第121話 備忘録CaseIX・紅蓮と赤き蛇②レミィという女
「貴方、そのままだと死ぬわね。どうするの? 死んじゃうの? 本当に?」
けらけらと
その声にあまりの恐怖で我を失っていた五十六の目に再び、光が宿った。
「望めばいい。そう。心が望むままに。貴方の心に浮かぶものを」
女だったモノが「あ゛あ゛あ゛あ゛」と声にならない声を上げ、片足を引き摺り、今まさに目の前に迫らんとした。
五十六は藁にも縋る思いで頭上から聞こえる女の声に従った。
危機的な状況にありながら、心を落ち着かせる。
それは普通に考えれば、常人には決して成し遂げられるものではない。
心臓は焦りと恐怖で激しく鼓動する。
その中でひたすらに心を奮い立たせ、落ち着かせることなど出来ようはずもない。
しかし、不思議なことは起こる。
五十六の心にイメージが浮かんだのだ。
初めは小さな種火如く、静かに燃えていた。
それが次第に激しく、より大きく燃え上がっていく。
天をも焦がさん勢いの紅蓮の炎が五十六の心の中で吹き荒れた。
それを思い浮かべながら、五十六は右腕を思い切り突き出す。
左の手で右の手首を支えるように副えると迫りくる狂える屍に向け、勢いよく突き出したのだ。
「燃えてしまえよ!」
五十六の口からすんなりと自然に出た言葉と共に彼の掌から、激しい炎が噴き出した。
紅蓮の炎は全てを燃やさんとする勢いだった。
まさに『烈火』の力にふさわしい火力である。
……などということはなかった。
ぷすんと着火を失敗したかのように軽い音がしただけで五十六の掌から、出たのは炎と呼ぶにはあまりにも小さい種火にもならない火だった。
さながらマッチが燃えた程度である。
「あ゛?」
女だったモノも何かが来ると身構えていたのか、知能と理性と感情を置いてきたはずの動く屍らしからぬ拍子抜けした顔を晒す。
「あ゛あ゛あ゛あ゛」
そして、怒った。
無駄に怖がらせた罰とでも言わんばかりに五十六に襲い掛からんと迫ったが、
汚れ、伸びきった爪を五十六に突き立てんと振りかぶった瞬間、彼女の体は青白い炎に包まれ、消し炭も残さず消えた。
「んっふふふふ。あっははははは。貴方。ホントに面白いわ」
先程まで頭上から発せられていた嫋やかな声が突如、狂乱の色を帯びる。
はっとした五十六が思わず、見上げるとまさに舞い降りんとする天使の姿がそこにあった。
正確には街灯の上に立っていた女が、そこから飛び降りたのである。
物理法則と重力を無視した動きでゆっくりと降りてくる姿はまさに降臨したと形容するにふさわしい。
だが、その女が五十六の思うような天使であるかは疑わしかった。
決して蠱惑的な笑みを絶やさない。
しかし、五十六の姿が反射して映った仄かな輝きを見せる黄金色の瞳には侮蔑が含まれている。
五十六は全く、疑念を抱いていない。
「あ、あんたは一体……」
五十六がようやく絞り出すように声を上げた。
立て続けに起こる不思議な現象で圧倒されたからではない。
舞い降りた女の美しさと
黄昏の色を纏った女の長い髪はいわゆるローポニーテールでセットされていた。
ただのローポニーではなく結んだ髪の先を二つに分け、編み込む二つ編みになっている。
鼻筋が通り、奥目がちなことから東洋的ではなく、西洋的な人種に近い顔立ちなのが分かる。
整った容貌は単に美しいというよりも妖艶さを伴う美の持ち主だった。
だが、妖艶さとは真逆の幼い少女のような印象を与える大きな目が目立つ。
アンバランスという言葉が相応しい。
しかし、何よりも五十六の目を釘付けにしたのはその恰好である。
目にも鮮やかな紅の色をしたチャイナドレスが、女の透けるような白い肌と相まって、絶妙なコントラストを生み出していた。
深く入ったスリットから、女の白い太腿が見え隠れしただけで五十六の鼓動が自然と速くなる。
さらに刺激的なのは挑発する為としか思えない大きく開けられた胸元のデザインだった。
零れ落ちそうな果実と深い谷間がまるで五十六を誘っているかのようだった。
「あたしは
「あ、あざっす! って、何がです!?」
慌てふためき、いつもの調子を取り戻した五十六は少しばかり、おどけて見せるがレミィと名乗った女から、目を離すことが出来なかった。
まるで魅入られたかのように……。
WACAが経過観察の必要性がある特異な
様々な勢力からの干渉があると予想された。
観察するだけではなく、彼らを効果的に守らねばならないと考えたWACAは、必要に応じ『上級』以上の『あやかし』を直接、送り込むことを決めた。
覚醒したばかりにも関わらず、
これに興味を持ったのがサシャと同じく副理事長の立場にありながら、独断で動き協会には非協力的だった
彼女もまた普通の人間ではなく、高位の『あやかし』であり『世界を動かす者』と同族のヘブライに属している。
「この子、美味しそうよね? 貰ってもいい?」
アゼリアはどこか呆れ気味にサシャは明らかに焦りながら、レミィを止めようとした。
だが、時すでに遅しである。
捨て台詞と共に既にレミィの姿はなく、グリゴリを伴い五十六のところへ向かったのが明らかだった。
「ま、まぁ。仕方ないな」
「仕方ないで済ませては困るのだがね。我らは務めを果たさねばなるまい。彼女はどうもそれを理解していない」
サシャはそういうと癖なのか、眼鏡をしきりに直す。
「君は本当に頭が固いね。でも、彼女の性格はアレだが腕は確かだよ? なるようになるさ」
「それは認めよう。しかしだな」
アゼリアとサシャは水と油のようだ。
しかしながら、この二人。
正反対の考えと言動を持ちながら、互いを認めていた。
その証拠にサシャは愚痴をこぼしつつ、レミィが五十六の守護者として正式に赴任する書類を
素直ではない相棒に生温かい視線を向けながら、アゼリアは琥珀色の液体を流し込む。
そのまま、惰眠を貪ろうとしたところでサシャに雷を落とされることになるのだが、それはまた別の話である。
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