第五話 不審。

 「辺鄙へんぴなところに公園を作ったもんだよねえ。誰もよらないってのに、血税を使って無駄なものを作ったもんだよ全く。こんなものを作るくらいなら、もっと有用なお金の使い方があったでしょうに」

 女性は言う。憂いだ表情で、そこかしこに目を配っている。

 雲の傘で陰っていた、陽光がわずかな隙間を見て地上に降り注ぐ。

 その真ん中にいる彼女の、燃えるような赤毛が輝いて美しく映えた。



 ぴっちりとした黒いリクルートスーツとスラックス。前のボタンはかけておらず、ぱっくりと割れた正中線のエリアから下地の真っ赤なカッターシャツがのぞいている。

 目は切れ目で、キツネなんかを思わせる。鼻立ちもいいし、くっきりとした光沢のある唇は一瞬目を奪われる魔性を孕んでいた。女性にもてるタイプの顔のパースだ。頭髪は真っ赤。ショートボブに近い髪型だけれど、もっとさっぱりと透かした印象がある形。

 極めつけにこの女性はスタイルが抜群である。背の高さはあたしの顔一つ分ほど高い。あたしが平均より高めだから、それより高いとくれば百七十の後半はあるかもしれない。その頂点から、下へと視線を進ませれば目立つ双丘、腰部のくびれ、張りのある臀部と凹凸が並ぶ。なんだこれは。山岳地帯か?



 女性を観察すること約一秒。

 「あ、あの」

 あたしはおずおずとしながら声を出した。なんというかこの女性ひと、只者じゃない予感がする。……そこにいるだけなのに、まるで異物感がある。世の何物にも混じらない、変態性というかなんというか。……ともかく、近寄ってはダメな気がする、という失ったはずの野性的本能が、心根から叫びあげているようだった。

 「何の御用で……?」と聞くと

 「みてこれ。落とし物」

 と女性は、薄い板のようなものをつまんであたしに見せてきた。

 手帳のようだ。紺色で、すこし典雅てんがな趣がある。そしてその深い味わいのある色の中心に、見覚えのある装飾が施されてあった。

 高校の、エンブレム。それも、まぎれもなく、うちの高校のだ。

 生徒手帳、というやつだ。入学すればその高校の生徒である、という証明としてもらえるもの。

 ……ともなれば、落とし主なんてもはや、あの子しかいないんじゃないか。



 「それ……もしかして入海君の」

 とつぶやくと、彼女はその手帳の中身を躊躇いなく確認した。

 項を確かめ、直後、瞳だけであたしをぎろりと見つめなおした。

 「あたり。……入るに海、か。不穏な苗字だ。そして同じ高校の君が言うのだから、これは『入海にゅうみ君』ので間違いがないんだろう、たぶんね」

 と言って彼女はぱたりと手帳を閉じた。閉じて、だが残心のように鋭利的な視線は崩さない。

 「……その手帳、たぶん、あたしの知り合いの子が落としたもの、だと思うんです。だから、あたしが届けますよ。……見つけてくれて、ありがとうございました」

 証拠といえば証拠だ。同時に、この女性にあの手帳をむざむざと預けたままにするのは何か良くないことが起きるとも思った。

 幸い、あたしにはこの手帳を渡すことで彼と口を利けるチャンスもめぐる。恩を売っておけば彼の口を割るのも容易くなるかもしれない。

 そう思ったのだが、彼女は

 「んー。確かに君の知り合いなら渡すにやぶさかじゃあないね。吝かじゃあないけれど」と一考に付した様子でつぶやき、直後

 「……君とこの子はどういう関係?」と鋭い目つきで問うてくる。

 「どういう関係、って」あたしの言葉は濁った。

 「どういう意味ですか」

 「答えようによっては君と彼を会わすわけにはいかないってこと」

 彼女はそういって、手帳を顔に近づけた。まるで姫君の手の甲に親愛の口づけをする、騎士のような華々しさがある。

 「血の香りがする」と言う。言って

 「職業柄、ワタシは鼻が利くんだよねえ。ただの手帳から血の匂いがするなんて変だと思わないかい。顔の写真を見るに、殴り合ったりはしなさそうな子だ。こんな真面目そうな子がさ、こんな人気もないような場所に、こんな大事なものを落としてた。それで君が探しに来た」

 「こんな場所を探しに来た」という彼女の言葉で、あたしはひとつ確信した。

 ――あたし、疑われてるんだ――と。

 同時にこの女性は、おそらくここであった秘め事を、何らかの形で察している。どうやって知ったかは分からないけれど、ともかく彼が血を流す結果となったその行いを、あたしがしたのではないかと、彼女は疑っているのだ。

 「もう一度聞くけれど」彼女は深く響く声で言う。

 「入海君とはどういう関係だい?」

 ……何と答えればいい? 

