第三話 目撃。

 時刻は二十時。カフェはこの時間になれば就業時間として閉店する。客が少なければ十九時の半超えてからさっさと切り上げる準備をするわけで、今日もその例に漏れない。

 ……思えば、ラニのやつ放課後にどうの言ってたけど結局来店しなかったな、と思う。まああの子はそこらへん割と雑把な奴だし、その時の気分だったかもしれないが。

 「何か食べてく? 何でもいいわよ」

 と言われた。喫茶の賄い飯というやつだ。いつもはつまめる程度の菓子類をいただいたり、家であたしの帰りを待っている大葉さん宛にお土産を用意してもらったりしているのだけれど、今日に関してはその世話にあずからなくてもよい腹持ちを感じている。

 ので、あたしはちょっと考えるそぶりを見せて

 「今日はそこまでお腹減ってないので、このまんま帰ります」

 と答えた。店長は目を丸くしている。

 「珍しいわねえ。若菜ちゃんがお菓子をつままないなんて」

 「そんな珍しくないでしょ。あたしをお菓子ばっか食べてるやつとか思ってます?」

 「若干思ってる」

 「ひっでぇ」

 「まあ、最近は怪しい事件もあるものね。気をつけて帰んなさい。何であれば、送ってくけど、どうしようか」

 「いえ、多分大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 何、帰宅するだけだ。そう大それたことはなかろうて。



 片付けの区切りがついたらあたしは店を出た。少し風が湿っぽい。空には星が一つとして見当たらなかった。一日晴れが続くって言ってた割には、日没後すこしで体調を崩している。床に臥せた病人みたいな天気だ。

 帰り道である表通りにはすぐにいかず、ちょっと路地を進む。人気のない、小さな公園がある。目的は自販機の飲料。のどがカラカラになってしまったのだ。店で何かを飲んでもよかったけれど、そうするとどうしても長居してしまうものである。昨今の近隣情報を鑑みるとよい選択とは言えない。時間がかかりすぎると、大葉さんにも心配かけちゃうわけだし。

 あたしは自販機の、うすぼんやりとした明かりに包まれたまま佇立した。何を買おう。無名の会社の販売する激安いジュースに頭を悩ませていたその時。



 幽かに。幽かにだが、声が聞こえた。

 何処から? あたしは周りを見渡した。

 発生場所はすぐに目星がついた。振り向けばすぐそこに、公園用の公共トイレが設えてある。一見にして倉庫のように見える建物だ。ちらつく明かりは、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 男子用と女子用。その男子用の方から、じゃりじゃりと靴が擦れる音、それと、僅かな物音が漏れていた。間隔を置いて、猫が鳴くような、感覚の甘い声がちょちょぎれて響いてくる。

 「……うわぁ」

 こりゃダメだ。あたしは悟った。完璧にヤっている。人気がないってのはあたしも察するところだけれど、普通野外でするかね、と。

 趣味が悪い、というとそういった趣向をお持ちの方に角が立つか。こんな平々凡々な女子高生の思うただの脳内文学が、人の目にとどまることなどありはしないだろうから、妙な気配りをするのも野暮かもしれない。

 と思いつつも、しかし誤りがあって人の目に曝されてしまう、そんな方向にも気を回したらばあまり大きな口をして述べるべきではない。無いのだがはっきりと持論を述べさせていただくけれど、秘め事とは文字通り人の目の届かぬところあるいは声波、物音一切が他人の相知れぬところでやるべきであるとあたしは思う。



 人間は他の動物とは違って理性で以て野性味の面影を持つ人間性を抑する動物である。顕著なのがこの性差による行いで、例えて高崎山で遊ぶ猿のように所かまわず尾っぽを交える行為を人間はしない。他種族の動物と比較しても、その行為への秘匿性は並外れて堅固なまである。言ってしまえばこの身持ちの硬さが、みさおへの稀なる羞恥が、人たら占める理性の働きを表しているわけだ。だがこのように人の相知れてしまう場所で行うということは、秘匿性に欠陥があると見える。この欠陥、秘すべしと思わない理性の隙間が空いている以上、それはもはや類人猿のモラルと何ら変わらない位置までただ下がっているものと思われる。スリルが良いとは言うかもしれないが、それとこれとはやはり別。あながちスリルとやらが理性を破壊しているとも捉えられんこともない。

