第一部 クリーパー編

プロローグ




 月も星もない闇の広がる夜であった。


 それでも目が慣れれば、闇の中から山や木々のシルエットが浮かび上がる。 人里離れた山の中を木々の間をぬって、一組の男女が息を弾ませ走っていた。


 女の胸の中には、布にくるまれた小さな赤ん坊が眠っている。


 尋常ではない速さで、木立の間をライトも付けずに走る。すると眼の前に闇のカーテンが現れ、男が、女を遮るように踏みとどまる。


 切り立った崖が足元に広がっていた。


「こっちだ」


 男が素早く周囲を見回し、女の手を引いた。 二人は切り立った崖の先に、細い獣道を見つけて飛び降りる。


 二人が行って間もなくすると、木立の中から黒い人影が現れた。


 一人、また一人とぽつぽつと人影が増えていき、先ほど二人が降りて行った崖を見下ろす。


「ここを降りたようだ」


 先頭の長身の男が言った。


「しかし、早いな。追いつけるか?」


 後ろに立つ若者が訊いた。


 崖のように切り立った斜面を一同が見下ろした。


「当然だ」


 先頭の男が斜面を飛び降りる。それに追随して皆が飛び降りていく。




 崖を降り、流れの速い川を渡り、雑木林の入ろうとした時、ふと男は立ち止まり、振り返って闇の中の気配を探る。


「やはり、振り切れんか」


「どうしますか?」


 息を整えながら、女が男を仰ぎ見た。


「捕まれば、恐らく命はあるまい……しかし、せめてこの子だけでも」


 男は女の胸の中の赤ん坊を見つめた。


 女が愛おしそうに胸の中の我が子に手を添えて、その名を呼んだ。


「兆……」


 二人は林の中の大きな広葉樹の張り出た根の窪みに布に包んだ赤ん坊を寝かした。赤ん坊は泣くこともなく、ジッと両親を見つめていた。 その表情は自分の定めを知るように澄んだ真っ直ぐな目をしている。


 暗闇に気配を感じ、男が歩みだした。


「来たぞ」


 女は赤ん坊を見つめていたが、未練を断ち切るように男の後を追った。


 遠ざかる二人の背を、赤ん坊が見つめていた。



 やがて、夜が明けた。


 朝もやの中にエンジン音を響かせ、白い軽トラが林道を登って来た。


 荷台にはイングリッシュポインターがリードも付けずに揺られながら乗っている。


 軽トラを林道の脇に停まり、三十代位の中年の男が降りてきた。男は髭をはやし、体の線は細いが力強い足どりで、林道から外れた獣道へ入っていく。荷台から降り、イングリッシュポインターが付いて行く。


 この男、毎朝、罠に獲物が掛かってないか、山の中を見回る。


 僅かな幅の獣道を降り、罠を仕掛けた草むらに近づくが、獲物がかかっている様子はなかった。


 イングリッシュポインターのハテナが、突然、草むらに向かって吠え出した。男が顔を上げ、犬の目線の先を見ると木々の間から下が見え、何匹ものカラスの姿が宙を舞っている姿が見え隠れしていた。


「あそこはキャンプ場の付近か……」


 男は獣道を引き返していく。


 シーズンオフであり、人気のないキャンプ場の入口に車を停め、男が車を降りるとすぐに犬が荷台から降りて駆けて行く。


「ハテナ、待て」


 しかし、主人の言葉も耳に入らないように猟犬はまっしぐらに森の中に入っていく。男は鼻を鳴らし、その後を追っていく。


 しばらく行くと、整地されたキャンプ場の中に何羽ものカラスの姿が見え、鳴き声が木霊していた。


 男は顔をしかめて、進んでいく。


 徐々にその全体像が分かるにつれ、男はハッと息を飲んだ。一羽や二羽ではないと思っていたが、開けたキャンプ場の一角に数十羽のカラスの大群がいたからだ。特に大きな樫の木の枝には、ずらりとカラスが止まり、鳴き声を競っていた。


