幕末魔王伝【完全版】

橋本洋一

第一幕【壬生浪士組】

第1話信長、死ななかった

「敵の旗印は――桔梗の紋! 明智あけち勢にてございます!」


 小姓の森乱丸もりらんまるの報告を聞いた、戦国の覇王にして第六天魔王である織田信長おだのぶながは「……是非もなし」と呟いた。

 信長はもはや逃げられぬと覚悟を決めた。目の前に広がる大勢の敵兵もそうだが、あの光秀みつひでには手抜かりなどないと長年の経験から判断できた。


「乱丸。儂は奥の間にて腹を切る」

「……っ! 無念にございます!」


 涙を流す乱丸の頭をそっと撫でた信長は「お前は逃げて生きよ」と優しく告げた。


「お前の親父――可成よしなりに、あの世で怒られてしまうわ」

「……これでも、武士の端くれ。上様が穏やかに腹を召されるよう、尽力いたします」


 槍と弓矢を携えたまま、一礼して乱丸は敵兵の元へ向かった。

 信長は「うつけが。せっかく生かしてやろうと思うたのに」と乾いた笑みを浮かべた。

 他の小姓たちに見送られて、本能寺ほんのうじの奥の間へ向かう信長。


 辺り一面に火が回っていた。

 部屋の中央で、ゆっくりと腰を下ろす信長。

 彼の好んだ敦盛あつもりを舞うことは叶わなかった。


「後、五年あれば……」


 後悔は尽きない様子の信長。

 そしてゆっくりと目を閉じた――



◆◇◆◇



 再び目を開けたとき、信長はぎょっとした。

 腹を切るための短刀がない――いやそれよりも不思議なことに。

 彼はいつの間にか、寺内から外にいたのだ。


「……夢、でも見ているのか?」


 細い小道の真ん中に正座していた。

 左右には木でできた壁があり、前後真っすぐに伸びている。

 時刻は襲われたときと同じで夜だった。

 しかし深夜というほどではない。前方には人の行き交う姿が見える。


「どうやら、現のようだが……まあいい。妙覚寺みょうかくじへ向かうか」


 とにもかくにも、動かなければ話にならんと信長は立ち上がり、膝に着いた土埃を払って歩き出す。寝巻姿で素足だ。あまり冷えないことから、季節は謀反を起こされたときと変わりないようだ。つまり、季節は五月か六月。