 この不審者に。



 「……あたしはただのクラスメイトです」

 と弁明した。「それ以上の関係はありません」とも付け加えた。

 「嘘だとするなら、すぐばれるぜ。嘘ついてばれたなら、ひどい目にあわす」

 と彼女はくぎを刺す。刺すけれど、あたしは実際それ以上もそれ以下もない。

 「ばれるのなら、好都合です」

 やましさはない。むしろ、ばれてくれるほうが余計な説明はいらなくなる。

 「あたしは彼にとってクラスメイト以外の何物でもありません。もっと言えば、その手帳のことだって知る由もなかった」

 「……ほんとに?」

 赤毛の女性は短髪を揺らして首を傾げた。若干の幼さが女性の正体をさらに濁らせる。

 「ウソかホントか、確かめるすべがあるならそれを試してみてはどうですか。……嘘など、すぐにばれるのでしょう?」

 「おん。ばれる。だもんで、君のファイナルアンサーはそれでいいかい? 正直者が一番得をするぜ?」

 「えぇ」

 言い切ると、彼女は至極嬉しそうに目をかっぴらいて、ぎりりと歯をきしませ、ザシッザシッと寄ってきた。……あたしはその威勢におびえるも、逃げることもどうすることもできなかった。

 身構えるころには、彼女の両手があたしの肩に肉薄していた。そして、あざができるほどの力で、ぐっと握られる。

 「いッ!」

 日傘が手からこぼれた。持ち主の失った物体がクラゲのように空気に攫われて落ちる。

 抵抗もできない。ただ、公衆トイレの内部に押し込まれる。ずかずかと、足の踏ん張りも機能しないくらいの力で追いやられる。

 怖い。カツアゲってこんな感じなのかな。あるいはこれがそもそもカツアゲなのかもしれない。この人にタコ殴りにされて、お金を取られるかも。そう脳裏によぎった瞬間に目頭が熱くなり、ワサビを頬張ったときのようにツンとした刺激が鼻腔を貫いた。

 かたい感触を背負った。壁だ。一瞬、肺がつぶされて息が吸えなくなる。

 顔をしかめていると、彼女はあたしの顔を覗き込み、ニマりと嗤った。

 「ファクトチェック。始めます」鼻が触れ合いそうな間近で彼女が言う。茶色の光彩がすさまじくきれいな、その瞳が震えるほどに恐ろしい。

 「ぴッ」

 何が何だかわからないが殴るのだけは勘弁してくれ! あたしは祈りながら目を閉じた。顔のすぐ横に小風が薙ぐ。そして少しの間、静かになった。



 ……じわじわと、蝉の鳴き声が鮮明になる。鮮明になると、次には花の泡が弾けたような心地の良い香りに気づく。花の匂いに慣れると、次には耳元で、スンスンと小刻みの呼吸音を拾った。

 目を開いた。目の前に、肌色のきれいな線がある。カッターシャツの隙間から覗く、彼女の鎖骨と、柔らかな洞窟がある。

 同時に直感した。この小刻みの呼吸音。これは、あたしの首筋の匂いを嗅いでいるものだと。

 「ちょっ」

 あたしはこっぱずかしくなって離そうとするけれど、単純な腕力で彼女にかなわない。まるで岩のようだった。建物の支柱を押しのけるよろしく、びくともしない。

 何をされてるんだろう、あたしは。ただ恐怖でそれ以上の身じろぎができない。水面上に顔だけ浮くことができたときのような、そんな浅い呼吸を繰り返す。心臓に悪い、実に。

 「……本当に、どこからも血の匂いがしない……」

 と、彼女がつぶやいた。それを聞き逃さなかった。なるほど彼女は、入海君の血の匂いとやらがあたしに付着していないかの確認をしているらしい。それがファクトチェック、とか言っていたヤツの正体だろうか。

 「ふむ……」とは、腑に落ちぬ彼女の鳴き声。

 これで誤解が解けたのならもうじき開放だろう。そう思うと脱力する。さっさとこの恐喝まがいのスタイルをほどいてほしい、とそう願った刹那、



 「ウぶっ」

 唇に衝撃が走った。上唇と歯の隙間に異物の感触がある。……一瞬、何をされたのか分からなかったけれど、冷静に考えると状況を把握できた。いや、冷静に考えても何をされてるか分かったものじゃないけれども。

 これ、口内に指を突っ込まれてる。

 ハテナが頭中で激しく踊っている。次に何が始まるというのだね。これ以上あたしに何をしてくれるというのだね。

 ただ舌の上に、つるりとした皮膚の味が広がる。少し塩っぽい。その肉が、八重歯を支点に口をこじ開けてきた。

 恐怖だ。ただただ、恐怖だ。表情筋がヒクヒクする。彼女の整った顔があたしの網膜の景色を占める。だが彼女の視線は、およそあたしの口内に集中しているようだ。……どうして? 何かした? あたし。

