内藤モータース
ジェミニを前にした凛子は祖父に尋ねる。
「おじいちゃん、これどうしたの?こんなのあったっけ?」
「懐かしいと言うかと思ったけ、覚えてないか。お前が小さいころ一貴くんに貸してたんだけどな。」
「お父さんが?」
「東京で暮らすなら車なんて赤ん坊のうちだけあればいい、なんて言って結局ミニバン買って車検前に戻ってきた。」
「じゃあ覚えてないよ。そうだったんだ……」
「俺も遠乗りはもうあんましなくなって、したっけ納屋で埃被っちまって。でも教習車と大きさも変わらないし凛子でも運転できるべ?」
凛子は推薦入試で早々に進学先が決まった余暇を使って参加した免許合宿を思い出した。名前も覚えていない教習車はATもMTも同じ車種だったが、目の前のジェミニよりよほど大きかったのを覚えている。それにも増して、角張ったフォルムに濃いメタリックグリーンのボディは、輪郭がぼんやりしてシルバーやホワイトばかりの今どきの車よりシャープに見える。
脳裏にコンビニでしきりに流れていたCMの声がこびりついている。申し込み用紙のオートマ限定とマニュアルの記入欄をどちらにするか悩んだとき、なぜかマニュアル変速を懐かしく感じて女子に珍しいマニュアルコースに申し込んだのだった。
運転席をのぞき見た凛子はその懐かしさの理由を理解した。センターコンソールにはシャープな外見に似合うマニュアルのシフトレバーが黒光りしていた。
「そっか、じゃあきっとお父さんが運転してるのをわたしは後ろの席で……」
凛子がひとりごちるのに祖父は気付かずに続ける
「ま〜、時々動かしてはいるんだけど冬の間は出してなくて、洗車、頼むわ。簡単に水掛けて埃落として、拭いてくれればいいから。」
そう言うと祖父は凛子の返事を待たずに野良仕事の準備のため納屋に戻っていった。
朝方の水は冷たく、手がかじかむ。洗車の作法は知らないが、知らないなりに屋根から順にホースで水を掛けて埃を落としていく。朝日に照らされたボディはいっそう輝きを取り戻し、凛子の目に眩しく映った。
「この車、本当にわたしが生まれる前からあったの?」
水滴を拭きあげながらしげしげと車体を見回す。これまで車に興味を持ったことのない凛子だが、この車がどうやら特別なモデルらしいことは雰囲気から感じ取った。
そもそも街中で見ることのない深緑、周囲に走る金色のライン、いくら古いとは言え、セダンでマニュアル変速?フロントグリルのロゴにも見覚えは無く、トランク側に廻ってようやく気がついた。
「いす、ず、いすずって何だっけ。トヨタとか日産じゃないんだ。handling by LOTUS……ロータスって何?」
「ま、いいや。とりあえずこんなもんか。おお〜寒い寒い、部屋でぬくまろ〜〜」
言いつけ通りに洗車を終わらせた凛子は、まだ冷え込む朝の冷気から逃げるように家の中に戻っていった。
祖父が言った「運転できるだろ?」という言葉などすっかり忘却した凛子は祖母の淹れたコーヒーを失敬して部屋に戻り、タブレットで月曜日からの講義に向けてシラバスを読み始めた。
◇
野良仕事を終えた祖父が家に戻ると昼食の時間だ。
シラバスとにらめっこの末なんとなく受けたい講義に“あたり”を付け、午後は何をしようか考えていた凛子に祖父が話しかける。
「洗車は終わったみたいだね。そうしたら午後に近所の整備工場まであれで行ってきてくれないか?」
「えっ!そんな、わたし先月免許取ったばかりだけどいいの?」
「それならマニュアルの運転だって忘れてないだろ笑、幹線道路出なきゃ大丈夫だよ。保険は凛子の分まで入ってる、練習がてら行ってきな。」
「う、うん、じゃあ工場の場所教えて……」
スマホを構える凛子をよそに、祖父はメモとボールペンを掴むと『内藤モータース 069-xxxx 南幌町◯◯-××』と走り書きして、ん、と突き出した。
凛子はメモを見て内藤モータース、と地図アプリに入力するとずばり1件、祖父の書いた通り千歳川を渡った先の南幌町にその名の店が出てきた。
「じゃあ、行ってくるよ。」
祖父が朝に納屋から出したばかりで、鍵をひねればエンジンは同じように軽快に始動する。スイッチを押せば鍵が開いてボタンでエンジンの掛かる実家の車と違い、ドアを開けるのもエンジンを掛けるのも鍵をひねる必要があることが、凛子には新鮮に感じられた。当然、スマホホルダーも装着されていないので、スマホは助手席に置いて音声案内頼りのスタイルである。
教習車より幾分か重たいクラッチを切り、シフトレバーを1速に入れる。
クラッチをゆっくり繋ぐとジェミニは前に進み始めた。
今となってはオールドスクールとも言える1.6L DOHCエンジンの発揮するパワーはデイリーカーとして必要十分であり、教習車以外に車を運転したことのない凛子にとっても違和感を感じることなく2速、3速とギアを繋げることができた。
いくつかの交差点やカーブを曲がる中で、どっしりとしてそれでいて力を入れると車がぐぐーっと自然と曲がろうとする感覚や、ブレーキペダルを踏んでいくときの制動力の立ち上がり方など教習車のそれとの違いを感じていった。
そうこうしているうちに目的地の内藤モータースに到着した凛子は、ジェミニを店の正面に停めて半分開けられたシャッターから中の様子を伺った。薄暗い工場の中は雑然としており、何台か整備中の車がタイヤの外れた状態で宙吊りになったり、エンジンがむき出しの状態だった。
「すみません、ええと、点検お願いしたいんですけどー、どなたかいらっしゃいますか?」
返事はない。
「すみませーーん!」
元運動部特有の声量を発揮すると階上から反応があった。2階の事務所から何事かとドカン、ドカン、ドカンと大げさな音を立てて大柄な中年の男が降りてきた。
薄汚れたツナギ姿の男は身長180cmを超えようかという身長に負けず劣らずの中年太りの体格で、立派な口髭をたくわえていた。
「はい!はい!すみませんね上で休憩してたんで!ご用は何ですか?」
午後の憩いに水を刺されてやんわり不機嫌を浮かべながら男は凛子に尋ねた。
「あの、祖父の車を点検してもらいたくて。ここに行けと言われたんですけど……」
凛子が顔をこわばらせてジェミニを指しながら告げると、男の目が変わった。
「うん、君が?そうか、君なのか。そうだね、あれは悟さんの車だね。」
「祖父のことご存じなんですね。」
「それはもちろん、君は凛子ちゃんだね。久しぶり、いや、はじめまして。悟さん、お
内藤は薄汚れたツナギの胸ポケットから対照的に真っ白な名刺を取り出し、油汚れの染み付いたメカニックの手で凛子に差し出した。
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