 小道から大通りに出ると、人が多いことに驚く。

 しかも見慣れない店が目立った。

 呉服屋や酒屋、宿屋も多く並んでいる。

 信長は京の隅から隅まで知っているわけではないが、ここまで賑わっている通りに見覚えがないのは驚きだった。


「うん? あなた、おかしな格好していますな」


 呆然と立ち尽くしていると、商人風の男が話しかけてきた。

 身なりは控えめであるが、信長には品良く見えた。

 おそらく無用な諍いを避けるために、わざと地味にしているのだろうと信長は判断した。


「ふむ。実は迷っていてな。妙覚寺に向かいたいのだが」

「妙覚寺、ですか。寝巻姿で……」

「儂にもよく分からん。キンカン頭が攻め寄せてきたのだが……あまり京は騒がしくないようだが」


 信長の説明によく分からない様子の商人は「その恰好では何かと不便でしょう」と伴っていた者たちに命じる。


「この人に草履と上着を」

「いや。草履だけで良い。気遣い、ありがたく受け取る」


 信長は草履を受け取り、履きながら「その方、名をなんと申す?」と訊ねた。

 商人はやけに横柄な男だなと思いつつ、丁寧に答えた。


鴻池善右衛門こうのいけぜんえもんと申します」

「であるか。せがれと合流したら褒美をくれてやろう」


 ここで商人――鴻池はこの男が何者か判然としなくなった。

 大阪の豪商である自分を知らないのに、褒美を与えられる立場であるのは、ちぐはぐな気がしたのだ。


「妙覚寺はあちらにてございます」

「あい分かった。それではまたな」


 鴻池とお供の手代たちが見送る中、織田信長は妙覚寺へ急いだ。

 自分の息子が心配だったこともあるが、今の状況をいち早く知ることが重要だと思ったからだ。


「旦那様。あれは……」

「私もよく分からん。しかし一廉の人物であることは分かる」

「そう、なのですか?」

「これでもね、人を見る目はあるんだよ」


 鴻池はため息をついて「宿に帰ろう」と促した。


近藤こんどうは大した男だったが、芹沢せりざわは酷かったな。もう少し酒を控えれば、立派に局長を務められるのに」



◆◇◆◇



「歩けども、見慣れた道などないな……」


 信長は大通りを堂々と歩いている。

 それを見て京の住人がひそひそと話していた。

 所々焦げている寝巻姿なのだから当たり前だが。

 しかし元傾奇者の信長は自身が注目されることなど気にも留めない。


「あの商人が偽ったわけではないようだ。店は見覚えないが、寺などは見た覚えがある」


 しかし、信長が記憶しているより古びていることが気にかかるようだ。

 首を捻りながらも歩き続けていると「そこの者、止まれ!」と怒鳴られた。


「なんだ。この儂に言ったのか?」

「怪しい奴め! 貴様、何者だ!」


 三人の男が刀を抜いて信長を囲む。

 その後ろに涼しげな顔つきをした美少年がいた。

 信長は思わず「……乱丸か?」と訊ねた。


「……あ、私ですか? いえ、乱丸さんではありません」


 穏やかに返す美少年。

 月代さかやきを剃っていて、百人の女が全員、二度見してしまうほどの美貌を備えている。

 背はさほど高くない。信長と同じくらいだ。

 肌も透き通るほど白くて奇麗で、絹のようだと信長は思った。


「であるか。それで、おぬしらは何者ぞ?」

壬生浪士組みぶろうしぐみだ! 京の治安維持を任されている!」


 囲んでいる男の一人が喚くと、信長はその者にずいっと近づき「誰が任した?」と興味深そうに訊ねる。


「せがれの信忠のぶただか? それとも村井むらいか?」

「な、なんだこいつ……」

「まさか、光秀ではあるまい?」


 男たちは信長の奇矯な振る舞いに違和感を覚えた。

 いや、違和感ではなく、不気味さを感じた。

 刀を抜かれているのに、全く怯えないし臆さない。

 度胸が凄まじい――


「あはは。面白いおじさんですね」

「おじさん? この儂がか?」


 美少年は笑いながら「おじさんの問いに答えますと」と教えた。


松平容保まつだいらかたもり公ですよ。京都守護職の」

「松平? 徳川とくがわ家の一族か? 何故、徳川家が京を守る?」


 信長の疑問に美少年以外の男たちは、こいつ頭がおかしいのか、と考えた。

 美少年は「何故って……」と言葉を続けた。


「幕府は今、公武合体を進めていますから」

「ばくふ? こうぶがったい?」

「……おじさん。どこから来たんですか? 年若い人でも知っていますよ、そのくらい」


 美少年が眉をひそめる。

 それがまた絵になるなと信長は思った。


「いや、本能寺にいたのだが。知らんうちに見知らぬところにいたのだ」

「本能寺……お坊さんには見えませんが」

「泊まっていたのだ。そこにキンカン頭……光秀が攻めてきたのだ」


 美少年は「光秀って、明智光秀ですか?」と半信半疑で問う。

 信長は「そうだ」と答えた。


「もはやこれまでと思った儂は、寺を枕に腹を切ろうとしたのだ」

「……あの。ちょっとおかしなこと、訊いていいですか?」


 美少年は困った顔で言う。

 信長は何のことかさっぱり分からない。


「あなたは――織田信長ですか?」

「いかにも。織田前右府信長おださきのうふのぶながである」


 美少年はぽかんと口を開けた。

 男たちも信長がそうであるとは思えず、反応できなかった。


「何をそのように驚いておる? ま、この信長がここにいることとは、誰も思わんか」

「……そうでしょうね。絶対誰も思わないです」

「であるか。さて、多くの問いに答えたのだ。行かせてもらうぞ」


 信長はさっと行こうとした――美少年が素早い足運びで信長の進路を塞ぐ。

 その見事な身のこなしに、こやつなかなかできるな、と信長は感じた。


「何用ぞ?」

「……ちょっと屯所とんしょまで来てください。いろいろと話したいことがありますから」


 男たちは「正気ですか!?」と美少年に詰め寄った。


「こいつを連れて帰るんですか!?」

「そういうことになります。私ではこの人が本物か判断付きませんので。山南やまなみさんなら分かるでしょう」


 美少年は信長に向き合って「お時間を取らせてしまいます」と言う。


「それにきっと、どこへ行ってもあなたは納得しないでしょう」

「どういうことだ?」


 美少年は「私も信じられないことですが」と前置きしてから言う。


「あなたは――およそ三百年前に死んだはずなんですよ、織田信長さん」

「……三百年前?」

「信じられないとは思いますが……おっと、自己紹介が遅れました」


 美少年は穏やかに笑ってから顔を引き締めた。


「私は、沖田総司おきたそうじといいます。壬生浪士組の隊士をやっています」

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