02.大禍時 後
彼女らの会話は、茶髪の小柄な女性がほとんど一方的に話しているようにも聞こえた。
「――ミラーカさんは大変面白いですね、色んなお話を聞かせていただけて嬉しく思います」
「そうかい?」
「あなたは一体、どういった方なのでしょう……私、どうしても、知りたいのです。……貴女のような素晴らしい方の事を、知らずにはいられない――」
「そんなに?」
「ええ……どうしても、知りたいのです……でないと、今夜は、眠れません……。私、何だって出来ます……貴方が望めば何だって、死ぬのも厭わないの、その辺の人を攫う事だってできるわ。……だって、貴女は普通の人ではないもの――」
聞き耳を立てていたジョシュアはハッと息を呑んだ。その異常性にすぐ気がついたからだ。
当然彼女らの表情なんて見えるはずも無かったが、話しかける女性の声音がどうにもおかしかった。
上の空のような、熱に浮かされたような。正気でない事は明らかだった。
そこでジョシュアのほろ酔い気分はあっという間に吹き飛んでしまった。一介のハンターとしての勘が何かを告げている。
怪しい二人組の女性達は、一体何の目的でこんな時間帯に彼女らだけで、街へと繰り出してきたのか。嫌な予感にジョシュアの体が強張った。
どう考えても怪しいのは黒髪の方だった。
巷に聞く魔族と呼ばれる者達の中には、人を操れる者もいると聞く。彼女らのどちらかが魔族だったとして、それが果たしてジョシュアの手に負える獲物なのかどうか。
到底そうは思えなかった。そんなのは、もっと高位のハンター達の仕事だ。けれども、これがそういうレベルの話なのかどうか、ジョシュアには判断がつかなかった。おまけに時間もなさそうだ。迷っている暇はない。
一か八か、仕方なくジョシュアはまず、酔ったフリをしながら一度宿の中へと入った。武器をその手にするためだ。
気配を断ちながら急ぎ部屋に戻り、ナイフを数本手して部屋の窓から彼女らの様子を伺った。彼女らはまだ、部屋の窓から見える位置にいる。それを確認して、ジョシュアは宿の裏口から再び外へと飛び出していった。
すぐに家の壁を伝い屋根の上へと登る。彼女らの話し声はまだ、ジョシュアの耳にも薄らと届いた。その声を頼りに、彼は慎重に後を追いかける。
ジョシュアの唯一得意な隠密用の魔術で、気付かれないよう、見られないように細心の注意を払った。
彼女らは繁華街を抜け、街の北の外れまで来てしまっていた。この先にあるのはポツリポツリと住宅が数軒。更に進めば、人の住まなくなってしまった廃屋が一軒と、そしてその先は街の外に繋がる街道へと出る。
街の周囲には、モンスター避けにと煉瓦造りの分厚い壁が張り巡らされており、今の時間は軽々しく外へ出ることはできない。ならば、彼女らが道を進む目的は一体何なのか。
ジョシュアは小さく舌打ちを打った。本当に、すっかり酔った女性を送り届ける為に二人で歩いていただけだったならどんなに良かった事か。
道を間違えたと言って、今すぐに道を引き返して街の方へと戻ってほしい。
しかしそんなジョシュアの願いも虚しく、彼女らは街から遠ざかるようにずんずんと突き進んで行った。一体このままどこへ行こうというのか。
見失なう訳にはいくまい、とジョシュアは内心で泣きながら、その後をコソコソと付いて行くのだった。
それから四半刻ほどは歩いただろうか。不意に、彼女らが、街道へと繋がる道から離れていくのを感じ取った。
姿を見られないようにと細心の注意を払っていた為、直接彼女らを視認する事はしない。
けれど、元々五感が優れている上に、使用している魔術の効果も上乗せされ、ジョシュアには彼女らの動向が手に取るように分かっていた。
彼女らが道を逸れたのは、ちょうど例の廃屋のあたりだった。周囲にそれ以外の建物はなく、その中へ入っていったのだろうと容易に想像がついた。そんな廃屋の中で一体、何を行うつもりなのだろうか。
高まる嫌な予感に武器を握り締めながら、ジョシュアは物陰から飛び出してその後を追った。
それと同時、ギィギィと嫌な音を立て、朽ちかかった扉の閉まる音が彼の耳にも届いた。
残り僅かな魔力を使って気配を完全に断つと、ジョシュアはそのまま玄関へは向かわずに家の側面へと向かった。
音を立てぬように慎重に近づき、半分以上割れている窓を見つけて中の様子を窺う。
そしてジョシュアは見つけてしまう。
窓より一歩分ほど離れたその位置に、例の女性達は居た。
ぼんやりと明るい月明かりに照らされ、彼女らは向かい合ってそこに立っていた。
黒髪の女は後ろを向き、僅かに顔の片側の輪郭が見えるだけ。その女は、茶髪の女性の耳元で何事かを囁いているようだった。
声までは何故か聞き取れない。しかし、それを聞いている茶髪の彼女の方はどこか恍惚として、目の焦点が合っていない。側から見て、その様子は明らかに普通ではなかった。彼女は正気を失っている。
その様子にゾッとして、ジョシュアは一層手元のナイフを強く握りしめたのだった。
それから間も無く、黒髪の女はひとしきりクスクスと笑ったかと思うと。
何とその場で、牙を剥き出しに女性の喉元に喰らい付こうとしたのだ――!
