ビルの上から女の人が落ちてきた

烏川 ハル

前編

   

 オフィスビルが建ち並ぶ大通りを、一人の男が足早に歩いていた。

 灰色のビジネススーツを着込んで、社名の書かれた封筒を小脇に抱えている。年齢は三十代前半くらいで、顔には疲労の色が浮かび、猫背というほどではないが、うつむき加減の歩き方だった。

 そんな男が、ふと足を止めて顔を上げる。何か落ちてくるような風切り音が、自分の真上から聞こえてきたのだ。

「……ん?」

 不思議そうに呟く男の視界に入ったのは……。

 ビルの屋上から飛び降りた女性の姿。狙ったわけではないはずだが、ちょうど男にぶつかりそうな落下コースだった。


「うわっ!?」

 男の口から、焦りの声が飛び出す。

 頭では「このままでは投身自殺に巻き込まれる! 早く逃げなければ!」と考えるものの、体は恐怖で硬直してしまい、一歩も動けなかった。

 見上げた姿勢のままなので、自分に向かって落ちてくる女性の姿は、視界の中でどんどん大きくなり……。

「……!」

 今まさに衝突しようとした瞬間。

 落ちてきた女は、煙か幻のようにスーッと消えるのだった。


「……あれ?」

 男は呆気に取られたが、自分の口から漏れた呟きを耳にして、ハッと我に返った。

 周囲を見回してみると、自分以外にも通行人の姿はあるけれど、誰も今の騒動なんて気にしていない。目にも入らなかったという様子で、普通に歩いている。

「ああ、そうか。今のが見えたのは、俺だけなのか……」

 だからといって、自分の幻覚だったとは思いたくない。

 ならば、おそらく今のは幽霊だったのだろう。飛び降りて亡くなったけれど成仏できなくて、だから地縛霊となって、その死に際の場面を繰り返しているに違いない。

「フフフ……。幽霊が見えるだなんて、いつのまにか、俺には霊感が備わっていたらしい」

 先ほどの恐怖など忘れて、男の顔に笑みが浮かぶ。

「でも霊感なんて、俺の仕事の役には立たないよなあ」

 自嘲気味に呟きながら、男は再び歩き始めるのだった。

   

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る