 それに対峙したハテナが、猟犬の臭覚を発揮するように真っすぐ木の根元を見つめて吠えていた。


 男は周囲を見回しながら、飼い犬に近づいて行く。


 予想していた光景はなく、周囲を見回しても何の死骸もない事に少し、胸を撫でおろす。


「ハテナ、どうした?」


 男が犬の頭に手を置いて声を掛けた。


 ハテナは視線を飼い主に向け、また樫の太い根元へ戻した。


 その時であった。


 男が近づいて来たのを察知したかのように、サイレンのような赤ん坊の泣き声が林の中に木霊して、一斉にカラスが飛び立った。


 男は驚き、思わず声を上げ、尻もちをついた。


 弾かれたように、ハテナが木の根元に向け走り出す。


 男は立ち上がり、緊張した足どりでハテナを追う。その様子を周囲の枝に舞い戻ったカラスが見下ろしていた。


 赤ん坊の泣き声に導かれるように近づいて行くと、木の根に布に包まった生後半年位の赤ん坊がいた。


「……」


 周辺を、ハテナがうろうろと歩いて、飼い主と赤ん坊を交互に見ている。


 男が近づき、抱き上げると、赤ん坊は泣くのを止め、大きな瞳で男を見つめていた。そして、嬉しそうに笑みを浮かべるのであった。




 授乳を終えた恵奈えなは胸を仕舞い、娘を抱きかかえ、揺さぶり始めた。そこへ車のエンジン音がして庭先に止まる。


 玄関のドアが開く音、慌ただしい足音をさせ、廊下を走って来て寝室のドアを開けた夫の雅史まさしが顔を出した。


「大変だ」


 雅史は両手に抱えた赤ん坊を突き出して、恵奈に見せた。


「ど、何処の赤ん坊?」


 恵奈は思わず顔をしかめた。夫が他所で作った赤ん坊だという想像が瞬時に廻ったからだ。


「キャンプ場の先の森の中にいたんだ」


「じゃあ、畑中さんの子じゃあないの?」


「いや、あの夫婦はシーズンオフの今は、キャンプ場にはいない。ていうか、あんな森の中に赤子を置き去りにしないだろ。この子、樫の木の根元にいたんだぞ。カラスに喰われそうになっていた。いや、あれは守っていたのか……とにかく奇妙な光景だった」


