第2話 それは夢か、はたまた悪夢か
――――夢を見ていた。遠い去る日の追憶。それが本当にただの夢であればどれほどよかったか。夢であってくれと何度も祈った悪夢。それはまどろみの中に土足で侵入してくる暴徒である。
銀次には夢があった。誰しも大なり小なりそういったものを持ってはいただろう。ただし壮大な夢。それを叶えるのは、運と才能、そして人一倍の努力、そのどれが欠けても為しえない茨の道だ。たいていの人間はその困難な道程に心を折られ、「妥協した普通」の人生を選択する。言ってしまえばそれが大人になるということなのかもしれない。そして今まで抱いていた途方もない夢を思い出し、「あの頃は若かった」と酒でも飲みながら追想する。
銀次の話に戻そう。彼は夢のために努力を怠らなかった。才能もあっただろう。一つだけ。ただ致命的に一つだけ。“運”だけが足りなかった。
■■■ 4年前 北海道大学 医学部 基礎研究科
試験管やフラスコ、シャーレなどが並べられている雑多な部屋。物は多いが清潔感は保たれている小奇麗な実験室。そこに、白衣を着た男性が二名、パソコンをのぞき込んでいる。若いほうの男性が自らの研究成果を今までに得た膨大なデータをもとに、懇切丁寧に説明をしている。
「
「そうか、
保存してあるほかのファイルを開き、待っていましたといわんばかりに銀次は薄い胸を張ってこたえる。
「どちらも順調です。まだ実験動物の範疇ですが、拒絶反応を起こした事例はありません。後はより人間に近い猿で安全性のテストを行ったのち、人体での臨床研究、臨床試験に取り掛かれば、この研究が多くの難病患者を救ってくれるはずです」
「……素晴らしい。この技術が確立されたら、今までの医学がひっくり返る。何年も待たされたり、適合しなければ臓器移植ができなかった今までの比ではない。大袈裟に言ってしまえば命を金で買える時代がやってくる」
「はい! あと一歩で我々の研究が世界を変えることのできるステージまでやってきましたね」
「ああ。本当によくやってくれた。こんな優秀な研究者は後にも先にもいないんじゃないか。ましてや学生で」
銀次は顔を紅潮させ頬を掻いて照れを隠す。
「いえ。教授のご指導の賜物です」
「そんなことはないよ、君の成果だ。私は研究室に戻るが、君は? まだ実験室に残るか?」
「そうですね。今日のうちにまとめておきたい資料がありますので」
「そうか、根を詰めすぎるなよ」
「はい!」
□□□
東海林は教授棟に向かって歩いていく。途中何名かの学生にあいさつをされるが笑顔で答える。自らの研究室に帰ってきた彼は後ろ手で鍵をかける。そして先ほどまで張り付けていた笑顔の仮面を剥ぎ取った。
「あああああぁぁぁああぁぁアアぁァ!!」
書類が乱雑に積み重なっているデスクを右手で薙ぎ払い、頭を抱える。コーヒーのたまったマグカップが床に落ちて割れ、いくつかの紙に黒いシミを作る。
「あ、あんな若造が、たった三年で私の研究を凌駕した……。ありえない、あっていいはずがない」
東海林は白髪混じりの髪を乱暴にかき乱し、唇をかむ。口の端からは赤い液体が一本流れ出る。今、彼の脳内には嫉妬の蛇がとぐろを巻いていた。絶対的な才能の差。それを自分の子供とそう変わらない青年にまざまざと見せつけられたのだ。研究者としてこれ以上の屈辱はないだろう。そもそもあの心臓の人工模倣は20年間停滞していたテーマである。学会からもそんな夢みたいな技術に投資するだけ時間と金の浪費だといわれ続けて、埃をかぶっていた研究だ。
「このままでは私が20年以上油を売っていただけの
親指の爪を噛みながら彼は思案する。その額に刻まれた皺は彫像のように深くなり、普段彼が学生に見せている柔和な表情とはかけ離れていた。きっと今この顔を見られても、彼が東海林教授だとわかる人間は講義を取っている学生にもそういないだろう。
「どうすればいい……。このままではこの技術が彼のものになってしまう……。私は金のなる木が持っていかれるのが指を咥えて見ているしかないのか?」