 彼女の指先が、舌を弄んでいる。直後に上の歯の一列をつぅとなぞられた感覚があり、気味の悪さでのどが震えた。

 どこか懐かしい感じがする。……そうだ、子供のころに一度だけ受けた歯医者だ。診察台に寝かされ、初老の医者にあたしの口内をゆるしたことがある。その感覚だ。目に見えぬ自分の体内の一部を触れられまくる恐怖を、今になって思い起こしている。起こされている。

 「……うーん」

 彼女はうなった。整った眉を曲げて、得心がいかないように首をひねり

 「……君、一体何者?」と聞く。

 「あはひはひひはい」

 あたしが聞きたい。

 そうあたしは言いたい。



 唐突に肩を抱かれた。背面に回された手が背をさすっている。また何かするのかと思いきや、その手つきからはどうにもいたわる思いがうかがい知れる。泣く赤子の背をさするソレのようだ。

 「……ごめん。十中八九、君が事件に関与しているもんだと決めつけてた。……どうにもちがうっぽいね。手帳についてる血の匂いも、かすかにある香水の匂いも君からは感じなかった」

 背中をポスポスとたたかれる。優しく、それこそ敵意はないと語るように。

 やがて拘束する力が抜け、彼女はそっと退いた。口内の異物も、同時に引き抜かれる。

 「失礼したね」

 彼女の指先には、あたしの口元から生じた唾液が伸びている。それを見てあたしは口を拭う。……あたしは悪くないってのに、粗相を犯した気分だ。人の体に体液を付着させているってのは、妙な背徳感がある。顔が熱い。

 「……誤解は解けましたか」と不服そうに聞けば

 「ええ。ばっちし」と彼女は言う。

 「てことは君はただ単にここを利用しに来た善良な市民というわけか。本当に申し訳ないことをしたね。使うなら一番手前のトイレを使うといい。そこが一番きれいだよ。ペーパーロールも一番残ってる」

 「えっと、実はそのことなんですけれど」とあたしは食い下がる。

 彼女から離れたかったのは離れたかったが、ただこのまま”なぁなぁ”にして別れた場合、何かとんでもない損失が働いてしまう気がした。虫の知らせというか、胸騒ぎというか。

 この女性が信用に足るかはべつとして、入海君が巻き込まれている一件を相談するべきじゃないか。

 見解によらば、この人はこの事件に『通じている』。どういった経緯かは判別できんが、少なくともここで起きたことを『識っている』ようだ。得物をひとつとして拵えてない今、彼女のように不気味じゃああるがこの手の情報に詳しい手合いの人に助力を恃めないかと思ったのだ。



 という思考をあたしはちょっと置き去りにする。

 あたしの目ン玉は彼女の指先を伝う液体にくぎ付けになった。

 「あっ血が」

 というと彼女は人差し指を眺めた。

 「血? あぁ、どうやらさっきので切っちゃったようだ。いやなに、君のつばがついてるからほっときゃ治るよ。昔から言うだろ、ケガをしたらツバをつけろってね」

 と指の腹からこぼれる濃い赤をした液体をまじまじとしている。

 あたしはツイと顔をそむけた。

 「……どした? 君に落ち度はないよ。ワタシが勝手にしたことだし」

 「いや、ちがくて。ダメなんです、あたし。血見るとほんと気分悪くなって」

 「……血が苦手?」彼女の頓狂な声が耳に届く。

 「……はい。生まれた時からずっと」

 というと彼女は「はは」と肩を震わせたかと思いきや

 「アッハ! 面白いねぇ君! マジで言ってんのか! マジで言ってんだろうなあそれ! アハハハ! そうかいそうかい、いやほんと特殊な人だよ君は」

 と彼女は笑う、嗤う。美人な顔に涙を浮かべて、くしゃくしゃにして、戛然かつぜんとするような凛々しい声色を崩してあやされた赤子のように哂う。

 ……何がそんなに面白いのかわからんものだから、不気味な限りだ。本当に相談していい人なのかこれ?

 「気に入った。君みたいなのもいるんだ。世界は広いねえ。……ちょっと、もろもろ聞きたいことがまだあってね。できればもう少し時間をワタシにくれると助かるんだが」

 と彼女は涙をぬぐいながら言う。

 「ああ、そうそう。名乗りもせずに誘うのはさすがにご法度か。不審者に思われてしまう」というなりキリリと表情を引き締めて襟を正した。

 十分不審者だよアンタは。



 「ワタシの名前は再恋寺さいれんじ 小径こみち。普段は金融屋で秘書をやっている」

 ――吸血鬼狩りだ――と彼女は語った。

 地上は、雲のカーテンが開ききったことで、明るさを取り戻した。

 






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