生きるためのきっかけ


「きっかけさえあれば、気持ちも身体もいとも簡単に変化する」


 人間って面倒くさい生き物だなぁと、つくづく思います。心と身体、そのどちらも繊細で、どちらか一方が崩れるともう一方を道連れにしてしまう。そうして双方が一度でも崩れてしまうと、もう一度組み直すのは困難になります。


 人間が生きるためには、まず身体が健康でなければいけません。身体の健康を維持するためには、適度な運動と睡眠、そして、食べること。それらは、幼い頃から常識として知っているはずのこと。

 

 お外でいっぱい遊びましょう。夜は早く寝て、朝は早く起きましょう。好き嫌いせず、ご飯を沢山食べましょう。


 大人から教えられたはずの常識が、大人になってから出来なくなる。心が壊れると、そうなってしまうのです。だから身体も壊れてしまう。




 『天国はまだ遠く』という、瀬尾まいこさんの小説が好きです。

 会社で心身ともにボロボロになっていた主人公の千鶴は、自ら命を断つために北へと向かい、とある民宿「たむら」へと辿り着きます。睡眠薬を大量に飲んだけれど長時間眠った後に起きてしまい、自殺は失敗に終わります。その後、静かな村で民宿の若き主人・田村と過ごす穏やかな時間は、千鶴の心を癒やしていきます。

 この物語では、村の自然と田村の優しさに癒され、自らを見つめ直していく千鶴の様子が淡々と描かれています。千鶴は時間がゆったりと流れる村の人々の生活や自然の中で、田村が提供してくれる農作物や魚を食べて「美味しい」と感じ、夜は規則正しく眠くなります。美味しい物を食べて、ぐっすり眠る。些細な幸せが、千鶴を救ってくれます。


「きっかけさえあれば、気持ちも身体もいとも簡単に変化する」


 千鶴にとって、自殺のために訪れたこの民宿との出会いが、気持ちと身体を変化させるきっかけになったのでした。


 現実においても、気持ちと身体を変化させるきっかけは、些細なことかもしれません。

 ぼくの場合、転職がきっかけで心身ともに大きな影響を受けました。会議中に毎日のように名指しで叱責を受け、挨拶を無視され、精神的に衰弱していたときに妻が1型糖尿病の症状である重度の低血糖を引き起こし、仕事でも家でも安心できる時間がなくなり、追い詰められていきました。適度な運動も、睡眠も、食事も、当たり前のことが出来なくなりました。そして、転職して半年ほど経った頃に適応障害と診断されました。転職というきっかけが、およそ半年という僅かな期間でぼくの心と身体を大きく変えてしまったのです。


 当時のぼくは、死にたいと思っていました。苦しまずにどうやって死のうかと考えて結局何も出来ず暗闇の中を彷徨っていましたが、今はこうしてエッセイを書いたり新しい会社で働けるほどには回復しています。ぼくの心を癒やしてくれる些細な出来事が積み重なった結果です。それらの小さなきっかけが、ぼくを生かしてくれました。


 ぼくはまた、死にたくなるかもしれません。それは何年も先のことかもしれないし、明日かもしれない。そうなったとき、千鶴のように旅をしてみようかと思っています。旅と言っても、本当に何処かへ行かなくてもよくて、自らを苦しめる要因から逃げて、遠ざかることができればいいのです。疲れた心を旅させてやればいい。そうすれば、心の旅先で田村のような優しい人や豊かな自然に出会えなくても、負の思考から抜け出すくらいはできるかもしれない。自分を生かしてくれるようなきっかけになれば、何でもいい。


 人は簡単に死にますが、同じように、わりと簡単に救われるものなのかなと、最近は考えています。そういう考えを持てるようになったのは、『天国はまた遠く』を読んだという小さな「きっかけ」のおかげです。


 良い本に出会えました。

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