狭い研究室にガリガリと爪をかじる音が響く。数分経った頃、ぴたりとその不快な音がやみ、同時に東海林の口の端がつりあがる。彼はポケットからスマホを取り出し、電話をかける。相手は銀次と同じく東海林の研究室に在籍している一人の女学生だった。
「もしもし、斎藤君。今話せるかね?」
■■■
まだ寒さの残る休日の朝、銀次の部屋にカーテンの隙間から光が差し込んでくる。その陽光は温かく彼を目覚めさせた。彼は大きく伸びをして起き上がり。それに合わせてお腹の虫が鳴る。昨晩は日が変わるまで大学の実験室にこもりっきりで、研究のデータをまとめていたためろくに食事もとれていなかった。
「腹減った……。せめて飯は食っておくべきだったな」
黒染めした髪の毛を掻きながら銀次は朝食の準備をしに台所に行く。ガスのつまみをねじりお湯を沸かす。沸騰するまでの時間で洗面所に向かい顔を洗い、歯磨きをする。口をゆすぎ終わったと同時に、やかんは学生アパートの一室に響き渡る高い音を鳴らし、銀次を呼ぶ。駆け足で戻りコーヒーとカップ麺にお湯を注ぐ。その際にいくつかの教科書やゴミを踏みつけるが、彼にとって自室が汚いことなど茶飯事なので特に気を止めることではなかった。
自宅のノートパソコンを立ち上げ、USBメモリを差し込み、昨日まとめた最新の実験結果をパソコンに取り込んでいく。その作業をしながらもずるずるとインスタントラーメンを啜る。質素で簡易な食事だが高揚感があった、無論それは昨日何も食っていなかったゆえの即席麺の美味しさに感動したから、ではなく。自身の研究が日本の、ひいては世界の役に立つ。まぎれもない偉業がこれからそう間をおかずに実用化されるということに対してだった。
別に名声が欲しいわけではないが金ならばいくらでも手に入るだろう。あって悪いものじゃない。銀次は金の亡者と呼ばれるほどがめついわけではない。しかし、食事も住まいも、数ランク上のものになるのが喜ばしくないといったら当然嘘になる。
カップ麺を食い終わり両の手を合わせたとき、ちょうど銀次のスマホに着信が入る。画面には「サイトー」と言う名が大きく映し出される。サイトーとは銀次の一つ下の後輩であり、よく彼女の研究を手伝わされていた。しかし、お礼にご飯を奢ってくれたり、旅行のお土産をくれたりと彼女なりの気遣いは見て取れていた。放っておけないというべきか、一人にして置いたら危なっかしいというべきか、銀次にしては妹のような存在だった。
「もしもし? どうしたサイトー?」
「水瀬先輩! 教授から聞きましたよ! とうとう軌道に乗ったんですね。例の研究」
「あー。その話か。そうだね。まぁ概ね好調だよ」
「どーして私に話してくれなかったんですかー?」
電話口の向こうで頬を膨らましているのが目に見えるような声色でふてくされるサイトー。
「いやなに、恥ずかしいじゃないか。自分から『こんな功績を残したんだ』なんて吹聴して回るのは」
「じゃあご家族とかにもまだ話されてないんですかー?」
「ん? ああ。そもそも僕はそんなに家族仲はよくないからね。確立できたら話すつもりだけど」
数秒間の沈黙が流れる。銀次は家庭の問題を安易に話してしまい、気を使わせてしまったかと心配になるが……。
「……わかりました。お祝いに飲みましょうよ! 宅飲み! 宅飲み!」
「僕の家でかい? 付き合ってもいない男の家で、そのうえ男女二人で飲むのはちょっとまずいんじゃ……」
「ぷぷー。相変わらずお堅いんですねー。だから結構顔良いのに童貞なんですよ」
「どどど童貞ちゃうわ!」
「はいはい。お酒とかご飯とかは私が買っていくので、部屋の掃除だけはしていてくださいねー。大量のエッチな本とか見つけちゃったら凄い嫌な空気になりますよ?」
「無いよ! そんなには……。はぁ。わかったよ。じゃあまたあとで」
一方的なお祝いという名目での自宅への急襲。銀次は嘆息交じりに了承し通話を切る。誰かに祝ってもらったことなどここ数年なかったものだから嬉しくないわけではない。人の縁は何より価値のあるもので、そういった繋がりを持つことはとても重要な事だと再認識し、彼は部屋の掃除に取り掛かる。当然アダルトな書物は最優先でクローゼットの奥にしまい込んだ。
□□□
「おお! 結構片づいてる。綺麗好きなんです?」
