余した。


というか、心のやりどころさえも失っていた。


明日を迎えれば、私は本当にシルヴィオ王子の妃となり正式に聖女となる。


そんなことは一ヶ月前から分かりきったことだし、昨日までもさんざん考えた。

今日は父やメリッサといった乗り越えるべき壁も超えた。


ならば、あと一回寝て起きればそれだけで済む。

ただそれだけなのだが、心持ちの方はそうもいかない。



どうにも落ち着かなくなった私は、日が変わるころ、そろそろと部屋を出る。


明日に向けて秘密裏に準備しているあることの練習をするため、廊下を歩いてその部屋へと向かおうとしたのだけど、その途中で大窓の外、ウッドデッキに目が止まった。


音を立てないようにしていたが、彼もなぜかこちらを見て、ふと視線が絡まり合う。


「……シルヴィオ王子、こんなところで何を?」


私が大窓を開けてこう言うと、にゃんと返事がある。

もちろん彼ではなく、その反対側の椅子に人よろしく陣取るミケのものだ。


デッキへと降りると、すぐにミケが私に甘えてきたので、それを抱え上げて私は彼の隣に座る。


自然と、その位置を選んでしまっていた。


「笑わないでくれるかな」

「えぇ、笑いませんとも。またミケに逃げられてたところだったとか?」

「いいや、今日はおとなしかったよ。……ただ、俺が寝られなかったんだ」


なんだ、同じだ。

同じ屋敷の別の部屋、明日結婚する二人が同じことを考えていた。


そう考えると面白くなって、腹の底から笑いが込み上げてくる。


堪えきれずに口に手を当てて笑っていると、何のことかもわからないだろうに彼も微笑んでくれた。


月が間近に降りてきたみたいだった。その笑みは、やっぱり眩しすぎる。


「アンナ様こそ、こんな時間にどこへ?」

「えっと、私も眠れなかったものですから。その、ミケを探しに」


本当は違う理由だが、それは明日まで秘密にしておきたかった。

言い訳に使わせてもらった詫びに、私はミケの頭を撫でる。


気持ち良さげなあくびが、その返事だと都合のいいように受け取った。


「アンナ様には、早かったですか。この一ヶ月は」

「そうですね、色々なことがありました。人生五周分くらいは詰め込まれてたかもしれません」

「じゃあこれからは何周するんだか分かりませんね。たぶんもっと色々起こりますよ」


それも言えている。


王子の妃として各地を巡ったり、聖女として怪我や病気の治癒にあたったり、たとえばもっと政治的なことだって任されるかもしれない。


裏方として誰にも注目されずに生きてきた時間は終わり、なにをするにも人目のある表舞台へ出て行くのだ。


「って、身構えないでください。俺はそんなつもりじゃなくて、むしろ逆の意味で言ったんです」

「逆ですか……」

「そう。俺は変わりませんよ。なにが待ち受けていてもアンナ様と一緒に、これからもいたい。それだけです」

「そう、ですか」


私は少し俯く。


彼のまっすぐさは、やっぱり眩しすぎるのだ。いまだまともに過去を話せていない私にとって、その輝きは目に痛い。


でも今ならば、とも思った。

今ならば、乗り越えられるかもしれない。


「あの、少しだけ長い話をしてもいいですか」

「……はい、聞きますよ。どんなことでも」


シルヴィオ王子は、耳を傾けてくれる。ミケも静かになって、わたしのことばをまっているかのよう。


おかげで、思ったよりすんなりと話し出すことができた。


「昨日の父との話で大体わかっていると思いますが、私は妾の子だったんです。それで父から忌子として嫌われてーー」


生い立ち、家族からの迫害、母の死、妹の元で働いていた日々。

私はそんな聖女はおろか令嬢らしからぬ来歴を話す。


どう受け取られるかと怖かったが、シルヴィオ王子はただたまに頷きながら聞くに徹してくれた。


「……すいません、長くなって」

「いいえ、全くそうは思いませんよ。むしろ話してくれて嬉しいとさえ思います」


「誰もこんな女が聖女になるなんて思ってなかったでしょうね。私もですもの」

