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僕が喫茶店に入ると、ことり先輩はまだ到着していないようだった。
季節は夏の本場と呼ぶにふさわしい時期を迎えていた。梅雨は全くと言っていいほどに雨が降らず、あっという間に明けてしまったのだ。
だから、店内に流れているクーラーの風はまるで晴天の暑さからの帰還を思わせて、気持ちを落ち着かせてくれる。
いつもの座席は誰かが座っている。
仕方なく、窓際にある二人掛けの席を確保することにした。狭いけれどノートパソコンと飲み物くらい置けるだろう。
ことり先輩を待ちながら店内を見渡してみる。本を読む姿よりも、ノートパソコンやスマートフォンを見ている人の方が多い気がした。
視線の先にある座席では女子大生だろうか。髪を後ろ止めに結びながらノートパソコンに向き合っている。レポート課題をやっているのだろう。
その姿がことり先輩と重なった。
彼女のお誘いに乗っかって、情報の網が世界中を駆け巡る時代の中で僕はその中に足を踏み入れた。プログラムというものは未知な世界で、さまざまなことを教えてもらって、楽しい日々が続いている。
でも、今はただ教えてもらっている立場だ。この先どのような方向に進んでいくのだろうか。実のところはよく分からなかった。
もしかしたら、彼女には何かしらの計画があるんじゃないかと思っている。
そういえば、彼女は家でもプログラムを書いているのだろうか。
ふと疑問が芽生えたところに、彼女が店内に入ってきた。
・・・
ことり先輩は僕の真正面の椅子に座った。
今日は暑いわねぇとつぶやきながら、手で頬のあたりを仰いでいる。その流れで首の後ろに手を回してリボンを外した。
彼女はもう夏服の制服になっていて、窓の外からの日差しを浴びるブラウスがなんだか眩しかった。
僕はその姿をあまり見ていられないので、彼女が準備しているノートパソコンに視線を合わせながら話題を切り出した。
「いつも、こうしてパソコンを運んでいるのですか?」
そうだよ。彼女はさも平然と答えた。
「これでも、軽い方のマシンを買ったしね。
まあ、そこそこのアプリが動作するならいいかなって思って」
僕はことり先輩の部屋にはパソコン室にあるような大きなデスクトップでも置いてあるのかと思ったら、そういうわけではなさそうだ。
「家でもパソコンを使っているけどさ、あまりママが良い顔しなくてね。
勉強しなさいってさ」
彼女は軽いため息をついた。
そういえば、彼女自身の話を聞いたことはなかった気がする。はじめて喫茶店に来た時にも感じた、なんだか湿っぽい空気が流れていた。
「あ、ごめんね。こんな話しちゃって。
コーヒー頼んでくるから、ちょっと待っててね」
ことり先輩は明るい声を取り直して、立ち上がってレジに向かっていった。
ノートパソコンを横向きに置いて、ふたりして覗き込むように画面を見ている。僕は気になっていたことを先輩に聞いてみることにした。
「そういえば、プログラムを書いていたときに。
なんていうのか、メモみたいなの書いてませんでしたっけ?
説明文って言ったらよいのかな」
説明文? 彼女は少し顎を引いて考えだした。
「......ああ、<コメント>のことね。
コメントはプログラムの文に添えて書く、説明文だよね」
ことり先輩は前に書いたコードを改めて見せてくれた。
*───────────────────
int result; //計算結果のメモリを用意する
while (buttonequal.Click = false) //イコールボタンを押すまで繰り返し
if (button1.Click = true) //1のボタンが押されたら
result = result + 1; //メモリに 1 が加算される
if (button2.Click = true) //2のボタンが押されたら
result = result + 2; //メモリに 2 が加算される
...
