第2話 江戸前寿司

 イワノフは宮部と対峙し、しばらくだまっていた。時刻は二十三時。しばらくしてイワノフは言った。


「この話はまだ公開しなくてもいい、事前準備というものが必要だからだ」


「それはそうでしょう。ここまでの話では」


「私はロシア人だが寿司は好きでね。だが、江戸前寿司なんてものは食わない。なぜかわかるか?」


「さあ。銀座あたりで高いのにおいしくないとか、そういことなら」


「美味しいさ。なぜなら、東京湾は奥まっているだろう。魚っていうのは、栄養分がないと生きていけない。アジだって、内湾でとれたもののほうが美味しい。外海でとれたアジなんて、食えたものじゃない。だからといって汚染がひどくてもだめだが、かつての江戸湾は町人たちの排出物でちょうどいい汚染具合だったわけだ」


「というと?」


「日本が高度成長期に二度の水銀中毒事件をおこしただろう。もちろん、有機水銀が原因であることにはちがいない、しかし水質検査データを見たことはないだろうが、日本中どこでも水銀汚染なんて内湾でおきていたし、水銀濃度もその地域と同程度だった」


「ではなぜ?」


「答えはわかってるが、言えないよ。ただ、遺伝的問題があったということは専門家の調査でわかっている。その専門家とやらだって、普段は口にはしないさ。ヒジキの含有ヒ素なんてものは欧州で規制されてるが、それも遺伝的問題だよ」


「そうか、ならそれ以上は聞かないが、なぜ江戸前寿司を?汚染ということですかね」


「まあ、そういうことだよ。東京湾には関東中の川が集結して排水される。福島で原発事故があっただろう、あのとき、なぜ東京湾で放射性同位元素の濃度が高かったか。それはつまり、原発が水素爆発した夜、関東中に降り注いだ雨に放射性元素が含まれ、谷を流れ、それが東京湾に流れ込んだということだ」


「なら、いやだというのはわかりますが」


「いや、その程度の放射性同位元素の濃度なら、わたしは普通に食うよ。低濃度の放射性元素なんぞより、有機化合物の方がはるかに怖いんだよ。まあ、モノによるが、放射性物質を蓄積するキノコ類なんてのは危ない。それをくうイノシシなんてのはどうか分からない。だが、たいていの猛毒は有機物質さ。湾の海底にはどんな有機物質が含まれてるかわかったもんじゃないってことだけだ。フグ毒だって有機物だ。養殖物には含まれていない」


「そういうことですか…」


「まあ、人間いつ死ぬかなんてわからないし、原因だって結局は分からないひとが多いんだから、気にしないひとはそれでいい。日本人は海産物を歴史的に口にしてきたから、重金属汚染に耐性を持つ人は多い。要するにこれも遺伝的問題さ。マグロなんて水銀たっぷりだが、ないことにしてみんな食べてるだろう。だから、日本人の頭髪には水銀が有意に多い。たいていは無症状だが。まあ、例の水銀中毒を起こした地域は別だが。ヒジキなんか欧州じゃあ、口にするのもはばかられる。海鮮通のわたしだってマグロもヒジキも日本人ほどは食べない。


 だが、江戸前のアナゴは羽田で捕れる。羽田空港から発着する旅客機の数なんて、どれだけ多いか。ジェット燃料の廃棄物がどれだけ海水を汚染してるかなんて、わかりゃしない」


「それと、今回の原発となにか?」


「東京湾で捕れた魚類は流通禁止ということにしてしまえよ。どちらにしたって、原発のせいにされるんだから」


「漁業者の反対が予想されますが…」


「保証金でなんとかなるだろう。魚より電気がほしい連中のほうが多いに決まってる。それにわざわざ江戸前にこだわる食通なんぞ、少数の金持ちだろう。今まで東京は地方にそういうことを押し付けてきたわけだから、今更、反対する連中にはそういう論理で突き崩せばよい」


 宮部はうなずいた。


「ならそれでいい。わたしは東京湾で捕れた貝類なんて食わないが、だからといって毒性があるかないかなんて証明はむずかしいわけだ。だがお台場の海水を浄化するためにアサリをまいたのは知る人ぞ知る話だ。よろこんで潮干狩りしてる連中はいるがね」


「わかりました。首相におつたえします。準備はいかがなさいますか」


「わたしが直接、首相におつたえしたい。機会をもうけてくれ」


「わかりました」


 それからイワノフと宮部は、ビルを出てそれぞれ居宅にもどっていった。






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