09.逢引の夜(強制) 前

 ジョシュアはその場で凍り付いていた。


――君、大丈夫?


 つい先程、周囲には人の気配もない事をジョシュアは確認したばかり。それだというのに、突然目の前に湧いて出た男の気配に頭が真っ白になった。


「ねぇ」


 優しげな口調で問われる。けれどもジョシュアは答える事も出来なかった。この男の匂いは、先程酒場で感じたものと同じである。

 この男は人間ではない。そして、ジョシュアより何倍も格上である事は疑いようもなかった。


「君、人じゃないっしょ? 俺とおんなじ」


 男にそう言われた途端、ジョシュアの心臓が跳ねた。案の定、正体を見破られている。俯き一言も声を発することの出来ないでいるジョシュアをよそに、男の声は随分と弾んでいた。


「大丈夫だよ、多分俺も君と同じだからさ」


 男はそう言うと、ジョシュアの顔を覗き込むように目の前でしゃがみ込んだ。

 “同じ”だと言われても、安心などできるはずがない。何せジョシュアは、ミライア以外の同族とは会ったこともないし、彼女との話に出たことすらないのだ。


 この男の言葉を信用する理由なんて、今のジョシュアにはないのだ。どうすれば良いのか分からない。ジョシュアはただ震えるばかりだった。

 その時だ。男の手が、不意にジョシュアの頭上へと伸びた。びっくりとして顔を引くが、すぐに壁にぶち当たってしまう。


 今更後悔したとしても遅い。逃げられもしない。

 そのままフードに男の手がかかり、ジョシュアの最後の砦であるそれが取り除かれてしまった。


 フードの中の暗がりから一転、ジョシュアの視界が明るくなる。すっかり暗くなった夜でも、吸血鬼であるジョシュアには男の姿が嫌と言うほど良く見えた。


 男は、どこかミライアの雰囲気を思わせる赤毛の男だった。肩甲骨に届きそうな程に長い髪を後ろで括っている。鍛えても程々にしかなれなかったジョシュアとは違って、体格のガッチリとした大柄な男だった。


 男もまた、ジョシュア達と同じように苔色のフードローブをその身に纏っている。ただ、こんな真っ暗な中で油断しているのだろうか。そのフードは外され、男の嫌味なほどに整った顔立ちが露わになっていた。


「あれ? 男?」


 男からどこか素っ頓狂すっとんきょうな声が飛び出る。何をどう間違ったのか、この男はジョシュアを女だと思い込んでいたらしいのだ。

 自分の背格好が小さいのだと思いたくはなかったが、ミライアやこの男を見ているとジョシュアは自信がなくなる。標準的であると自負してはいるし普段は考えもしないが。

 こうも違いを見せ付けられると傷付く。ジョシュアは勝手に凹んでいた。

 けれども、次に飛び出した男の言葉に、再び仰天する事になる。


「おっかしいなぁ、俺が匂いを間違うなんて……ま、別にいっか。ねぇ君、俺と遊ばない?」


 その言葉にジョシュアの顔が別の意味で引き攣った。

 恐らくは女性を誘うつもりで追いかけてきておいて、男だと判っても尚、「別にいっか」だなんて。一体どういう意味で“遊ぼう”などと言うのだろうか。ジョシュアの頭の中でぐるぐると常識が揺らぎ出す。


 吸血鬼は、戦い好きで性には奔放ほんぽうで単独行動を好むと、ジョシュアはミライアから聞いていた。行動を共にする吸血鬼達も居なくはないが、まれな事らしい。余程仲が良いのか、でも残っているのか。


 吸血鬼というのは随分と個体差が大きい。ジョシュアはその時、自分の事を棚に上げ、まるで他人事のようにそう思ったものだったが。こうして目の前にすると、それがよくよく理解できた。ミライアとは天と地ほどの差がある。


 と、半ば現実逃避のようにジョシュアは考えていた。このまま黙っていたら諦めて他所へ行ってはくれまいか。決してそんな事はなさそうであるが。祈らずにはいられなかった。

 けれどもちろん、現実はそうもいかない。


 黙り込んでしまったジョシュアに、男は随分と慌てた調子で再び口を開いた。


「いやいやっ、俺さ、これでも男にも女にもモテんのよ! あ、人間にもだけど同族にもね! ハジメテでも天国見せたげるからさぁ、ね? ね?」


 ただ真顔でいるだけで、顔が怖いやら無愛想やらとジョシュアも随分と言われてきたものだったが。この男には全くしないようだ。

 狂気だ。この世には摩訶不思議まかふしぎな事がそこら中に転がっている。自分は生き返る世界を間違えたらしい。

 ジョシュアは大層混乱していた。


 それでも無意識にジョシュアの体は自然と動いてくれて、必死に男から距離を取ろうとする。座り込んでしまったせいで微々たる抵抗に過ぎないだろうが、何もしないよりはマシである。

