第4章 飯島颯太

 今でも脳裏に蘇る彼女の寂しげな表情が、僕の心に突き刺さる。

 僕を支配するその姿に、夢の中で幾度も謝罪した。

 償い切ることなどないと知りながらも、どうすることもできない僕は、ひたすら頭を下げ続けることしか思いつかなかった。


 降りしきる冷たい雨に塗れながら、彼女の葬式はしめやかに執り行われた。

 幾人かとともに参列していた僕は、ふと親族側に若い青年を見かけた。

 彼はおそらく、死んだ彼女の兄なのだろう。似た雰囲気を醸し出すが、兄の表情はサイボーグ染みていた。その目に浮かべているものがどんな感情なのかも読み取れず、人生が楽しくないことだけが伝わってくるような、空虚な青年だった。


 更に視線を泳がせると、列を外れて独り佇む少女がいた。

 傘の下から、見覚えのある学生服が覗いており、それは僕の心をつんざき、目頭を熱くさせた。

 気がつけば、その孤独な背中に声をかけていた。

 こちらを見上げた少女は、僕の酷い顔を見てハンカチをくれた。

「君は、奥村さんの友達かな?」

「はい。同級生でした」

 彼女は涙の一つも流さず、呆然とした様子で質問に答えた。

 友人の突然の死をいたみに来たと言うより、一体何が起きているのか掴めず、漠然と悲しみの渦の中に身を置いているといった様子に見えた。

「僕は、奥村さんが通う塾で講師をしていた、飯島いいじま颯太そうたと申します」

「初めまして。草部亜衣です。小牧ちゃんと同じクラスでした」

 友達とは表現しないあたり、彼女は奥村小牧とはそこまで信頼関係を築いていない間柄なのだろう。彼女の他にも同級生らしき少年少女はちらほらと見かける。同級生の葬式だから止むを得ず参加したといったところだろうか。

 しかし、情けない顔の僕を見上げる草部さんは、何かを訴えているように見える。

「ごめんね、みっともなく泣いたりして。……昔、自分の娘を失っていてね。だからつい、感極まってしまって。奥村さんのこと、僕がきちんと気がつくべきだったと後悔している」

 一体どの口がこんな台詞を吐き出すのだろうかと、己を心のうちののしる。

 滝のような涙を袖でこすり続ける。

 雨が悲しみに同調するように激しさを増す。

「違うと思います」

 彼女の声は傘や地面を叩く雨音に混じり、何を言ったのか聞き取れなかった。

「何か言ったかい?」

 草部さんは光のないうつろな瞳で、僕を見つめていた。

「小牧ちゃんは、先生の情けなんていらなかったと思います」

「何でそんなこと思うんですか?」

「小牧ちゃんは自分で物事を判断し、自分で自分のやることを決めて、自分で動く人間だからです」

「僕が塾で見かけていた奥村さんは、覇気がなく、憂鬱そうな印象でしたが」

「子供は、みんな大人が作った籠の中で生きるしかないからです。私たちは自由で平等で幸せな社会に生まれたと大人たちに言い聞かされながら、実際は他人の顔色ばかり伺って、何が良くて何がダメなんかも判然としない中を、もがき続けています。私たち子供がそんな環境において、未来に希望を抱けるなんて誰が保証したのでしょう。私や小牧ちゃんは大人を信用しておりません」

 草部さんの虚無な瞳に映る僕は歪曲していて、化け物みたいだった。

「君は、奥村さんがどうして死んでしまったのか、知っているのですか?」

 叩きつける雨音は、まるで僕を責め立てているように聞こえた。

 草部さんは、奥村小牧の死に関する解釈が僕とは異なるようだった。


「奥村小牧は、十七歳までしか生きられない装置だっただけ」


 言葉の意味はわからなかった。

 草部さんは背を向けて、クラスメートたちのところへ戻って行った。

 