 この持論を統括するところ、人が認知してしまいそうなところでやんなって話。百歩譲って車の中だったり、だれも立ち寄らない部屋を用いるのなら全然あたしは目くじら立てないけれど、こんだけ音の漏れる杜撰な対策でされるとそれはそれで情熱が足りないのではと思うのだ。いやしらないけれど。



 ……で。とうのあたしは目まぐるしく浮かぶ言葉の羅列にさらに喉が渇いてしまった。生唾を呑む。いやこれに悪しき意味はない。喉が渇いてしまっているだけで。

 物が買えん。物音をたてたら絶対邪魔になる。なんであたしがこんなに気をつけなきゃならんのだという惨めな気持ちと、そのみじめな方寸のちょっとした隙間に、邪悪な気持ちが芽生えてき始めたのも、あたしは否定できなかった。

 秘匿とは、隠し通さねばならない。人は秘匿の存在を匂わせられれば、それを暴く欲が生まれてしまう。ちょうど猫が缶詰の空き缶の居場所を掘り当てるのに似る。隠し通されるべき物事を、知り明かされるべしと執着するのだ。

 あたしもそう。

 あたしも残念ながら人間だ。喉が渇いた、は嘘じゃない。けれど先だって述べた悪しき意味がない、というのは、澄みいって正しいものかといわれるとそうじゃない。口の中にある粘性を帯びた唾液の類は、猫の瞳が獲物を定めて細くなることと同意だ。ふしだらものと思われるかもしれないけれど、俄然『それ』に興味がわき始めてしまった。

 気になるじゃないか。そうそうないもんそんなこと。



 一足、一足。擦られる砂塵の音にすら気を使いながら、その個室へと足を延ばす。湿潤した空気を受けてか、足元は少し練られた泥の感触がする。近づくたびに、音は近くなる。心臓の鼓動も比例して早くなっている。わかっている。これは多分に怒られてしかるべきことだ。寡聞かぶんで世間知らずな行為だ。例え相手に七、八割ほど過失があるにしても、あたしにはそれをそ知らぬふりで家に帰る選択もあった。けれどあたしはタダでそれを選ばない。秘匿を明かしてしまうという事故を、相手の持つ七、八割の過失の、残りの二割か三割をあたしは自分の意志で担ぐことにした。

 好奇心というわがままの為だけに。



 愈々いよいよ、その室内に足を踏み入れた。クッというタイル張りにゴム質の靴底がすられた音がした。しかし物音は止まない。水が滴るようなちゃぷちゃぷという音が絶えず鳴っている。

 もし見つかればどうしようか。声が漏れていたから、何か事件が起きていたかもしれないから様子をみに来た。これにしよう。向こうさんも警察を呼ばれたくはないだろうから、まだそういった機関に連絡はしていないといえば角は立たないはず。一番いいのは見つからないようにすることだけれど。

 ……まあ、難しいか。

 それでもちょっち、一目くらい。

 個室の奥。初めて入った男子トイレは小用便器と個室の大用便器とがある。見えぬ構造とはいえ竿を出して他人と肩並べて用を足すとか勇気がいるものだ。あたしなら到底できない。

 さてもその奥、個室の扉が半開きになっていた。……そこだ。鼓動はさらに早まり、鼻での呼吸が難しくなって口で犬のように呼吸を繰り返す。胃袋が膨らんだように気持ちが悪い。足先が冷えて凍えるようだった。

 あたしはまず個室の壁にもたれて呼吸を整えた。

 次いでとりあえず懺悔を行う。神なんか信じちゃいないけれど、この世にあたしのことをうかがっている目がどこかにあるとするならば、あたしはただのヤラシイ女だ。思考を読まれれば狡い女であることすらバレてしまう。だから辯疏べんそするわけじゃないけれど、今から見るものはきっと忘れます。興味という不純な理由でこのような行動をとったあたしをどうか許してください。ただ、今だけはどうか見逃して。



 首だけひょこっと出して中を見た。

 先ず手前に見えるのはおそらくは女性。大胆にお尻をこちらに向けている。

 男性はその奥側。上半身を曝け出して、洋式便座に座るようにしてこの女性を迎えている。

 ひぇぇ。これが、か。なんとも言えない気持ちになる。動物園でそういう事故が起きた時みたいな、気まずい感情が押し寄せてくる。

 ……けれど、何かおかしい。何がおかしいかって、この体勢、何をやっているんだろう。あたしの知っているものと違うような。いやあたしは何も知らないけれど。

 だけれどあたしがうかがっているこの行為、どうにも、そういった『行為』に該当しない気がするのだ。味気がないというか、華がないというか。

 女性はただひたすら、一身に迎え入れている男性の首筋に顔をうずめているようだった。それ以外の接合が見られない。着衣だってほとんどがそのまま。例えるなら、ゾンビ物の映画の捕食シーン。それに似て、る?