「でも、なったんですよ。そして俺の妃になってくれた。俺はそれを幸せに思いますよ」

「こんな話をしても、動じないんですね」


「だいたい事情の想像はついてました。それに、アンナ様はアンナ様で変わりない。

 俺はあなたとこの先も二人でいられれば、それが一番なんです」


じんと胸の裏が熱くなる一言だった。

その言葉だけで、全ての過去が報われた気さえする。


なんのことはない。最初から話していても、彼は受け入れてくれたのかもしれない。


そう考えると、だんだん頭の中がふわふわとしてくるが、私はそこで深呼吸をした。


なにも茨の道は、過去だけじゃない。

きっとこれからだって、違う意味で大変な日々が待っている。


「いいですね、それ。私もそうなればと思います」


だから、これは願望だ。


この先も二人でいたいーー。

愛あるその甘い響きに少しくらりとしていたら、ミケが少し強めに鳴いた。


長く垂れたしっぽで、私のももを打つ。


「忘れるな、ってことかもしれませんね」

「はは、ミケも可愛いところがあるな」


と、何気なくシルヴィオ王子が伸ばした手をミケは体を捻り華麗に避ける。


「って、やっぱりだめだ。なんで逃げられるんでしょう俺」

「ふふ、さぁ分かりません。悪い人なんじゃないですか?」

「懐かしいな、それ」


二人分の抑えた笑い声が庭に響く。


そこで、またミケがみゃうと声を上げた。なんだか一緒になって笑っているみたいだ。


もちろん彼のことを忘れてなどいない。

カルロスさんやマキさん、それから魔法を教えてくれたオスナだってそう。


二人だけでやっていこうなんてはなから考えていない。

彼らとも、一緒にこの先を歩んでいきたいと思っている。


「でも、ミケは正しいのかもしれないな。俺はさっきから不純なことばっかり考えてましたよ」

「不純? どういうことですか」

「それは、そうだな……たとえば、こういうことですが」


ミケに伸ばされていた手がそっと私の手の甲へと落ちてくる。

指の節を探るようにする彼の指先を握り返すと、ぎゅっと力がこもった。


「えっと、その……い、いつからでしょう」

「アンナ様が隣に座られた時から、でしょうか」

「そ、そうですか」


まるで手にも心臓ができたかのよう。どくどくと、ふたつの鼓動が重なって聞こえる。

この熱がシルヴィオ王子に伝わっているかと思えば、なおのこと胸がはやる。


「目、閉じてもらえますか」


そこへ、追い討ちがかけられた。


そこまではまったく考えていなかった。

私は動揺から、思わず手を強く握ってしまう。


でも、そうだ。明日には大衆の面前で、やらなければならない。

ならば今やっておくのは、むしろいい演習になる……!


なんて思い込んでみたところで、いっぺんに体が硬直するのは止められない。

顎が引き寄せられた。とりあえず目を強く瞑る。たぶん今の私は、かなり変な顔になっている。少なくともキスを待つ顔ではない。


たとえるならば、虎に食われかけている猫のような……


ーーなんて無駄な思考が巡る中、そっと。


シルヴィオ王子と出会った日、桜の花びらが顔に触れた、あの時ように。


「予行演習ですから、ここまでです。あとは明日にとっておきます」


見舞われたのは、頬への優しい口づけだった。


完全にくると思って、固く唇を結んでいたというのに。


……弄ばれた。しかも5つも下の男の子に。


私は抗議の意を示そうと目を開けるのだが、シルヴィオ王子はすでに顔を背けていたりする。

耳元まで赤く染まっていた。


こんなことで大丈夫なのだろうか、明日は。というか、夫婦生活は。


少し思いを馳せるが、たぶんあんまり意味がない。

きちんとやることをやっていれば、きっとなるようになる。


熱い頬を夜風に冷ましつつ、私ははっとする。


そういえば、もう心がざわついていない。

妙な不安感はとっくに拭い去られていた。

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