Print result; //メモリに格納されている計算結果を表示する
────────────────────
「これらの文に書かれている、"//"スラッシュをふたつ書いたところからはじまる部分はコメントって言います。
ここはプログラムには影響しないから、書いても画面に表示されたり計算されたりすることはないんだ」
画面の中では、//から書かれている箇所はコードの黒色とは異なる緑色で記述されている。
それはなんのために使うのだろうか。
「なんに使うか、ってそりゃコードを書く人の支えになるものだよ。
処理の概要とか変数の目的などを添えて書くんだ」
いくら良いコードを書いても、その記述だけですべてを理解できないかもしれないし、後で忘れてしまうかもしれない。
なるほど。
こう説明してくれると理解できる。
「この例だとコードにあるすべて処理にコメントを添えているけどさ、必ずしも全部書かなくても良いんだ。
もうちょっと減らして適量にまとめると、見やすくなるよ」
ことり先輩はそう言いながら、少し身を乗り出してタイピングを始めた。
僕はつい、身体を背けて画面の方に視線を注目するようにした。
*───────────────────
int result; //計算結果のメモリを用意する
//イコールボタンを押すまで繰り返し
while (buttonequal.Click = false)
//いずれかの数字ボタンを押すと、メモリに加算される
if (button1.Click = true)
result = result + 1;
if (button2.Click = true)
result = result + 2;
...
//メモリに格納されている計算結果を表示する
Print result;
────────────────────
彼女は処理の段階に沿ってコメントを書いてくれた。1行空いている箇所と合わさって、簡潔になった雰囲気がする。
次に、また別のコードを見せてくる。
*───────────────────
Print("こんにちは!");
Print("自己紹介します~");
Print("私はことりちゃんです");
────────────────────
なぜかアイドル風なプログラムが書かれた。
これを実行すると、画面の中に次の順番で表示される
* こんにちは!
* 自己紹介します~
* 私はことりちゃんです
この時、次のようにひとつだけがコメントになっていたらどうだろうか。ちなみに、コメントで隠すことを<コメントアウト>する、という。
*───────────────────
Print("こんにちは!");
//Print("自己紹介します~");
Print("私はことりちゃんです");
────────────────────
「こうやって処理の記述の前にスラッシュを書いて、コメントとすることにする。
これってどう動くと思う?」
僕は少し考えた。自然と姿勢を正してしまう。
コメントはプログラムの処理には影響しないと彼女は言った。だから、先ほどと同じように動作するのではないだろうか。
「ふふ。
"コメントとして書いた文は画面に表示されない"って言ったよね。
だから、真ん中の一行はコメント行として扱われるんだ」
つまり、その一文は動作せず前後のみが画面に表示されることになる。
* こんにちは!
* 私はことりちゃんです
「この例わね、処理を覆い隠すことができるってわけ。
一時的に書いた文や使わなくなった文とかを隠すために使うんだ」
この方法を使うと、プログラムの中で変更点を管理することができるという。
次のように変更する前と後の文を書くのだ。もちろん変更前の処理をコメントアウトする。
*───────────────────
Print("こんにちは!");
//改修後:20xx/6/25 (←こっちが実行される)
Print("自己紹介だよ、皆もコールしてねっ!");
//改修前
//Print("自己紹介します~");
Print("私はことりちゃんです");
────────────────────
「こういう時に私がよく書くのは、変更した箇所に日付を入れておくこと。
そうすれば変更点を履歴として管理することができるからね」
なるほど。
コメントひとつとっても勉強になるんだ。
「そうだね.
個人なら自分でルールを決めてコメントの書き方を整理しておけば良い。
グループで開発する場合はコードはもちろんコメントの書き方を皆で統一すると良いって本に書いてあったわ」
いつか僕も何かを作ることになるのだろうか。ふとそんなことを考えていた。
・・・
......これはコメントアウトしておいた方が良い話だ。
ことり先輩はさっきから、小さいテーブルで身を乗り出してタイピングしている。手を伸ばさなくても、彼女の髪に、肩に触れられる距離なわけだ。
だから、僕は事あるごとに視線をそらさないといけない。
「......ことり先輩、頼むからブラウスのボタンを閉めてください」
さっきからこう言いたくて仕方ないのだ。せめてリボンを付けてほしい。
彼女はまったく気づいていなかった。
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