 ……何かがおかしい。異変を感じた。

 女性はずっと水の音を出すだけで動かない。

 男性は組み敷かれるような状態で、少し身体を震わせる程度に微動するだけ。

 何を、してるの、これ。

 丁度その時、男性が呻きを上げてビクリと震え、同時に首筋辺りから、ぴしゃりと飛沫が上がった。その液物は、個室の壁に降りかかった。

 ……あたしは絶句した。

 その鮮やかなまでの赤色に。飛び散ったその生ぬるい温度に。

 血。血だ。

 あたしは胸を抑えた。途端、それまでに抱いていた、興奮による心痛とは違う、張り詰めた感触を肋骨全体に覚えた。そうしてその赤色の粒子が鼻に届くと同時に、胃の奥からぐるぐると螺旋を描いて消化液がせり上がってくる違和感が生じた。鼻に突き抜ける生臭い鉄さびの臭い。背筋を伝う悪寒。ダメだ。あたしはこの不調の正体を知っている。知っているし、これは一度起きれば収まるまで時間を要する、厄介なデバフだった。



 血液恐怖症。あたしが血を嫌いな理由。その症状が出てしまった。

 傷害あるいはその他の理由で血液を見ることを、あたしは髄の奥から拒んでいる。鼻腔で感じれば力が抜けて気持ちが悪くなり、視界にとらえれば体調悪化と四肢の震えが訪れる。酷い時にはそれこそ貧血に近い意識の混濁すら経験する。所謂気絶というやつ。

 ……症状が出るということはあの赤い液体は確かなものだ。しかしどうして? なんでこの女性ひとはあの男性ひとを傷つけてるの? 表情は見えないけれど、ああまで悶えている。本当に苦しんでいる。訳が分からない。何をしてるの? なんで首筋を? どうして血を?

 なんで……何故?



 ぐわりと視界が揺れた。大分重い症状が出てると自覚する。自分の血液が流出している場合は勿論のこと、他人の流血沙汰は痛みがわからない分、あたしは酷く感化されやすい。それが、出てる。

 ……ヤバイ、と思ったころには遅かった。

 ダァン!

 と、あたしは音を出していた。ふらついた身体を抑えられず、薄い壁に肩を打ち付けたのだ。ジンとする肩の痺れとともに、あたしは我に返る。身体に流れる浅い麻痺を何とか振り切った。同時に頭のてっぺんまで血流が冷えた気がした。



 視線を集めた。女性と、男性。顔が露わになった。特に男性の方。あたしはしっかりと、この男性と熱烈な視線を交換した。その時間、短いような気もするし、長い気もした。紅色の二つの玉と茶色の二つの玉を両方見比べるように見張って、だが私は次の瞬間には磁石が弾かれる様に出口に駆けだした。

 振り返らない。あたしのすぐ背中に、黒い影が迫っている気がした。罪悪感ともう一つ、『見ちゃいけないもの』を目にした感触があった。



 ……困ったな。どうしよう。

 あたしは一通り遁走をかました後、肩で息をしながら立ち止まった。……こうまで全力で疾走したのはいつぶりだろうか。結局水分も補給してないんで、喉には血の固まるようなへばりつきができている。吐き出すように丁寧に咳き込んで、この狭窄を通した。

 背後を見たが、追ってはないようだった。……まあ、そりゃあそうか。

 さても、あたしは新しい空気を取り込んで、いっそ清々しく晴れ渡った脳みそをもってある思考をする。ある思考をしなければならない。

 ある問題がある。いや、生じたというべきか。

 被害者の男性。というべきだろうか。奥にいた、やられてた人。あの人と視線がばっちり合ってしまったわけだけれど、あたしはその点で抱えられないほどの問題を背負ってしまったらしい。

 バクバクと心臓が悲鳴を上げている。この慟哭は、密会を暴いたための興奮であるといえるし同時に、あたしが今背負いこんだ『問題』に端を成す困惑、あるいは戦慄を意味していた。……なんつったってさ。



 「入海にゅうみ君じゃん……。あの男性ひと

 ある意味で学校で見ない日は来ない、見渡しゃ必ず視界に映る人間。

 有象無象の内の一つ。同じクラスの男子だった。

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