 「装置」という表現が、何かのゲームで例えているように思えて、一瞬だけ怒りが湧いた。

 しかし、ゲームで人の人生を例えて小馬鹿にしている割には、草部さんの態度は大真面目に見えた。

 頬を伝う涙が鬱陶うっとうしくなり、必死で興奮を押し殺した。

 この後に及んで、僕ごとき人間が彼女に何を弁解できるというのか。

 何の力も持たず、誰一人幸せにすることができぬ愚か者。

 草部さんが言いたかったことが何であるのか、僕は必死で考えたが、脳をフル回転したおかげで頭痛を引き起こす始末だった。



「ただいま、佳世子」

 今の時代には似つかわしくない、小さな木造二階建てに、僕と妻の佳世子は細々と暮らしていた。元は僕の祖父母の家で、彼らの死後、僕が貰い受けたのだ。

 居間へ向かうと、仏壇の前で正座をしたままの、痩せ細った佳世子がいた。長く伸びた髪を後ろに縛り、うつろに佇んでいる。

「今からご飯を作るから、待っていて」

 僕はもう塾講師を退職している。帰宅時刻に響く仕事をすると、佳世子がいつまでもご飯を食べることができないからである。彼女が食べることまでもを辞めてしまったら人間ではなくなってしまう気がして、僕は焦燥に駆られる。

 僕は、佳世子と出会ってから佳世子のことだけを愛して生きている。

 佳世子がいないと僕は成り立たないかもしれないほどに、僕の愛情は佳世子と共にある。

 佳世子は返事をしてくれない。

 彼女はもう随分もの間、こうして抜け殻のような状態だ。


 炊飯のやり方すら曖昧だった、大学卒業したての僕に料理を教えてくれたのは佳世子だった。 

 彼女は家庭料理が得意で、恋人である僕のためにとよく腕をふるってくれた。

 共働きをする上で家事がこなせないのは何かと不自由であることから、僕は彼女のレシピを少しずつ学んでいったのだった。

 彼女と同じ方法で煮物を作り、同じ方法でサラダを作り、同じ方法で魚を焼き、米を炊いた。

「佳世子、ほら」

 食卓に並べ、彼女が立ち上がる手助けをしようと手を差し出す。

 しかし、彼女は正座のまま涙を流していた。

 僕は咄嗟に彼女の顔を拭い、抱き寄せた。

「大丈夫だから。君には僕がついているよ」

「……な、かなちゃん」

 掠れ声でつぶやかれた名前は、佳世子の人生において佳世子本人よりも大切な人だった。

 僕は何も言わず、彼女の背中をさすり、感情が鎮まるのを待ち続けた。小刻みに震える肩は、少し力を加えただけでひび割れてしまいそうな、頼りないものだ。

 彼女に尽くすことが僕の愛情だが、彼女を巣食う闇は僕のことも徐々に壊していく。

 心にのし掛かる出口の見えぬ暗闇のような悲しみに、僕の心は最近悲鳴を上げている。佳世子の方がもっと闇が深い。僕までもが闇に支配されてしまっては、僕たちは死んでしまう。