 怖いものから逃げるに限る。逃げ切れるとは限らないが、精神衛生上は正解であるに違いない。

 長年のハンター生活は無駄ではなかった。ジョシュアは半ば本気でそう思っていた。無表情に磨きがかかる。


 けれども男は諦めなかった。何をそんなに必死になっているのか、座り込んでいるジョシュアの上から覆い被さるように壁に手をついてきたのだ。焦ったような声が頭上から降ってくる。


「あ、待って待って! ねぇ、君の事何て呼んだらいい? 教えてよ」


 のけ反りながら何とか逃げ道を探す。けれど男は随分と用意周到のようで、上も横も道を塞ぎながら距離を縮めてきたのだ。

 上も横も、男の腕や木箱に塞がれている。しゃがみこんでしまっている為に下も塞がれている。逃げ道なんてもう、どこにもなかった。

 ジョシュアは己の失敗を自覚した。


(まずいまずいまずいっ)


 こう言う肝心な所で、ジョシュアはいつも失敗する。油断するなと言われても限度がある。彼はただ、間が悪いだけなのだ。


「大丈夫大丈夫、そう怯えないで? ちゃんと、ヨくするから……あー、良い匂い、」

(!?)


 ジョシュアは内心で悲鳴を上げた。

 顔を近付けられ、声を掛けられている内に何故だか、男の目付きがだんだんと怪しくなってくるのに気が付いたのだ。


 まるで熱にでも浮かされたような、どこか焦点の合わない目。そんな状態のまま、男はますますジョシュアに顔を近付けてくるのだ。すん、と鼻を鳴らすような音がすぐ顔の近くで聞こえてくる。


 そこで唐突に、ジョシュアは我慢の限界を迎えた。

 脳天を突き抜けるようなその衝動のままに、力の限り握りしめたその拳を男の顔面へと思いきりぶち込んだ。


 鈍い音を鳴らし、男の頭は後頭部から地面へと勢い良くめり込む。呻き声が上がったような気もしたが、ジョシュアの耳には全く入らなかった。まるで血液が逆流するような感覚で、不思議と他の音が何も聞こえない。耳に入るのは、バクバクと音を立てる心臓の音ばかりだった。


 他に音は何も聞こえない。解放された。ジョシュアはふぅ、とひと息ついた。

 そしてすぐに我に返る。

 はて、今しがた自分は何をしてしまったのだったか。ほんの数秒前を思い返して顔を青くする。


 (恐らくは)同族相手にとんでもないやらかしをしてしまった気がした。やってしまった、とばかりに顔をしかめる。

 恐る恐るその拳を引っ込めると、そこには額から薄らと血を流す男が地面に転がっていた。無駄に綺麗な彫りの深い顔に、殴られたと一目でわかるようなあとがある。


 もしかすると世の女性たちが見たら卒倒するような光景かもしれない。そんな傷、血を飲めばすぐに治ってしまうようなものには違いないだろうが。

 一体どんな報復が待っているのやら。そう考えるとジョシュアは、その場で気絶しそうだった。


 赤髪の男はその一撃で完全に伸びてしまったようで、目を閉じたままピクリとも動かない。地面には放線状にヒビが入っていた。

 これぞ火事場のくそ力だなんて、ジョシュアは混乱の余りにそんなどうでもいい感想を抱きながら途方に暮れた。


 どうしたら良いかなんて見当もつかなかった。とっととその場から逃げ出してしまえば良かったのかもしれないが、意識のない吸血鬼(らしきもの)をここへ放置しても良いものなのかどうか。ジョシュアには分からなかった。

 無駄に考え時間を浪費し、彼はしばらくその場で立ち竦んだ。



「何をやっとるんだお前は……」


 その声が上から降ってきた時には、まるで天から救いの神でも現れたかのような気分だった。魔族がそんな表現を使って良いものかどうかは分からなかったが。


 兎にも角にも今のジョシュアは、にだって縋りたい気分だった。

 助けを乞うように頭上を見上げれば、そこには案の定、酷く顔をしかめたミライアがいた。彼女は屋根の上から、ジョシュアの方を覗き込むように地上を見下ろしていた。


「襲われでもしたのか」


 言うや否や、ミライアは屋根からふわりと飛び降り音もなく着地する。ブンブンと首を人形のように振りまくっているジョシュアを見もせず、彼女はすぐに昏倒している男に目をやった。

 その途端、彼女の眉間の皺が増えたのをジョシュアは目撃していた。


「一体何なんだこの状況は……ん?」


 そして突然、何かに気付いたミライアは、その場でジョシュアに驚くべき事を告げる。


「お前はよっぽど引きが強いんだな」

「は」

「コレは相当な変人だぞ。お前程度に逃げ場はない、諦めて一回喰われとけ」


 まるで先ほどのやりとりを見ていたかのような彼女のセリフに、ジョシュアは絶句した。

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