 雅史は先ほどの光景を思い出して、身震いした。


「じゃあ、この子はどこから来たの?」


 恵奈がもっともな質問をした。


「恐らく、鷹か、鷲にでも連れ去られたんじゃないか?」


「そんな馬鹿な……」


 恵奈は呆れた。


「いや、あるんだよ、そう言う話が。昔から猛禽類は人間の子供を攫うって事が」


「ふーん……で、どうするの、その子は?」


 恵奈はさして興味の無さそうに頷いて、聞いた。


「勿論、駐在所に届けるさ。親御さんもさぞ心配しているんじゃないか」


「そりゃあ、そうよ」


「けど、今日は窯出しの日だ。下へ降りて行けん。どうしよう?」


「貸して」


 恵奈が右腕に自分の子を抱き、左腕を広げるので、雅史は自分の子を引き取って拾ってきた赤子を手渡した。


 恵奈は布に包まれた赤子をまじまじと見つめた。それに答えるように赤ん坊も恵奈を見つめる。


「赤ちゃんのくせにしっかりとした眼差し。何かを訴えているような……」


 白く済んだ瞳を見つめながら、恵奈は囁くように言った。


「可愛い子だよな、ほんと。ここに来るまでいっさい泣かないんだぜ」


「この布、高そうな布。きっとお金持ちの子よ」


 赤子を包んだ布を見て、恵奈は言った。


「しかし、妙だよな。どうしてあんな所に?」


 雅史は自分の子を揺さぶりながら首を傾げた。


「ねえ、この子、家で育てない?」


 不意に恵奈が言った。


「えっ?なに言ってるんだよ?そんなこと、出来るわけないだろ。親御さんの気持ちも考えてみろよ」


「きっと捨てられたのよ。じゃないと説明がつかないじゃない。こんな山の中に……」


「だとしても、警察に届けないと誘拐とかになるんじゃないか?そんな勝手なことは許されないだろ?」


「きっと大丈夫」


 恵奈は確信めいて言う。


「何が大丈夫だよ?ダメダメ、そんなこと出来ない。大体、もし仮にうちの子として育てようとしたって、戸籍とか、出生証明書だってないんだ。学校にも行けないじゃないか」


「学校なんて行かせなくてもいい。それに誰かが名乗り出てきたら、返したらいいし」


「そんな、いい加減なことできない。なに言ってんの?」


「……でも、この子がこの家に居たいって言ってるし」


 恵奈は胸の中の赤子をじっと、食い入るように見つめる。


「赤ん坊がそんな事いう訳ないだろ」


 雅史が怪訝な顔で妻を見つめた。


「フフッ、そうね……でも、今日一日はこの家に居られるんでしょう?駐在所に行くのは明日にしてさ」


「ん?ああ……まあな」


 恵奈に見つめられて、雅史は気圧されるように頷いた。




  *       *       *       *




 ―二年後―


「いいか、これが括り罠と言って、この罠を山の中の獣道とかに仕掛けておけば獲物がかかる」


 庭の片隅で、雅史と小さな男女の幼子が、ひと固まりになって、しゃがみ込んでいた。


 その様子を縁側で、裁縫をしている恵奈とその下で、ハテナが寝そべって見守っていた。


「こうして、この部分を土の中に埋め、これを踏んだ獲物の足にワイヤーが締まり、捕まえられる。こうなったらもう足を切って逃げるしかない」


 雅史の言葉を、二人の幼子が熱心に聞き入っている。


 あれから二年の年月が経っていた。


 拾ってきた男の子を我が子として育てることとした夫婦は、その子の名を『兆』とした。


 「なぜか、その子を見ていると、ふと頭にその名が浮かんだの。まるでその子が訴えかけているように……」


 恵奈がその名を口にした時にそう言った。


 この二年、なんとか、バレずに兆を育てることが出来たが、これから成長するに従って問題は山積みなのである。


「犬猫じゃないんだ。このまま成長していけば、学校へもやらんといかん。この子には、この子の将来がある。この国に生まれた人権がある。俺たちはそれを踏みにじったんじゃあないか」


 という後悔。


 だが、それとは別に兆が成長する姿を見ていると、八東やとう夫婦は確かな幸福がそこにある事を実感できる。特に娘の舞は兆と双子の様によく似ていて、仲が良く、片時も傍から離れない。


「よし、これから罠をしかけに行くぞ」


「オーッ」


 雅史の言葉に二人の子供たちは手を挙げて答える。


「暗くなる前に帰って来るのよ」


 縁側に座り、繕い物をしていた恵奈が言った。


 三人は家のある敷地から急な坂を軽トラに乗って、罠を仕掛けに林道へと入っていくのであった。


「ダシィ」


 幼い舞は、兆をそう呼ぶ。


 隣の兆の手を取って微笑み、兆もまた微笑み返し、舞の手をギュッと握り返す。


 軽トラを林道の陰から見送り、入れ替わるように二人の男が、八東家へ向かう坂を登っていく。


 それに気づいたハテナが、突然けたたましく吠え始めた。


「どうしたの、ハテナ?」


 恵奈がハテナの視線を追うと、スーツを着た二人のサラーリマン風の男が、坂を上り切り、家の敷地内に入って来るところだった。


「ああ……」


 恵奈の心に、言いようのない不安が広がっていく。すると、男二人は忽然と恵奈の視界から消えた。




 太陽が山の後ろに隠れ、カラスが巣に帰って行くと闇が瞬く間に山中に広がっていく。


 八東家の古民家にも夜の帳が下りていた。


 軽トラが坂を登ってくる。荷台にはキノコや山菜が入ったカゴが積まれていた。


 軽トラが停車し、ドアが開くと兆が車から滑るように降りて、後から降りる舞に手を貸す。


 軽トラは車庫に向かう。


「ママ?」


 舞が叫びながら、玄関へ入っていく。


 兆は微妙な空気の変化を感じ、立ち止まった。


「ママ?……マッ」


 家の中で、舞の声が止んだ。


 兆は舞の元へ走っていき、二歳とは思えない動きで框を越え、居間へと入った。


 そこには聳えるようなシルエットが二つ立っていて、今にも泣き出しそうに舞は震えていた。


 年配の男が兆の顔を見て微笑んだ。 もう一人は、静かに兆を見下ろすだけだ。


「やけに静かだな?……お母さん?恵奈?どうかした?」


 玄関で雅史の声が聞こえてきて、兆が僅かに振り返った。少しすると、雅史は居間へとやって来て絶句した。


「なんだ、あんたら?」


 慌てて、居間へ上がりこむ。


「ダメッ」


 兆が叫んだ。


 若い方の男の腕が、振り上げられると光る得物が、蛍光灯の明かりを反射した。


 

 兆はハッと目を覚ます。


「ええ……それではこれより、一年のカリキュラムを説明します」


 教師の声がした。


 息を吸い込むと、真新しい制服の匂いがして自分の現在いまを思い出す。 視線を感じ、ふと横を見ると、隣の席の女生徒が兆を見て微笑んでいた。


「……まず最初に、我が大佛おおふつ高校の校訓の話をしたいと思います。皆さん、配られた生徒手帳の一ページ目を開いてください」


 教壇から響く教師の声と、春の陽気が再び眠気を誘う。


 夢と現実の狭間のような意識の中で、兆はさっき見た夢がなんだったのかを思い出そうとしたが、やがて諦めた。


 しかし、とてもリアルな夢のような気がしていた。

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