 仏壇に添えられた写真には、あどけない顔で笑う僕らの娘が写っている。

 佳奈があんな目にわなければ、僕たちがこんな闇に支配されることもなかっただろう。

 佳奈には何の罪もない。

 しかし僕たちの時間は、佳奈の生きていた頃で止まってしまっている。

 その時間を取り戻すことばかり考えても何の意味もないと、佳世子に何度も言った。しかし、   

言えば言うだけ佳世子は心を塞ぎこむだけだった。

 そこで僕は気がついてしまった。

 僕の愛は佳世子と佳奈にあったが、佳世子の愛は佳奈に集中していたことを。

 彼女は子供が欲しいと言っていたから、佳奈が彼女にとっては最大の宝物で、最上の愛情を注ぐ対象であったのだ。

 佳世子には僕の声は届かない。

 彼女は僕を愛していない。

 僕の孤独が、佳奈の死と共に始まった。


「飯島さんてば、まだ二杯目じゃないですか。大丈夫?」

 カウンターに突っ伏している中年の痩せ男颯太に、バーテンダーの男が水を差し出した。

「ごめんね、日向くん。なんだか人生が辛くてさ」

「奥さんの鬱病ですか?」

「そうだねぇ。なんだかもう、疲れちゃって」

「吐き出したいなら聞きますよ。俺、聞き役得意ですから」

 近頃飯島が見つけて行きつけとなったこのバーは、入り組んだ裏路地にあるため人の出入りが少ない。落ち着いて長居できる上、仲良くなった日向旭という名の眉目秀麗な青年は話がとてもしやすい。旭は、一見すると若者特有の近寄り難さがあるが、口を開くと存外大人びていて、聞上手であった。

「じゃあ話すから、これで何か作って。お酒が飲みたい」

 適当に札束を差し出し、水を一気に飲み干した。

 旭は苦笑しながら受け取ると、やや逡巡したのち手を動かし始めた。

 赤い液体の入った瓶を取り出しているので、おそらくカンパリを使うつもりなのだろう。

「妻はもう、僕のことなんか愛していないんじゃないかって、もう何年も思っている」

「なぜです?」

「彼女は僕の言葉を聞いてくれない。僕がどれだけ尽力しようが、全く僕へ意識を向けてくれない。口を開けば、佳奈、亡くなった娘の名を呟くばかり」

 液体の流れる爽やかな音を耳に、颯太は目を閉じる。

「それは、鬱病の影響ですよね?」

「ああ、病気のせいだから仕方ないのはわかる。けれどこのままでは、俺も病気になりそうだ」

 両手を額で組んで顔を伏せる颯太へ、旭がグラスを差し出す。

「飯島さんは、奥さんのことを今も愛しているんですよね?」

「勿論。僕は不倫する人の気持ちがいまいちわからない。多分僕は、誰かのために何かを尽くしてあげることで自我を保っている人間だからだと思う。僕のしたことで誰かが笑顔になってくれるのが、僕にとって一番の生き甲斐なんだ。でも、何をしても何も返してくれない佳世子を見ていると、酷く寂しい気持ちになってしまう」

 颯太はグラスを受け取り、軽く口をつけた。

 透き通る真紅の液体に、正気の抜けた自分の顔が映りこむ。その歳不相応に老け込んだ顔を見て、溜め息が出る。

「飯島さん、あなたもわかっていると思うけど、奥さんはあなたの声どころか、きっと誰の声も届かない。あなたを愛していないからではなく、現実全てが見えないし聞こえない。五里霧中を彷徨っているような状態です」

「うん、うん、そうだ。そうなんだ。けれども、なんていうかっ、じゃあ僕はどうすれば壊れないで済むだろうか。そしてどうすれば、彼女を救い出せる? あまりに無力な自分が嫌で、孤独な今が苦しくて、どうにかなってしまいそうだ……」

 頭を抱え込む颯太に対し何を言ってやれるかと、旭は思考を巡らせた。

 景親の場合、颯太のように取り乱すことはなく、一人で頑なに回答を導き出そうとする。彼のタフな姿勢は非常に頼もしいが、何かのタイミングでその姿勢のままくずおれてしまうのではないかと、不安に駆られてしまうことがある。しかし、景親自身も自分の性質を理解しているため、自分が擦り切れそうな時は旭を頼る。頼ると言っても特別な会話をするわけではなく、ただ甘えてこられるだけだ。