「いや、片づけたんだよ。早急にね」
おおよそ半日、サイトーとの待ち合わせ時間の午後六時までのほとんどの時間を掃除にあてた。息も切らしてようやく一段落という時点で玄関のインターホンが鳴る。額に汗をかいた状態でサイトーとご対面、といった事の運びである。顔を斜めに傾け、黒いポニーテールを揺らしながら彼女から出た第一声は「運動でもしていたんですかー?」だった。逆の立場ならば銀次も同じことを訊ねただろう。
「食べ物、すぐに食べられそうなのは机に置いちゃいます。あとお酒は冷蔵庫入れちゃいますね」
「ああ、ありがとうね。わざわざ」
「いえいえ、本日の主役は座っていてください。台所かりてもいいですか?」
「好きに使ってくれて構わないよ」
サイトーは器用に包丁でネギをぶつ切りにし、一口大に鶏肉をカットしていく。どうやら彼女の作っているものは鍋らしい。といっても先ほどの通話で「ガスコンロと鍋ありますか?」と聞かれていたので、銀次にもある程度の予想はできていたのだが。サイトーの手際はよく、ものの見事に数分で下ごしらえは終わり、二人で背の低いテーブルを囲んだ。宴の始まりである。
宅飲みは大いに盛り上がった。鍋をつつきあいながら、銀次の研究の話に、サイトーが突っかかっている課題の話。他愛もない愚痴の話だったり、バイトの話、色恋の話だったりと多岐にわたる。酒もあれよあれよと入っていき、沈黙の臓器たる肝臓からも苦言を呈されるほどにするすると胃に落ちていく。ほろ酔いになっている銀次はここで一つ気になっていることをサイトーに質問した。
「サイトー。なんか困っていることでもあるのか?」
彼女は肩を跳ねさせて動揺する。銀次がなぜこのような突拍子もない質問をしたのかには理由がある。サイトーは何か困ったり悩んだりするときに左の耳を触る癖があるのだ。それを本人に伝えると気持ち悪がられると思い銀次は普段は言及しないことだったが。
「な、何のことです?」
「いや、ただなんとなくそんな気がしてね」
「万事順調ですよー。卒業研究を除いてですけどね」
「一番大事なところじゃないか……。今度付き合ったるよ」
カラカラと銀次は笑いながら突っ込む。それに対してサイトーの表情が曇っていたのに気づかなかったのは酒だけの所為なのか。
「……はい。ありがとう、ございます。……お酒追加のとってきますね」
彼女はまた左耳を触った。
■■■
いつの間に眠っていたのだろうか。途中から記憶がない。久方ぶりに飲んだからかと痛い頭をさすりながらベッドから身を起こす。昨日の宴が嘘であるかのように、すっきりさっぱり片づけられていた。サイトーが酔いつぶれた銀次を介抱して片付けまでやってくれたならば頭が上がらない。即座にお礼と謝罪の電話をするが。いつまでたってもコール音が終わらない。既読もつかない。根拠はない。ただ胸がざわついた。まず向かったのはノートパソコン。すぐに立ち上げるが映し出されるのは買ったばかりに表示される設定画面。端的に現状を説明するならば“初期化”されていた。
──────不可思議な雰囲気の奴だった。それが僕の抱いた第一印象である。ミステリアスとは全然違う。むしろあいつは人懐っこい。同輩も先輩も、何なら教授からも好かれる人物であった。よく笑い、よく笑わせてくれる。誰からとなく人が集まり一人でいるのはほとんど見た覚えがない。
しかし何故だか、彼女を見るたび、孤独を想起させた。誰にも心を許していない。許したくないから、弱さを見せたくないから、人と関わっている。感覚的に彼女をそう理解していた。でも芯では優しい人だと思って、いた。だから、彼女が「こんなこと」をするわけがないッ!
それからのことは曖昧だ。夢だからなのか、思い出したくないからなのか、記憶に靄がかかっている。大学からは「銀次が」サイトーと東海林教授の研究を盗用したとの訴えがあり、銀次は大学を除籍される。裁判も起こしたが負け、家族にも絶縁された。落ちるところまで落ちたのだ。彼は。
これが幾度となく繰り返し見てきた。水瀬銀次の悪夢である。
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