第三話 ふえていく

 家に帰ってきて、賢人と一緒に手を洗う。

 洋室に入ると、賢人が微かに目を見張って、口を開いた。


「ねーちゃん、みてみて!」

「え、何を?」


 わたしの問いかけに、賢人は楽しげに笑ってみせる。


「て、ふえてる!」


 わたしは持っていた鞄を、床に落とした。

 大きな音がして、中に入っていた荷物の幾つかが、転がった。わたしはそれを拾うこともせず、ゆっくりと声を発した。


「……増えてるの?」

「うん! まえはひとつだけだったのに、いまは、えーと……ふたつ、みっつ、よっつ……よっつになってる!」


 真っ白な壁を見つめながら、賢人はそう言った。

 わたしは小さく息を吐いた。目を擦って、壁をもう一度、見つめた。そこには手なんてない。ない、ない、ないはずなのに……わたしはもう一度、息を吐いた。


 ◇


 わたしは暗い灰色に満たされた世界に、立ち尽くしていた。


 少し遠くには賢人がいる。わたしに気付いていないようで、ぼうっとグレーの空を眺めていた。そんな弟の姿を見ていると、わたしは何故か言い表しようのない不安に包まれて、賢人に向かって走り出した。


「賢人……」

 わたしの口からは、頼りない声が漏れた。


「賢人ぉ……」

 わたしの呼び掛けに気付いたようで、賢人がゆっくりと、わたしの方を向いた。


 そのときだった。


 幾つもの真っ黒な腕が現れて、賢人へと伸びた。それから賢人の髪、手、胴体、足――色んな場所を掴んで、賢人を引きずった。


「ねーちゃん……!」


 賢人が悲痛な声を上げる。わたしは呆然としながら、叫んだ。


「賢人!」


 黒い手は賢人を掴んで、どこかへ連れて行こうとする。賢人は目に涙をいっぱい溜めながら、ねーちゃん、ねーちゃん、とわたしのことを呼んだ。


「待って! 行かないで、賢人……!」


 わたしはそう口にしながら、必死に、必死に足を動かして、遠ざかっていく賢人を追い掛けた。


 ◇


 はっと、目を覚ます。

 がばりと起き上がった。部屋の中は蒸していて、空気がべたりと纏わり付いてくる感じがした。自分の額に手をやると、汗をかいているのがわかった。


「夢か……」


 わたしは小さく溜め息をついた。

 賢人に譲っているベッドへと、視線をやる。



 そこには正座しながら、白い壁を凝視している賢人の姿があった。



「……賢人、」

 わたしが名前を呼んでも、賢人は壁から、目を離そうとしなかった。


「どうしたの……?」

 震えた声でわたしが質問すると、賢人は口角を上げながら、言う。



「てがね、すごくすごく、たくさんになってる!」



 何も言葉を返すことができないでいるわたしに、賢人はさらに、言葉を続けた。


「たくさん、たくさん、てがあるんだ! なんこあるのかなあっておもって、かぞえようとしたんだけど、わかんなくなった! ほんとに、たくさん、てがあって……」


 わたしは、賢人のことを抱きしめた。

 聞きたくない。言葉を塞ぐように、賢人の小さな身体を、ぎゅっとした。


「どしたの、ねーちゃん?」

「……賢人。手なんてないよ。気のせいだよ……」

「いや、ほんとにあるもん! ほら、そこにも、あそこにも、いろんなところに……」

「ないよ!」


 わたしは大きな声を出す。賢人の身体が、びくりと震えたのがわかった。


「ごめん、賢人……」


 わたしは謝った。賢人の温もりを感じながら、ゆっくりと呼吸を繰り返した。


 ◇


 わたしと賢人は、迫音さんの部屋を訪れていた。

 賢人は、テレビで流れている子ども向けのアニメ番組に釘付けになっている。わたしはそんな弟の姿をちらちらと見ながら、少し離れたところで迫音さんと話をしていた。


「それで、聖ちゃん。聞きたいことって何?」

「……あの、前提の話として、わたしの部屋が最近ちょっと変で」

「変?」

「はい。わたしにはわからないんですが、賢人にだけ、その……『手』が見えるみたいで。壁に手がある、って言うんです。しかもその手が、日に日に増えているらしいんです」


 迫音さんは驚いたように、目を見開いた。そんな彼女の反応を見ながら、わたしは話を続ける。


「だから怖くて。……あの、聞きたいことは、その……わたしの前に住んでいた、死んじゃった人のこと、迫音さんは知ってますか? もし何か知ってたら、教えてほしくて」


 わたしは小さく頭を下げる。顔を上げると、迫音さんは淡く目を細めていた。


「……知ってるよ。聖ちゃんの前に住んでたのは、一人の女性だった」

「女性、ですか」

「そう。三十歳いかないくらいの、若い人だったと思う。隣に住んでたから、何度か話したことがあるんだ。その人がね、ある日、深夜の共用廊下でぼうっと空見てて。

 びっくりして声掛けたら、私の子どもを探してるの、私が流産してしまった赤ちゃん、私が殺してしまった赤ちゃん……って、どこかうわごとみたいに、話してた。それから一週間も経たないうちに、首を吊って亡くなった」


 迫音さんは腕を組みながら、悲しそうに話していた。


「あたしがあの日、もっと優しい言葉を掛けられていたら、生きててくれたのかな、って未だに思う。何て言ったらいいかわかんなくて、頷くことしかできなかったから。……まあ、あたしの後悔の話は、どうでもいいね」


「そんなこと、」

「いーや、どうでもいいよ。今はそれより……そうだな、お清めの塩を買った方がいいかもね。コンビニとかで売ってるやつでいいと思うから。聖ちゃんとケントくんのことが、あたしは心配だよ」


 迫音さんはわたしのことを真っ直ぐに見つめながら、そう口にした。わたしは迫音さんの目を見て、それからちらりと、テレビに夢中になっている弟の姿を見た。そして、口を開いた。


「……ありがとうございます、迫音さん」

「気にしないでいいよ、全然。また何かあったら、遠慮なく頼ってね」


 わたしはしっかりと、頷きを返した。

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