 ただ甘えているだけだが、景親にとっては良薬となっている。

 颯太には、これと同じような良薬が必要なのかもしれない。

 空のグラスを下げ、もう一杯、今度はシンプルにジントニックを提供する。

「飯島さん、だったらあなたは、佳代子さんを彼女の両親の許へ戻されたらどう?」

「そんなことできるわけないだろう! 僕は彼女を死ぬまで愛し、幸せにすると決めている。その上、佳代子の両親はもういない!」

「だったら」

 弱事ばかり捲し立てる飯島を制するように、旭は声を荒げた。

 飯島はようやく顔を上げて、旭と目を合わせる。

「奥さんを養う責任感があるのだったら、まずはあなたが立ち直るための、自分自身を癒すものを探すべきだ。あなたがくじけていては、何も変わりません。読書とか音楽鑑賞とか、何かあるでしょう?」

「癒し?」

 旭はいつになく真剣な眼差しだった。

「今のあなたは、落ち着いて自分を癒す必要があると思います。自分の心をきちんとコントロールできなければ、奥さんと共倒れしてしまいます」

 本気で問題を解決したいならば、現状に打ち拉がれるのではなく、立ち向かう方法を考えなければならない。

 旭はそういうことを言っているのだ。

 颯太はしばし沈黙していたが、やがてその顔つきを歪ませ、カウンターに涙を落とした。

「……ごめんな日向くん。君の言うことは正しい。本気でどうにかしたければ、僕がきちんとしなければならないのは当然だ。僕はね、自分の罪に相応しい苦しみを味わう必要があると、自分に言い聞かせている。だから、勝手に戒めとして、幸せになることを拒んでいた。それなのに、その苦しみがなぜ自分に降り注いでいるのか、よくわからなくなって、忘れて、まるで被害者のようにここでしょうもない弱音を吐いてしまった。本当に、申し訳ない。こんな茶番に付き合わせて」

 颯太の言っていることは、旭にはさっぱりわからない。

「あの、飯島さん? 罪って一体なんのこと? なぜあなたは自分で自分を追い込んでいるんです?」

 颯太はジントニックを一口呷あおる。

 爽快な後味を楽しむと、店内を見渡し、二人以外は誰もいないことを確認する。


「一人の女子高生を、僕と佳代子は殺してしまったのです」


 旭は絶句していた。

 無理もない、客が殺人犯であると自供したのだから。

「警戒しないでくれ。言葉の綾で、実際に殺したわけじゃない。殺したと同然のことをしてしまったんだ」

 旭は落ち着いたのか、一息ついた。しかし彼の美しい顔は未だに引きっている。

「変なこと言わないでください。飯島さんのこと、信用できなくなります」

「驚かせてしまって申し訳ない。これ以上はよした方がいいかな」

「いえ!」

 立ち上がりかけた颯太の腕を、旭が掴んで引き留めた。

「あなたは、その罪を克服できなければ破滅してしまうかもしれない。俺でいいならきちんと話を聞きます。もちろん他言しません。それに、ジントニックが飲み終わっていませんよ」

 今度は颯太が驚き目を丸くした。

「……君がそんなに情の深い人間とは知らなかったよ」

「俺も、恋人に影響されていまして」

 颯太に言われて、旭は自分でも自分らしくないと思った。

 颯太のことなど、旭の人生には関係ない。

 こんな風に客のプライベートに踏み込むのは決して良いこととは言えないが、なぜか無性に気になってしまったのだ。

 仏頂面のくせに熱い心を持っている景親に、多少なりとも影響されていると考えられる。

「では、ちょっとだけ話すよ。これから話すことは他言しないでね」

 颯太は座り直すと、ジントニックのグラスを手に取り、語り始めた。

 颯太の位置からは死角となる場所へ、ひっそりと景親が顔を覗かせたため、旭に緊張が走った。遠目でこちらを睥睨する景親は、無言で首を横に振っていた。

——俺の存在をその男には教えるな——

 そんなところだと思われる。

 バイト終わりに迎えに来てくれるとは言っていたが、彼は何を考えているのだろうか?

 先ほどの颯太の爆弾発言を耳にしてしまったのだろうか?

 颯太が景親に気がつかないでいてくれることを、旭は心の底から願った。



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