てがあるよ

汐海有真(白木犀)

第一話 きょうだい

 外の空気は強い熱を帯びていて、わたしの身体には幾つもの汗の粒が浮かんでいた。アスファルトの道路が、夏のせいで幾らか霞んで見えた。ソーダ味のアイスを齧ると、しゃり、という涼やかな音がする。


 隣を歩く弟――賢人けんとは、スイカの形を模したアイスを、美味しそうに頬張っていた。わたしは蝉の声を聞きながら、自分が暮らすアパートに向かって歩いていた。


「ねーちゃん。ねーちゃんのおうち、まだ?」

「もうすぐ着くよ。あそこの角を曲がったら、見えてくると思う」

「おー、やったあー」


 賢人は嬉しそうに、でろっとした笑顔を見せた。わたしは再びアイスを齧って、しゃり、という音を夏に溶かした。


 驚いたことに、新潟と東京の夏の暑さは、大して変わらなかった。都内の大学に通うために上京したわたしを、小学生になったばかりの賢人はひどく羨ましがった。夏休みとなりお互いに時間ができたため、弟は親の力を借りて新潟からこっちまではるばる訪れ、今日から三泊四日でわたしのアパートに泊まることになっていた。


「たてもの、たくさんあるなー」

「そうだね。新潟の家の近く、田んぼだらけだもんね」

「うん! しょうじき、つまんない」

「本当に正直だなあ」


 わたしは笑った。賢人とは十歳以上歳が離れているから、接していると楽しい。子どもの純真さや突飛な発想力が、わたしは元々好きだった。それが弟という存在となれば、なおさらだ。


 わたしと賢人は、ほぼ同時にアイスを食べ終えた。わたしは弟から木の棒を回収し、持っていたビニール袋に二つ纏めて放り込んだ。


「あ、見て、あのグレーのアパート。あれが、わたしが東京で住んでいる家だよ」

「うわー、ついにきたか! まってろよー!」


 賢人が楽しそうに跳ねる。わたしは笑いながら、ビニール袋のひもを結んで鞄に仕舞った。

 階段を昇って、二○三号室を目指す。ポケットに入れていた鍵を取り出して、ドアに差し込んでがちゃりと開いた。賢人は「いちばんのり!」と言いながら、走って部屋に入っていく。


「靴、ちゃんと脱ぐんだよ」

「わかってる!」


 賢人は頷いて、履いているスニーカーをせっせと脱いだ。その靴がとても小さいから、わたしにもこれくらい若い時期があったのだろうと、何となく追想した。


 賢人はどたどたと、洋室に向かって駆けていく。わたしの住んでいるアパートは1DKで、大学生の一人暮らしにしては広い方だ。しかも駅から徒歩五分で、大学の最寄り駅までも電車で二駅。その上家賃が安いので、ありがたい。


 賢人は置いてあるベッドに飛び込んで、「ふかふかだあー」と笑った。そんな弟の姿を見ていると、幸福な心地になる。


「ん?」

 賢人が突然、不思議そうな声を上げる。彼はベッドの近くにある、真っ白な壁を見つめていた。


「どうかしたの、賢人?」

 わたしの問いかけに、賢人は壁の一点を指さしながら、口を開いた。


「ねーちゃん、ここ」

「……? ただの壁じゃない?」


 わたしの問いに、賢人はぶんぶんと首を横に振った。


「ここ、てがあるよ!」

「て……って、ええと、こういう『手』?」


 わたしは自分の右手を開いて、それを左手の人差し指で示してみせた。賢人はこくりと頷いて、言う。


「そうそう、て! てがある、ここ!」


 賢人の言葉に、わたしは彼の指が示している箇所を、目を凝らして見つめた。でもそこには、穢れのない白さをした壁が広がるだけだった。


 わたしは怪訝に思いながらも、子どもはこういう不思議なことを言うときもある気がしたので、取り敢えず話題を変えることにする。


「それよりさ、賢人。ゲームで遊ばない?」

「えー、やるやる! おれ、めちゃめちゃゲームつよいから!」


 目を輝かせる賢人に、わたしはくすりと笑いながら、テレビの近くに置いてあるゲーム機の電源を入れた。真っ黒なテレビの画面には、わたしと賢人の姿が映り込んでいた。

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