第105話 備忘録CaseVIII・チハルとヨウコ①

 チハルが夢の世界で『名もなき島』に滞在を始めてから、三月みつきあまりが経過している。


 彼女の生きていた世界には存在しない見慣れない異形の者具現化したあやかしに囲まれ、言葉が全く、通じない環境に放り込まれた。

 当初は言い知れぬ恐怖による怯えと誰も知らない場所による孤独から、自分の殻に閉じこもったチハルだが時が経つにつれ、借りて来た猫ではなくなった。

 売り物としている持ち前の前向きな思考回路は伊達でなかったらしい。


「そう。あてしはチハルだよ」

「ちいい……はあ……るう」

「そう。チハル」


 全身に棘状の突起物を生やした多肉植物の如き、見た目でありながら、鋭い牙が生え揃ったワニに似た長い口吻のような器官と二本の長い触腕を備えた奇怪な生物を相手にチハルは自分の国の言葉を教えていた。

 既に人に近い姿をしたあやかしとは一定のコミュニケーションを取れるようになっている。


 ただ、これはチハルがコミュ力お化けと呼ばれるポジティブな考え方の持ち主だから、そうなったと考えるのはいささか早計である。

 夢の世界に顕在化した『名もなき島』の住人はユリナの考えに賛同し、この計画に自ら参加してくれた者だった。

 彼らは元より、人間に友好的な存在であり、チハルを受け入れる姿勢でいたのだ。




 チハルのスタイルは提灯小僧に似たところがある。

 見知らぬ他者と一気に距離を詰める。

 確かにコミュニケーション能力が高いと言えなくもない。

 その方が対外的にも聞こえはいいだろう。


 だがチハルの場合、相手の感情や心を全く、かんがみないところがあった。

 我欲の欲するままに一種の図太さを兼ね備えた距離の詰め方をした。

 それは時にあまりにも図々しく、憎々しい態度と捉えられがちな言動である。

 あくまで己を後回しにしようとする提灯小僧と比べれば、人の恨みを買っても仕方がなかった。




 『名もなき島』の一日は日が沈めば、自然と終わりを告げる原始的なものだった。

 大陸では既に一般家庭でも魔石を応用した便利な魔道具が普及している。

 夜が訪れようとも昼の如き、明るさを保った生活がある程度は送れるようになっていた。

 しかし、絶海の孤島にはそれは不要な物だった。


「お母さん……ごめんね……」


 自室としてあてがわれたゲストルームで宵闇に包まれながら、チハルはベッドの上で一人涙する。


 チハルの母・陽子ようこは女手一つで彼女を育てた。

 ヨウコがチハルを妊娠したのは大学に籍を置いている頃だった。

 当時、ヨウコは大学の先輩・多田 穣ただ みのると交際していた。

 予期せぬ妊娠だったがヨウコにとって、これほど嬉しいことはなかった。

 彼女には家族が一人もいない。

 最後の家族だった祖父も他界し、天涯孤独の身の上となっていた。


 血の繋がった新たな家族がどれだけ、嬉しいことなのか。

 付き合っていたミノルも同じように喜び、ヨウコは学生結婚をすることになった。

 彼は大学を卒業し、新社会人になったばかりだったが「責任を取るから」と籍を入れることにしたのだ。

 結婚式を挙げる余裕はなかったがそれでも二人は幸せだった。


 折角、入った大学だったがヨウコはきっぱりと諦めた。

 少しでも家計の足しになるようにとパートに入る為だった。


 翌年、ミノルとヨウコの一人娘・知陽ちはるは無事に生まれた。

 決して楽な生活とは言えなかったが若い夫婦は笑顔で互いを励まし合い、チハルに精一杯の愛情を注いだ。


 しかし、幸せはいつまでも続かない。

 チハルが三歳の時、ミノルは不慮の事故により他界する。

 余所見運転をしていた運転手がブレーキと踏み間違え、アクセルを踏んだ。

 運が悪いことに踏み間違いを防止するシステムを積んでいなかった。

 ありえない速度で歩道に突っ込んだ先にいたのがミノルだった。

 即死だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る