身の毛のよだつようなその光景に、ジョシュアは腹を括った。
残ったありったけの魔力を引っ張り出し、己の体を強化して窓を破りながら侵入する。その音に気付いた女は目を剥き振り向いたが、ジョシュアは止まらなかった。
手にしていたナイフで女の首を狙って一閃。しかし、それはものの見事に避けられてしまった。
女はどうやら相当の手練れらしい。
自分とこの女との間には埋められない実力差がある。ジョシュアはそのたった一撃で気付いてしまった。
避け様に上を見上げて嗤う女の、楽しそうな表情を見て、ジョシュアは悟る。逃げられはしない。ああここで自分は死ぬのかと。
それをまるで他人事のようにそれを受け入れながら、ならばせめてこの女性だけでも助けなければと思う。
当人が自覚している以上に、彼はお人好しらしかった。
穏やかで物腰柔らかく臆病で、しかし内に秘めた思いは誰にも知られることもなくずっと、夢を見つめて激しくくすぶっていた。
予め手元に用意しておいた煙幕を叩きつけ、彼は女性を抱えて廃屋の外へと無事に脱出を果たした。あの煙幕が女に対してどれほど効果があるのか。まったくもって分からなかったけれども。少しでも時間を稼げる事を願うばかりだった。
女性を抱えながら廃屋から離れる途中、抱き抱えた女性の方から声が聞こえた。彼女が無事であることにホッと胸を撫で下ろした。
「――え……あ? 私、一体なにを……?」
「怪我は、ないか?」
自分の腕の中で混乱する女性に声をかけながら、出来うる限りの全力でその場を離れる。いつ追い付かれるか、そもそも逃げられるかすらも分からない中で、ジョシュアは顔に出さずとも必死だった。
「え、ええ、大丈夫みたいです。私、何故こんな所に――?」
「覚えていないのか? あの女、ミラーカだったか……あんたを多分、食おうとしてたんだろうな。今逃げてる最中なんだ。走れそうか? このままだと、あの女に追い付かれる」
「そんな……え、嘘、だってあの人は……」
「信じられないかもしれないが、すぐにわかる。アレは多分、ヒトですらない。魔族か何かか?」
「っ!」
廃屋から少しばかり離れた事を確認し、ジョシュアはその場で彼女を地面に下ろした。しかしその間も女の気配を確認する事は忘れず、ジョシュアは周囲を警戒する。
「走れるか? このまま俺の前を走っていてくれ」
少しばかりふらふらとするようだが、その足取りはしっかりとしている。ジョシュアはそれを確認するとすぐに彼女の手を引き、前を走るようにと促した。
このままではすぐに追い付かれる。そうなったらお終いだ。ジョシュアにはそれが嫌と言うほど分かりきっていた。
二人はほんの少し立ち止まっていただけだったのだが。
「この私から逃げるつもりか?」
背後から、体の中にまで響いてくるかのような声がした。ジョシュアは背筋が凍るような思いで、しかし止まる事なく走り続けた。
一体どうやってあそこから移動したのか、女と二人の距離は、それほど離れてはいなかった。
女は最早、ヒトではない事を隠す気はないようだった。
周囲に漂い始めた重苦しい空気は恐らく、全て女によるものだろう。女の魔力や威圧感がジョシュアの肌を刺してくるようで。思わず脚が竦みそうになる。
ジョシュアは走りながら舌打ちを打った。この場からどうにかして逃げ仰せたいが、どうやったって逃げ切れる想像なんて出来やしなかった。
しかしそれでも、諦めるわけにいかなかったのは前を走る女性の為だったろうか。ジョシュアは必死に走り続けた。
前を走る女性を庇いながら、迫り来る恐怖に目を細める。捕まればきっと命はない。そう思えてしまった。
「全く……敵わないことを知りながら私から獲物を奪い去るとは。とんでもない命知らずも居たものだな」
耐え切れずにチラリと背後を振り返れば、ギラギラと光る真紅の瞳を細め、楽しそうに笑いながら追ってくる女の姿がジョシュアの目に映った。
その女が纏うオーラは、モンスターや魔族、どれとも比較し難かった。
ジョシュアは己をも叱咤しながら大声で叫ぶ。そうでもしないと、竦み上がって動けなくなりそうだった。
「走れ、前だけ見て走るんだ! 振り返るな!」
目の前を走る女性もまた、その気配にあてられ震えていた。それを何とか叱咤し、ジョシュアは彼女の震える体を支えながら走り続けた。
背後から迫り来る女は、一定の距離を保ちながら、ジョシュア達を追って来ていた。
急ぐような事はせず、しかし逃さぬように真っ直ぐと、他の何にも目を向けること無くジョシュア達を追って来ていた。
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