第39話 茅の輪くぐりって知ってますか?

 数日前にある神社の分社ぶんしゃの前を通ったら鳥居に大きな緑色っぽい輪っかがつけられていた。一瞬何かと思ったが、「くぐりの本物を見るのが始めてだったので見入ってしまった。


 茅の輪くぐりは、6月の末と12月の末に、特定の神社で行われる行事なんだが、なぜこれを「年二回」行うのかは、諸説ある。

 1つ目は「今の1年を2年として計算していた説」なんだが、なんでそんなことを言うのかが、邪馬台国やまたいこく明本バージョンだったかに載ってる「倭国では人が100近くまで生きる」っていうことを年の数え方が違ったというものと考えたらしいのです。

 私は次の二説の方を押したいんですけれども「邪馬台国のその記述に合わせて風習を作ったんじゃなかろうか?」というなんです。元々魏志ぎしには東夷伝とういでん倭人わじんこうという東夷の一つとしてしか見られていなかった。それを宋や明の人間がこねくり回したから余計に話が分からない。

 でもおそらく明治政府は卑弥呼ひみこを大和に関係する人物としたかったから、強引に卑弥呼の年代を下げようとしたんだと思う。


 私は卑弥呼と呼ばれた人物の正体は、「飛騨王朝ひだおうちょう」と呼ばれる日本最古の王朝のことだと思っているので、大和論にも九州論にも属していない。


 ほかにも明らかに三内丸山遺跡さんないまるやまいせきからわかるように、いくつかの王朝があって、今の形になったのだと思っているのでも信用していない。

 単一民族なら、農耕民に多いA型、遊牧民に多いB型、狩猟採集民に多いO型と数がまちまちすぎている。


 魏志東夷伝倭人の項には、「倭国わこく大乱たいらん」という言葉もあるが、これは倭国に「何かがあって」100以上あった小国が30ほどに減ったというものである。

 これを昔は戦争と考えられていたらしいが、今から約5000年前と後では、日本国内の人口分布に違いがありすぎる。

 ずっと九州は人口が過疎に近かった。そしてその分、信濃あたりに人口が多かったのだが、それ以降になると、突然信濃にいた人口が激減している。

 鹿児島のどこかに、20人程度の、ポンペイのように焼けたであろう村の跡が見つかっているが、同様に富士山か木曽御嶽山きそおんたけさんの噴火ではなかったかと考えている。そこに書かれていたのは大乱たいらんであって大戦たいせんではないからである。

 実際今現在でも面積を大きくしている島もある(西ノにしのしまとか)、オカルトでなく、自然現象、でないかと私は考えている。

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